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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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残り3日 夜 (バレッタ邸にて)

貴方が私と出会ってくれて、私の孤独はどこかへ行った。


貴方が私に笑ってくれて、私の居場所がそこにできた。


貴方が私に怒ってくれて、私は一人じゃないと知った。


貴方が私を拒絶して、私の私が壊れた。


結局、私の居場所は、あの人の隣にしかないらしい。


――ルーシュの回想録より抜粋



夜のバレッタ邸は、水音だけを残して眠っていた。


庭園の噴水が暗がりの中で細く跳ね、魔導街灯の淡い光が濡れた石畳に揺れている。使用人棟の灯りは落ち、屋敷本館の窓もほとんどが闇に沈んでいた。


その闇の端を、黒い外套の男が歩いていた。


足音はない。


迷いもない。


男は庭師用の裏口へ近づき、手袋を嵌めた指で取っ手を押した。


――カチャリ。


解錠の魔法で鍵を開ける。


男は裏口から屋敷へ入り、使用人たちの寝室を避けて廊下を進んだ。曲がり角で一度も迷わない。階段の軋む段も踏まない。燭台の位置、廊下の幅、夜番の巡回間隔まで知っている足取りだった。


やがて男は、二階奥の扉の前で止まった。


ロゼ・バレッタの寝室。


黒い外套の男は、扉を押し開けた。


月明かりが室内へ差し込み、天蓋付きの寝台を青白く照らしている。香油の匂い。畳まれたガウン。枕元に置かれた護身用の短剣。


眠っていたロゼが、わずかに眉を動かした。


「……誰?」


目を開いた瞬間、男が寝台へ踏み込んだ。


ロゼは悲鳴より先に短剣を掴んだ。刃が月光を拾い、男の喉元へ走る。


だが男は半身を引いて躱し、その手首を掴んだ。


「離しなさい!」


ロゼは膝を跳ね上げる。


男の腹へ入った。


普通の人間なら息が詰まる。


だが、男は声も漏らさない。手首を掴む力だけが強くなる。


黒い魔力が、もう片方の手から滲み出した。


「世界よ、我に資格があるなら応えよ」


低い声が寝室に落ちる。


「安らかな眠りを」


「夢は現より甘くあれ」


「――《昏茨姫睡》」


灰色の靄が、ロゼの顔へ絡みついた。


「くっ……!」


ロゼは息を止め、男の手を振りほどこうとした。だが指先から力が抜ける。膝が沈む。視界の端が黒く滲んでいく。


「あなた……たちは……」


言葉は最後まで形にならなかった。


ロゼの身体が崩れ落ちる。


男は眠った彼女を抱え上げた。


窓を開け、夜の庭へ身を躍らせる。


寝台の上には、一枚の羊皮紙だけが残された。


最初から、そこへ置くために持ち込まれた手紙だった。



翌朝。


バレッタ邸に怒号が響いた。


「ロゼ!」


ホワイト・バレッタが寝室へ駆け込む。


寝台は空。


窓は開いている。


床には乱れた絨毯。枕元には落ちた短剣。そして机の上には、封をされていない一通の手紙。


ホワイトは震える指で羊皮紙を掴んだ。


そこには乱暴な文字で、必要なことだけが書かれていた。


ロゼは預かった。


返してほしければ、今後バレッタ商会は黒山羊と毒ヘビの教団へ協力しろ。


この件を治安局へ知らせれば、ロゼの命はない。


身代金を持ち、街の物流を支える物資集積場まで来い。


指示に従え。


ホワイトの喉が鳴った。


「教団……!」


怒りより先に、血の気が引いた。


ロゼを攫われた。


商会を脅されている。


しかも相手は、いまザレイド中が恐れている黒山羊と毒ヘビの教団。


迷っている時間はなかった。


ホワイトは手紙を握り潰す寸前で思いとどまり、馬車へ飛び乗った。


向かう先は一つ。


パーラメント邸。


勇者たちがいる場所だった。



午前のパーラメント邸は、来客を迎えるには穏やかすぎる陽射しに包まれていた。


だが応接室へ駆け込んできたホワイト・バレッタの顔は、死人のように白かった。


「お願いします!」


彼は礼儀も順番も投げ捨て、頭を下げた。


「妻を……ロゼを助けてください!」


セレスティアが立ち上がる。


「何があった」


「昨夜、屋敷から妻が攫われました。寝室には、この手紙だけが……!」


差し出された羊皮紙を、レオヴァンが横から奪うように取った。目を通す。眉間の皺が深くなる。


「黒山羊と毒ヘビの教団、か」


セレスティアも手紙を読む。


「集積場へ来い、と書いてあるな」


ホワイトは唇を噛んだ。


「あの集積場は、街中の荷が集まる場所です。保管庫だけでも何十棟もあります。穀物倉庫、鉄材倉庫、布地倉庫、荷車置き場……どこに連れて行かれたのか、見当も付きません」


声が掠れた。


「下手に探せば、妻が殺されます」


応接室に沈黙が落ちる。


ロゼが監禁されている場所は分からない。


手紙は集積場を指定しているだけ。


普通なら、そこで足が止まる。


だがセレスティアは、横に立つ獣人へ視線を向けた。


「レオヴァン」


「ああ」


レオヴァンは鼻を鳴らした。


「ロゼ夫人の匂いは覚えてる。集積場まで行けば追える」


ホワイトが顔を上げる。


「本当ですか……?」


「嘘ついてどうする」


レオヴァンは戦斧を肩に担いだ。


「ただし、向こうもそれくらい読んでるだろうな」


セレスティアが剣を取る。


「罠だろうと関係ない。ロゼ夫人を助ける」


「そう来なくちゃな」


二人はすぐに応接室を出た。


ホワイトはその背中を見送ることしかできなかった。


セレスティアとレオヴァン。


罠を罠と知りながら踏み込める者だけが、今のザレイドで人を救える。



物流集積場は、昼前だというのに妙に静まり返っていた。


本来なら荷馬車が列を作り、荷役夫の怒鳴り声が飛び、木箱を運ぶ音が途切れない場所である。


だが今は違う。


穀物倉庫。


木材置き場。


鉄鉱石の保管庫。


布地を積んだ荷車。


イグナティア小王国の物流を支える物資が山のように積まれているのに、人の気配だけが不自然に抜け落ちていた。


「静かすぎる」


レオヴァンが低く言った。


鼻を動かす。


「ロゼ夫人の匂いはある。だが、薄い。わざと移動させてるな」


セレスティアは剣の柄へ手を置いた。


「匂いを追わせて、こちらを誘導しているのか?」


「だろうな」


レオヴァンは笑った。


「分かりやすくて助かるぜ」


二人が中央通路へ踏み込んだ瞬間だった。


倉庫の影から、一人が出てきた。


黒い外套。


次に荷車の陰から、もう一人。


屋根の上。


通路の両側。


積み上げた木箱の隙間。


黒い外套の集団が、音もなく姿を現す。


十人ではない。


二十人でもない。


数十人。


完全な包囲だった。


「待ち伏せか」


レオヴァンが戦斧を構える。


「予定通りすぎて腹が立つな」


その時、黒い外套の一人が喉を押さえた。


「ぐ……ぁ……」


口が大きく開く。


黒い靄が溢れ出した。


一人だけではない。


二人。


三人。


十人。


やがて包囲している全員の口から、同じ黒い靄が噴き出した。


瞳から理性が抜け落ちる。


顔の筋肉が引き攣り、同じ言葉が低く重なった。


「黒山羊を讃えよ……」


「毒ヘビを讃えよ……」


「黒山羊を讃えよ……」


「毒ヘビを讃えよ……」


セレスティアは剣を抜いた。


「悪魔憑きだ。全員、正気ではない」


「じゃあ遠慮はいらねぇな」


レオヴァンが前へ出る。


黒い外套の集団が、一斉に歩き始めた。


その奥。


一番大きな倉庫の扉が、内側からゆっくり開いた。


レオヴァンの鼻がぴくりと動く。


「……いたぞ」


セレスティアの目が細くなる。


「ロゼ夫人か」


「ああ。だが近くに別の匂いもある」


「敵か」


「いや」


レオヴァンは奥歯を噛んだ。


「もっと嫌な匂いだ」


黒い靄が、倉庫の中から濃く漏れ出していた。


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