残り2日 昼(集積場にて)
夫のホワイトと知り合ったのは、貴族の方々が開いたティーパーティーでしたわ。
自慢ではありませんけれど、私も貴族ではないとはいえ、良家の娘でしたの。
そういう社交の場には、何度も顔を出しておりました。
それはそうと、ホワイト。
あの人ったら、礼服もろくに着こなせなくて。
襟は曲がっているし、手袋は左右で違うし、不格好なまま出席して、皆様に笑われておりましたのよ。
でも、私はそれで良かった。
権謀術数を張り巡らせる貴族や商人の会話には、もう辟易しておりましたから。
そんな世界で、あの人だけは。
私を商品でも、駒でも、家の看板でもなく。
ただのロゼとして見てくれた。
え?
なぜ、こんな話をするのかですって?
それはですね……。
――ロゼの回想録より抜粋
◇
昼の陽射しは、容赦なく倉庫街を照らしていた。
積み上げられた木箱が長い影を作り、風が吹くたび、麻袋の口がぱたぱたと鳴る。
本来なら荷役夫の怒鳴り声と、荷馬車の車輪が響く場所だった。
だが今、この物流集積場にある音は一つしかない。
黒い外套の集団が、石畳を踏み締める足音だけだった。
◇
「来るぞ」
レオヴァンが低く唸った。
次の瞬間、黒い外套の男たちが一斉に駆け出す。
普通の人間なら躊躇する距離。
普通の人間なら恐怖で足が止まる光景。
だが、理性を失った彼らには、恐怖も痛みも残っていなかった。
「邪魔だァァァ!」
レオヴァンの戦斧が唸る。
最前列の男を胸ごと吹き飛ばし、その勢いのまま二人目を巻き込んで石壁へ叩き付けた。
鈍い破砕音。
それでも後続は止まらない。
倒れた仲間を踏み越え、黒い靄を吐きながら迫ってくる。
「黒山羊を讃えよ……」
「毒ヘビを讃えよ……」
「鬱陶しい!」
セレスティアが踏み込んだ。
白銀の剣が閃く。
手首だけを正確に断ち、膝を薙ぎ払い、一息で三人を戦闘不能にする。
殺してはいない。
急所は外している。
悪魔憑きである以上、助けられる可能性を捨ててはいなかった。
しかし。
「……!」
倒れた男が、あり得ない角度に折れた腕をぶら下げたまま立ち上がった。
骨は折れている。
靱帯も切れている。
それでも歩く。
「痛覚まで殺されているのか」
セレスティアの表情が険しくなる。
「いや」
レオヴァンが鼻を鳴らした。
「違うな」
「あれはもう、中にいる奴が動かしてやがる」
その言葉と同時だった。
黒い靄が、男たちの身体を糸のように繋ぎ始めた。
一本。
二本。
十本。
首、腕、背骨、足首。
まるで操り人形だった。
「……悪魔か」
セレスティアが呟く。
「倉庫の中だ!」
レオヴァンが叫んだ。
「ロゼ夫人の匂いも、あの黒い匂いも、全部そこからしてやがる!」
「なら、道を開ける!」
セレスティアが剣を振るう。
凍てつく魔力が石畳を走り、外套の男たちの足元を一斉に凍らせた。
「今だ!」
レオヴァンが一直線に駆ける。
その巨体からは想像できない速度だった。
倉庫まで残り十歩。
八歩。
五歩。
――ドォン!!
倉庫の大扉が、内側から吹き飛んだ。
木片が雨のように飛び散る。
レオヴァンは咄嗟に腕で顔を庇った。
煙が晴れる。
倉庫の中は薄暗かった。
天井近くまで積まれた木箱。
床へ描かれた巨大な魔法陣。
その中央に、一人の女が椅子へ縛り付けられている。
「ロゼ夫人!」
ホワイト・バレッタの妻。
ロゼ・バレッタは眠ったままだった。
目立つ傷はない。
だが、彼女の周囲を黒い靄が蛇のように這い回っている。
そして、その背後。
魔法陣の中心に立つ黒い外套の男が、ゆっくりと両腕を広げた。
「歓迎しよう」
掠れた声だった。
「勇者セレスティア」
「勇者レオヴァン」
外套の奥は見えない。
仮面を付けているのか。
顔そのものが闇に溶けているのか。
判別できない。
ただ一つ。
男の周囲だけ、空気が黒く淀んでいた。
「貴様が、教団の……!」
セレスティアが一歩踏み出す。
男は肩を震わせ、小さく笑った。
「教団?」
「違う」
「私は、ただの案内人だ」
その瞬間。
黒い外套の男が、自らの胸へ手を突き立てた。
ぐしゃり、と肉の潰れる音。
レオヴァンが目を見開く。
「自害だと!?」
男の身体が崩れ落ちる。
だが、胸の傷口から噴き出したのは血ではない。
大量の黒い靄だった。
靄は魔法陣へ吸い込まれていく。
床一面の紋様が、赤黒く輝き始めた。
セレスティアの顔色が変わる。
「まずい!」
「召喚陣だ!」
倉庫全体が震え始めた。
いや、倉庫だけではない。
集積場全域が、地響きを上げて唸りだす。
「何だ何だ、やべぇんじゃねーか!」
レオヴァンの獣耳が伏せられる。
肌が粟立っていた。
理屈より先に、本能が危険を叫んでいる。
「一旦引いた方がいい!」
セレスティアが即座に否定する。
「駄目だ!」
「ロゼ夫人がまだ中にいる!」
正しい。
セレスティアの言っていることは正しい。
だが、レオヴァンの本能は最大級の警鐘を鳴らしていた。
身を守れ。
距離を取れ。
今すぐ逃げろ。
勇者を名乗ってから今に至るまで、これほど露骨に身体が拒否した相手はいない。
これから現れるものは、過去最高の脅威だ。
レオヴァンは内心で震えていた。
だが、臆病者と見られることを極端に嫌う獣人の性が、その恐怖を軽口で塗り潰す。
「オーケー、姫様」
「じゃあ俺がひとっ走りして、ロゼ夫人の王子様を演じてくる」
セレスティアは鼻で返した。
「ふん、似合わんな」
「うるせぇ」
レオヴァンが危険を前に軽口を叩く時は、本当に危ない時だ。
セレスティアは経験で知っている。
だからこそ、彼女もまた警戒心を最大まで尖らせ、召喚陣の気配を探った。
魔法陣の中央から、黒い靄が大量に溢れ出す。
それは徐々に、人の姿を形作っていった。
まず右足。
次に太腿。
胸。
右腕。
最後に現れたのは、美しく、そして生者とは思えないほど青白い女の顔だった。
女は裸足で魔法陣の上へ立つ。
長い髪は濡れた闇のように背へ落ち、唇だけが血を吸ったように赤い。
エディンム。
リッチーの始祖。
亡者の王リッチーは本来、強力な魔法使いや高名な錬金術師が、不老不死を求めた末に辿り着く成れの果てである。
だが、その魔法使いや錬金術師たちが原型とした存在。
最初のリッチー。
それが、エディンムだった。
レオヴァンの額を冷や汗が伝う。
「ロゼ夫人のことは諦めろ」
低く、セレスティアへ告げる。
「勝つことだけに集中しろ」
「じゃなきゃ、みんな死ぬぞ」
「あれはどう見ても厄災級だ」
厄災級。
一都市を消滅させるほどの力を秘めたモンスターに与えられる格付け。
本来は、複数人の勇者で討伐する化け物である。
レオヴァンは勝つことに集中しろと言った。
実際には、生き残ることに集中しろと言うべきだった。
そう言わなかったのは、勝てないと思わせれば、セレスティアが意地になってロゼ救出を主張すると分かっていたからだ。
だが、その気遣いは無意味だった。
「はぁぁぁあ!」
セレスティアは気合と共に踏み込んだ。
俊足。
一瞬でエディンムとの間合いを詰める。
氷刻の円剣フロストグレイスが、白い軌跡を描いた。
――ガキン!
鈍い音。
エディンムは、剥き出しの腕でその剣を受け止めていた。
ただ、退屈そうに笑っている。
「お前が、あの方の言っていた勇者かえ?」
声は艶やかだった。
「思ったより弱いのぉ」
「くっ!」
セレスティアは剣を押し込む。
だが、腕が動かない。
氷の魔力が広がるより早く、黒い靄が刃へ絡みついた。
エディンムは軽く手首を返す。
それだけで、セレスティアの身体が流された。
「うあっ!」
バランスが崩れる。
エディンムが右手を掲げた。
地面から、黒い靄が一斉に噴き出す。
倉庫街。
集積場。
荷車の下。
木箱の隙間。
石畳の割れ目。
あらゆる場所から、死の気配が湧き上がってくる。
「妾は、こう申し付けられておる」
エディンムは、うっとりと笑った。
「コープスパーティーを引き起こせとな」
言い終わると同時に、エディンムの魔力が膨張した。
膨張に合わせて、足元の魔法陣が広がる。
倉庫を超え。
集積場を超え。
街路へ。
住宅地へ。
商店街へ。
まるで街そのものを飲み込むように、赤黒い紋様が石畳を走っていく。
地響きが止まった。
音が消える。
レオヴァンが何かを叫んだ。
セレスティアも何かを叫んだ。
だが、もう互いの声は届かない。
世界から音だけが抜き取られたようだった。
次の瞬間。
エディンムの足元から、爆風と閃光が広がった。
白ではない。
赤でもない。
黒い光。
矛盾した輝きが、倉庫街を飲み込んだ。
レオヴァンの身体が吹き飛ぶ。
セレスティアが剣を地面へ突き立てる。
ロゼを縛っていた椅子が、黒い靄の中へ沈んでいく。
木箱が砕ける。
石畳が捲れる。
建物が、音もなく崩れる。
そして――。
今日この日。
ザレイドの街の四分の一が、地図から消えた。
面白かった思う方は、ブックマーク、評価、感想をお願いします。
ログインなしで感想機能を開放しました。
お気軽に感想を書き込んでください。




