演説
西日が、城壁を赤く染め始めていた。
昼の熱気はとうに失せ、代わりに鉄臭い風が街を吹き抜けている。
政庁の前には無数の死体が折り重なり、その向こうでは黒い人影が、まだ揺れ続けていた。
生者と死者の境界は、もう曖昧になっている。
◇
「押せぇぇぇッ!」
――ドォンッ!!
バリケードが大きく軋んだ。
積み上げた執務机が数寸ずれ、書類が宙へ舞う。
「なんでもいい!重いもん持ってこい!」
「南側の支柱が割れます!」
「なら本棚を倒せ! 重けりゃ何でもいいつってんだろ、隙間を埋めろ!」
ダンデ・クロイスは、汗に濡れた額を乱暴に拭った。
何時間持ちこたえただろうか。
槍を持つ職員の腕は震え、弓兵の矢筒も底をつきかけている。
それでも誰一人、持ち場を離れなかった。
外から響く無数の呻き声。
木材を叩く爪。
肉を噛み千切るような湿った音。
バリケード一枚を隔てた向こう側には、地獄が詰まっていた。
ダンデは静かに剣を抜く。
刃が夕陽を映し、赤く輝いた。
「……もう保たん」
誰も返事をしない。
「ここを破られれば、政庁は終わりだ」
職員たちの視線が集まる。
恐怖。
疲労。
諦め。
その全部を、ダンデは睨み返した。
「……静かに聞け。」
「俺は治安局だ」
「市民を守るために給金を受け取っている」
「諸君らは知っているだろう。」
「この扉が破られれば、我々は助からん。」
「降伏を叫ぶ者もいるだろう。逃げ道を探す者もいるだろう。」
「好きにしろ。」
「私は止めん。」
「だが、一つだけ教えてやる。」
「人は必ず死ぬ。」
「病で死ぬ者もいる。」
「老いて死ぬ者もいる。」
「酒場で喧嘩して犬のように転がる者もいる。」
「その程度の違いしかない。」
「ならば選べ。」
「何のために死ぬ。」
「我々の後ろには、市民がいる。」
「老人がいる。」
「子供がいる。」
「妻がいる。」
「彼らが眠る明日を、一時間でも、一分でも延ばせるなら。」
「その一分は、お前の命より重い。」
「勘違いするな。」
「私は英雄になれとは言わん。」
「正義を語る気もない。」
「私は治安官だ。」
「仕事をする。」
「犯罪者を止める。」
「市民を守る。」
「それだけだ。」
「今日ここで死ぬなら、それは仕事を終えたというだけの話だ。」
ダンデは剣を抜く。
刃が石畳を擦り、耳障りな音を響かせた。
「聞け。」
「向こうは狂信者だ。」
「狂っている者は死を恐れない。」
「だから強い。」
「だが――」
彼は笑った。
「我々は正気だ。」
「正気のまま死地へ踏み込む者ほど、厄介な人間はいない。」
「扉が破られたら迎え撃て。」
「腕が折れたら噛み付け。」
「噛む歯が折れたら喉を締めろ。」
「血を流せ。」
「叫べ。」
「最後の一人になるまで立て。」
「奴らに教えてやれ。」
「ここは政庁だ。」
「この国の法が最後まで立っていた場所だ、と。」
彼はゆっくりと振り返る。
「諸君。」
「勤務終了まで、あと少しだ。」
「では――」
剣先を正面へ向ける。
「職務を開始する。」
彼は剣先を正面扉へ向けた。
「最後まで職務を果たすぞ」
「「了解!!」」
その声だけは、恐怖を押し返すほど力強かった。
直後。
――ドォンッ!!
正面扉の板が、一枚弾け飛んだ。
腐った腕が、隙間から突き出される。
「突け!」
槍が一斉に差し込まれた。
腕が千切れる。
だが、向こう側の死者たちは止まらない。
一体。
二体。
三体。
隙間へ顔を押し込み、割れた顎を鳴らしながら中へ入ろうとする。
ダンデは短く舌打ちした。
「おいでなすったな」
◇
——治安局。
局長室。
重厚な机へ肘をつき、治安局長は震える手で酒を煽っていた。
どうしてこうなった。
首無し死体事件。
魔力禍。
教団。
アンデッド。
最悪だ。
これだけ事件が重なれば、執政官も議会も黙っていない。
責任は誰が取る?
決まっている。
局長である私だ。
違う。
私の責任ではない。
予算不足だった。
人員不足だった。
勇者の到着が遅れた。
教団が異常だった。
そうだ。
私は悪くない。
報告書をまとめよう。
現場判断の遅れは各課長。
失踪事件の初動は第一課。
政庁警備は第二課。
地下書庫の管理は記録官。
責任を細分化すれば、私までは届かない。
私は生き残れる。
そうだ。
生き残れば――。
「本当に?」
声がした。
局長は肩を震わせる。
「だ、誰だ!」
いつの間にか扉の前へ、エドワード・マリスが立っていた。
無表情。
いや。
口元だけが笑っている。
「局長」
「責任というものは、上に立つ者が負うものですよ」
一歩。
また一歩。
静かに近づく。
「まあ、私にはどうでもよろしいのですが」
「残された私の仕事は、この治安局を混乱させることですので」
「局長が指揮を取らないのなら、それはそれで重畳」
「ただね」
エドワード・マリスは、袖口から短剣を抜いた。
「貴方のような無能なら、死んでても生きてても、大した違いはないのでしょうが——」
「ま、待て!」
局長は壁に掛かっていた見栄のために飾っていた装飾用の剣を掴む。
だが、抜くより早く。
黒い影が視界を横切った。
ズブリ。
喉元へ短剣が深々と沈む。
「が……ぁ……」
局長は自分の首へ手を伸ばした。
温かい血が止まらない。
エドワードは倒れていく局長を冷たく見下ろした。
「貴方の部下が可哀想だ」
「他人事ながら、そう思いますよ」
椅子が倒れ、重い音が部屋へ響く。
治安局長死亡。
指揮系統は、その瞬間に崩壊した。
エドワードは血のついた短剣を布で拭った。
「さて」
「もう少し、局員の数を減らしておきましょうか」
「位の高いものから順番に……ね」
◇
「お母さぁぁぁぁぁん!」
細い泣き声が、路地へ響いた。
ローレンは足を止める。
政庁までまだ距離がある。
だが石畳の中央では、小さな少女が泣きながら座り込んでいた。
五、六歳ほどだ。
周囲では数体のアンデッドが、呻きながら近づいてくる。
「ちっ……!」
ローレンは歯を食いしばった。
今向かわなければ、政庁は危ない。
ダンデたちが待っている。
分かっている。
分かっているのに。
目の前の子供を見捨てることなど、できなかった。
「……悪いな、ダンデ」
剣を抜く。
「隊長が子供を見捨てたら終わりだ」
ローレンは駆け出した。
一閃。
二閃。
三閃。
アンデッドの首が、次々と宙を舞う。
ローレンは少女を抱き上げ、そのまま石畳を疾走した。
背後から死者が押し寄せる。
その群れを薙ぎ払いながら、部下へ指示を飛ばす。
「今からこの子を安全な場所に避難させる!」
「お前たちは政庁へ向かえ!」
ローレンが叫んでいる間も、死者の群れは途切れない。
ベテランの兵が苦い顔で返した。
「了解しました、と言いたいところですが」
「さすがに数が多すぎます」
「隊長一人では、その子を届ける前に囲まれます」
「我々もお供します」
その声に、六人の兵士が名乗り出た。
「俺も行きます!」
「俺も!」
「隊長一人に押しつけられません!」
ローレンは一瞬、彼らを見た。
市民には、モンスター襲撃時には各ギルドや教会など、人を収容できる施設へ避難するよう伝えてある。
ここから最も近いのは、商人ギルドの会館。
距離はおよそ二キロ。
通常時なら何でもない。
だが今は、アンデッドが溢れる街だ。
たった七人で、子供を抱えて、その距離を抜けなければならない。
(死ぬかもしれんな)
そう考えた。
だが、抱き上げている少女と目が合う。
ローレンは咄嗟に笑ってみせた。
「良いだろう」
「この七人で商人ギルドの会館を目指す」
「残りは政庁へ向かえ」
「到着したら、ダンデ・クロイスという男の指示に従え」
「気前よく死ねと命じてくれるだろう」
「以上!」
「掛かれ!」
ローレンの号令で、兵士たちは一斉に走り出した。
政庁へ。
避難所へ。
生きている者を、少しでも多く残すために。
だが、その道は無数の死者で埋め尽くされていた。
◇
「いやぁぁぁぁ!」
商人ギルド近くの避難所に、悲鳴が響いた。
一人の男が床へ倒れ込む。
「腕が……!」
アンデッドに噛まれた右腕は黒紫色へ変色し、血管が蛇のように浮き上がっていた。
噛んだのはゾンビだった。
男の呼吸が荒くなる。
瞳孔が開く。
「助け……」
言葉は途中で途切れた。
ゴキリ。
首が不自然な角度へ曲がる。
次の瞬間。
「ガァァァァッ!!」
男が妻へ飛び掛かった。
「きゃああああ!」
「離せ!」
「噛まれた!」
「感染するぞ!」
避難民は我先に出口へ押し寄せる。
泣き叫ぶ子供。
転倒する老人。
押し潰される女。
絶望は怪物より速く、人々の心を食い破っていった。
「出口を塞ぐな!」
「押すな!」
「誰か止めろ!」
叫び声だけが増える。
誰も、誰の言葉も聞いていない。
恐怖に駆られた群衆は、もう一つの怪物だった。
◇
エディンムが辺り一面を吹き飛ばした集積場跡地。
そこで、レオヴァンの戦斧が火花を散らしていた。
セレスティアは息を整えながら、戦況を見極める。
魔力の消耗が激しい。
ここで大技を連発すれば、その後が持たない。
レオヴァンに、氷刻の円剣の欠点を指摘されたことを思い出す。
氷刻の円剣は、技の威力を三倍に引き上げる。
代わりに、消費魔力は六倍に跳ね上がる。
短期決戦なら強い。
だが、相手が倒れなければ、自分が先に潰れる。
「援護する!」
セレスティアは剣を地面へ突き立てた。
「氷鎖!」
青白い魔法陣が広がり、エディンムの足元だけを瞬時に凍結させる。
わずかな拘束。
しかし、それで十分だった。
「今だ!」
「応ッ!」
レオヴァンは巨大な戦斧を両手で掲げる。
獅子穿つ戦斧――レヴァーンハウ。
その柄へ掌を当てた。
「吠えろ! レヴァーンハウ!」
「英雄へ牙を貸せ!」
蒼い光が戦斧全体へ奔る。
レオヴァンが吼えた。
「獅子王破砕斬ッ!!」
轟音。
戦斧が一直線に振り下ろされる。
エディンムの胸元から腰まで、深々と裂けた。
鮮血が噴き上がる。
「ガァァァァァァァッ!!」
断末魔。
身体は膝をつき、崩れ落ちる。
土煙が舞った。
セレスティアは剣を構えたまま息を吐く。
「……やったか?」
だが。
レオヴァンの表情だけは変わらない。
「違う」
「手応えが軽すぎる」
違和感の正体に気づく前に、レオヴァンは危険を察知した。
「セレス!」
「後ろ――」
言葉は間に合わなかった。
ヌッ。
背後の空間が歪む。
冷たい腕が、セレスティアの身体へ絡みついた。
「っ!」
完全に羽交い締めにされる。
「な……!」
目の前では、切り裂かれたエディンムが黒い霧となって消えていく。
分身。
最初から偽物だった。
本物は、姿を消したまま戦場を眺めていたのである。
セレスティアの両腕を、黒い靄が締め上げる。
頭の上で拘束された腕に痛みが走った。
耐えきれず、氷刻の円剣が手から落ちる。
カラン。
金属が地面に転がる音が、やけに大きく響いた。
耳元で、低い笑い声がする。
「……飽きたな」
エディンムはそう言いながら、セレスティアの身体を艶めかしく撫で回した。
頬に舌を這わせる。
セレスティアの喉が震えた。
怒りか。
嫌悪か。
あるいは殺意か。
そのどれでも足りない顔だった。
エディンムは、長く伸ばした爪をセレスティアの首筋へ添える。
「勇者ごっこにもな」
レオヴァンは戦斧を構えたまま動けない。
「動けば、この女の首が飛ぶ」
沈黙。
夕焼けの中で、三人だけが静止した。
エディンムは愉快そうに笑う。
「交渉しよう」
「武器を捨てて降伏するなら、この女だけは解放してやる」
その言葉は、沈みゆく夕陽よりも冷たく、戦場へ落ちた。
レオヴァンの指が、戦斧の柄へ食い込む。
歯が軋む。
セレスティアは首筋に爪を当てられたまま、低く吐き捨てた。
「捨てるな」
「私ごと斬れ」
エディンムが目を細める。
レオヴァンは笑わなかった。
軽口も出なかった。
ただ、獣のように低く唸っていた。
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