彼女に、興味を持たれてはならない。
私がこの世界で目を覚ました時、そこは高い塔の中だった。
塔を造った人たちは、もう誰もいなかった。
私は長い間、一人でそこにいた。
どれくらいの時間が過ぎたのかは覚えていない。
けれど、ある日。
彼が来た。
そして私を牢獄から連れ出してくれた。
彼は悪人だった。
少なくとも、人々はそう呼ぶだろう。
けれど私は知っている。
彼の心の奥には、まだ小さな光が残っていることを。
だから私は彼を助けることにした。
主よ。
きっと大丈夫です。
この人も、いつか誰かを愛することができるようになりますから。
???の観察録より抜粋——
◇
ヴァーミリオン男爵邸で住み込みで働き始めてから、ロバート・デーンの人生は大きく変わった。
部屋と仕事用の服が支給されるのは理解できる。
だが、それだけではない。
屋敷を出入りする際に都合が悪いからと、私用で出かけるための服まで用意された。
さらに母親のためにと、チーズや塩漬け肉などの保存食まで定期的に実家に届けられている。
今までの不安定な暮らしが、まるで悪夢だったように思えるほどだった。
そんなことを考えながら庭の手入れをしていると、不意に声をかけられた。
「どう? 仕事はもう慣れた?」
振り向くと、そこにはルーシュがいた。
隣にはギルエルもいる。
ロバートは返事をしようとして、ふと屋敷で働き始めた初日にアウグストゥスから言われたことを思い出した。
――そのうち話す機会もあるだろうから、先に言っておきたいことがある。
――娘のことなのだがね。
――あの子はお喋りで、人と一緒にいるのが好きなのだ。
――だから君にも話しかけるだろう。
――その時、あの子の好奇心や関心を刺激するような発言には気をつけてくれ。
――面倒なことになるのでな。
当時のロバートには意味がよく分からなかった。
それでも必死に考えた結果、
(要するに、お嬢さまを誘惑するなってことだろうな)
という結論にたどり着いた。
そして慌てて否定したのだ。
「あ、あの! お嬢さまに手を出そうとか、そんなことは一切考えてませんのでご安心ください!」
「貴族の娘に手を出そうなんて、流石にそこまでオイラも馬鹿じゃないんで!」
するとアウグストゥスは珍しく声を上げて笑った。
「あっはっはっはっは!」
「そういう意味ではないよ」
そう言った。
だが、その目は笑っていなかった。
ロバートの反応を観察するように見つめていた。
(あまり理解していないようだな)
(まあ無理もないか)
(あれは少々、特殊な事情だからな……)
しばらく考えたあと、アウグストゥスは話題を変えた。
「あっはっはっは。だが娘ももういい年だ。一度くらい恋愛をしてほしいものだがね」
「そう言えば、恋愛どころかそろそろ結婚相手を探してやらねばならん年齢だったな」
そう言ったあと、急に真面目な顔になる。
「それはともかく、アエーシュモーに仕事を頼まれているのだろう?」
「もう行っていい。仕事に戻ってくれたまえ」
そこで話は終わった。
(好奇心や関心を持たせるようなことは言うな……か)
今でも意味はよく分からない。
だが世間話程度なら問題ないだろう。
そう考えてロバートは笑顔を浮かべた。
「ええ。ここに来てもう一週間になりますから」
「簡単なことなら大体何でもできますよ」
「もともと色んな仕事の雑用をしてたんで、覚えるのは早いんです」
そう言った時だった。
ふわりと風が吹く。
ルーシュの香りが鼻先をかすめた。
花のような甘い香り。
だが、それ以上に目を奪われたのは彼女の横顔だった。
陽光を受ける薄桃色の髪。
伏せられた瞳。
どこか寂しげな表情。
思わず口が滑る。
「お嬢さまって……」
ルーシュが首を傾げた。
「ん?」
「なんて言うか、その……綺麗ですよね」
言った瞬間だった。
アウグストゥスの忠告が脳裏をよぎる。
――好奇心や関心を刺激するような発言には気をつけてくれ。
(しまった!?)
背筋が凍りついた。
慌てて取り繕う。
「あ、いや! そういう意味じゃなくてですね!」
「その、ほら! 髪とか! 服とか!」
「貴族の方らしいと言いますか!」
しどろもどろになるロバート。
しかし、もう遅かった。
ルーシュはぱちぱちと瞬きを繰り返している。
まるで珍しい虫を見つけた子供のように。
「へぇ……」
ぽつりと呟いた。
「私、綺麗なんだ」
「え?」
「素直に言われたのは初めてかも」
ロバートは固まった。
貴族の娘なら、そんな言葉は何度も言われていると思っていた。
だがルーシュは本気で言っている。
少なくとも嘘をついているようには見えなかった。
「そ、そうなんですか?」
「うん」
ルーシュは少し考えるように首を傾げる。
「みんな褒める時は社交辞令だから」
そう言って微笑んだ。
愛らしい笑顔だった。
なのに何故か。
ロバートの背筋を冷たいものが這い上がる。
「お嬢さま!」
慌てた声が飛んできた。
ギルエルだった。
「そうです! そう言えば我、今日街でとても大きなパンを見たのです!」
「大きなパン?」
「はい!」
「巨大なパンです!」
「どれくらい?」
「これくらいです!」
ギルエルが両手をいっぱいに広げる。
「えっ!? そんな大きなパン見たことない!」
「ほ、本当なのです! 我は嘘を言いません!」
「じゃあ見に行こう! すぐに!」
「はいなのです!」
「今すぐ行くのです!」
「あ、でも外出するなら義父さまの許可を取らないと……」
「なら取りに行きましょう!」
「旦那さまもきっと良いと言ってくれます!」
ギルエルは露骨なほど強引に話題を変え続ける。
ルーシュは返事をしながらも、ずっとロバートを見ていた。
まるで何かを観察するように。
ロバートは居心地の悪さを覚えた。
(なんか変な空気になったな……)
慌てて頭を下げる。
「すみません! オイラ、まだ仕事が残ってるんで!」
「失礼します!」
逃げるように剪定鋏を持ち、庭木の方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、ルーシュは小さく呟く。
「綺麗、か」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「変な人」
普通の人間なら、そこで終わる感想だった。
だがルーシュは違った。
ロバートの顔が頭から離れない。
自分を見て目を逸らさなかった少年。
慌てて誤魔化そうとして失敗した不器用な言葉。
そして――。
綺麗だと言った声。
まるでお気に入りの本の一節を何度も読み返すように、その記憶を反芻する。
「面白いなぁ」
ルーシュは微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、ギルエルの顔から血の気が引く。
何かを悟ったからだ。
ルーシュは遠ざかるロバートの背中を見つめながら、楽しそうに呟いた。
「もっとお話してみたいかも」
その感情が好意なのか。
興味なのか。
それとも全く別の何かなのか。
少なくともギルエルには分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
ロバートはまだ、この屋敷で働くための本当のルールを理解していなかった。
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