残り3日 昼(星十字教会にて)
時計塔の事件から、三日が過ぎた。
政庁の執政官室では、朝から空気が重かった。
執政官パーク・バーガーは、机の上に置かれた通信水晶を睨んでいる。
水晶の中には、王都の宰相ルア・アールの顔が映っていた。
「いえ、ですから、勇者ギルドにはすでに連絡しております」
「コープスパーティーは必ず阻止できます」
「彼らがいれば、アンデッドの群れなど案山子も同然です」
パークは汗を拭う。
「現に、イフリートもリッチーも討伐されております」
「さらにレオヴァン殿が勇者ギルドから追加の勇者を派遣してもらえる手筈を整えております」
「ご心配には及びません、ルア宰相」
水晶の向こうで、ルア・アールは不機嫌そうに目を細めた。
「問題は勇者ではない」
低い声だった。
「陛下が、貴様の街の住民が千人近くイフリートに焼かれたと聞いて、ひどく心を痛めておられることだ」
「しきりに、ザレイドは大丈夫かと私に聞いてくる」
「これ以上の被害は、何としてでも抑えろ」
「その執政官の椅子に座り続けたいならな」
「貴様をザレイドの執政官に押したのは、この私だと言う事を忘れるなよ」
パークの喉が鳴った。
ルアが欲しいのは、過程ではない。
事件解決の報告だ。
王都へ提出できる、分かりやすく、体裁の整った報告書。
追い詰められたパークは、苦し紛れに口を開いた。
「ルア宰相」
「イフリートの件でしたら、犠牲者は千人ではなく、八百人と少々です」
「四桁と三桁では印象がまるで違いますので、そこはお間違いなく」
一瞬。
水晶の中のルアの顔が、完全に止まった。
次の瞬間、怒声が執政官室を揺らす。
「馬鹿者が!」
「私はそんなことを聞いているのではない!」
「一刻も早く、事件解決の報告書を持ってこい!」
「分かったな、パーク!」
返答を待たず、通信は一方的に切れた。
水晶の光が消える。
執政官室に、重い沈黙が落ちた。
パークはしばらく水晶を見つめていた。
やがて、忌々しげに唇の端を噛む。
「そもそも……」
「奴らがちんたら捜査を進めるから、わしが怒られる羽目になるのだ」
その怒りは、事件の犯人ではなく、勇者たちへ向かった。
◇
初夏の陽射しが、ザレイドの石畳を白く照らしていた。
街路樹の葉を揺らす風は穏やかで、共和国の首都は一見、平常を取り戻しつつある。
旧時計塔での戦いは、すでに街中の噂になっていた。
黒山羊と毒ヘビの教団。
亡者の群れ。
西区を焼いた大火災との関係。
市井の人々は好き勝手に尾ひれを付けて語り、治安局は連日、教団関係者の捜索に追われている。
だが、その喧騒をよそに、一人の男だけは静かに盤面を眺めていた。
パーラメント邸の会議室。
窓から差し込む昼の陽光を背に、アウグストゥスは紅茶を一口含んだ。
机には数枚の報告書が並んでいる。
旧時計塔。
治安局の動向。
商人ギルド。
星十字教。
黒山羊と毒ヘビの教団。
どれも、彼が読むために集めさせたものだった。
「……ローレンは十分だな」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
「あれだけ見れば、治安局は教団を追う」
口元が、わずかに緩んだ。
「次は、ロゼ夫人か」
ローレンには、教団がこの街で活動していると思わせる拠点を見せた。
祭司。
リッチー。
黒い靄。
召喚門。
それだけで治安局の目は、確実に教団へ向く。
だが、それだけでは足りない。
貴族社会と教会側にも、同じ結論へ辿り着く証人が必要だった。
「別々の道から、同じ答えへ辿り着く」
アウグストゥスは紅茶を置いた。
「その方が、真実らしく見える」
彼は窓の外を眺める。
「さて」
「そろそろ始まる頃か」
◇
同じ頃。
星十字教大聖堂には、昼の祈りを終えた人々が静かに行き交っていた。
色硝子から差し込む光が、礼拝堂の床へ赤や青の十字を描く。
香の煙が高い天井へ昇り、修道士たちの賛歌が厳かな空気を満たしていた。
ロゼ・バレッタは、白髪の司祭と向かい合って座っている。
「つまり、ここ数年で黒山羊と毒ヘビの教団の動きが活発になっていたことを、星十字教会は把握していなかったのですね」
司祭は、重々しく頷いた。
「ええ」
「地方の教会からも、不穏な報告は届いておりません」
「失踪者」
「冒涜儀式」
「禁呪の痕跡」
「いずれも、この街では目立ったものは報告されていない」
彼は苦い顔で続ける。
「我々も、彼らを邪教と認識しております」
「何より王の勅命で、あの教団の監視に協力するよう命じられていた」
「それなのに、このザレイドでここまで根を張っていたとは……」
ロゼは扇を閉じた。
「旧時計塔だけで終わると考えない方がよろしいのですね」
「私も、そのように考えております」
司祭は息を吐く。
「しかし、教団の本体は姿を現しません」
「痕跡だけを残して消える」
「実行犯だけは見つかる」
「極めて巧妙だ」
「もしかしたら我々の中に内通者が居るのかも……」
ロゼの目がわずかに細くなった。
その時だった。
礼拝堂の奥で、何かが落ちる音が響いた。
ガタン。
司祭が振り返る。
「どうしました?」
一人の若い修道士が、柱へ寄りかかっていた。
肩で荒く息をしている。
「大丈夫ですか?」
別の修道士が近寄ろうとした瞬間。
若い修道士が顔を上げた。
目が、真っ黒だった。
瞳ではない。
眼球そのものが、墨を流し込まれたように黒く染まっている。
「……ッ!」
司祭が息を呑む。
修道士の口がゆっくり開いた。
そこから、黒い靄が漏れ出す。
細く。
煙のように。
生き物のように。
「まさか……!」
司祭が立ち上がった。
だが、遅い。
修道士が絶叫する。
「アアアアアアアァァァッ!!」
次の瞬間。
人間とは思えない速度で、司祭へ飛び掛かった。
「ぐあっ!」
祭服が裂けた。
鮮血が礼拝堂へ飛び散る。
司祭が床へ倒れた。
「司祭様!」
修道士たちが駆け寄ろうとする。
しかし、暴れ出した若い修道士は、次の獲物へ目を向けた。
ロゼだった。
黒い瞳が、真っ直ぐ彼女を捉える。
「……!」
ロゼは咄嗟に身を引いた。
だが、完全には避けきれない。
修道士の腕が肩を掠める。
布が裂け、白い肌へ赤い線が走った。
「きゃっ!」
ロゼが床へ倒れる。
修道士は獣のような唸り声を上げながら、再び飛び掛かろうとした。
礼拝堂が、一瞬で悲鳴に包まれる。
「逃げろ!」
「いや、取り押さえろ!」
「治療師を呼べ!」
修道士たちが必死に抑え込もうとする。
だが、暴れ狂う男は異常な力で彼らを振り払った。
口からは、なおも黒い靄が漏れ続けている。
ロゼは傷口を押さえながら、その光景を見つめた。
(あれは、黒い靄)
(旧時計塔でローレン殿が見たというものと同じ……)
(こんなところまで、教団は入り込んでいるというの?)
鐘が鳴った。
長く。
不吉な余韻を残して。
狂った修道士は、取り押さえようとした者たちを腕一本で弾き飛ばした。
その力は、すでに自身の身体の限界を超えている。
ブチブチと、筋繊維の切れる音がした。
骨が軋む。
皮膚の下で血管が破裂する。
それでも修道士は、痛みなど知らない顔でロゼへ襲い掛かる。
ロゼは床に手をつき、震える膝を叩くように立ち上がった。
「私に資格があるのなら、世界よ!私に応えよ!」
声が礼拝堂に響く。
「清浄なる理に外れし者を、秩序へ還せ」
「還せぬ狂奔は、静寂に帰せ」
「万物は正しき静寂に戻り」
「騒乱は誠に伏し給え」
「――聖神憑白!」
ロゼ・バレッタが唱えたのは、精神異常および憑依を解除するレベル三の神聖魔法だった。
狂った修道士の足元に魔法陣が浮かび上がる。
白い光の柱が、彼の身体を包み込んだ。
通常の精神異常なら解除できる。
低位の憑依なら剥がせる。
教会で使える者も限られる、実用的な対処魔法。
だが――。
光の中で、修道士の身体が一瞬だけ揺れた。
止まった。
効いた。
そう見えた。
次の瞬間、黒い靄が光柱の内側から膨れ上がった。
白い光が、内側から汚される。
ひび割れるように魔法陣が乱れ、ばちん、と弾けた。
「嘘……」
ロゼの唇から声が漏れる。
修道士は、何事もなかったように顔を上げた。
黒い目。
裂けた口。
靄を吐き続ける喉。
そして、ロゼへ再び襲い掛かる。
「奥様!」
護衛が割って入った。
だが、修道士の拳がその胸を打ち抜くように叩きつける。
護衛の身体が長椅子へ吹き飛んだ。
木が砕ける。
悲鳴が重なる。
ロゼは後ずさった。
肩の傷から血が落ちる。
扇を握る指が、白くなる。
(効かない)
(レベル三の神聖魔法が)
(ただの憑依ではない)
修道士が迫る。
黒い靄が、その背後で蛇のように揺れていた。
ロゼは奥歯を噛み締める。
逃げるには遅い。
叫んでも間に合わない。
なら、もう一度撃つ。
効かなくても。
時間を稼ぐ。
ロゼが再び詠唱へ入ろうとした、その時。
礼拝堂の扉が勢いよく開いた。
「全員、伏せろ!」
怒声。
飛び込んできたのは、教会警備の聖堂騎士たちだった。
銀の鎖が宙を走る。
修道士の腕と首に絡みつく。
だが、止まらない。
黒い靄が鎖に触れ、金属が悲鳴を上げる。
じゅう、と焼ける音。
聖別された鎖が、黒く染まっていく。
「なんだ、これは……!」
騎士の顔が引きつった。
ロゼは、その顔を見て理解した。
教会ですら、この靄の正体を知らない。
知らないものが、大聖堂の内部に入り込んでいる。
黒山羊と毒ヘビの教団。
そう考えるしかない。
そう考えるように、すべてが並べられている。
だが、この時のロゼには、そこまで見抜く余裕はなかった。
ただ一つ。
強烈な確信だけが胸を叩いていた。
この街は、もう内側まで食われている。
そして同じ頃。
パーラメント邸の会議室で、アウグストゥスは二杯目の紅茶を口にしていた。
遠くから、教会の鐘が鳴る。
いつもより長い。
いつもより荒い。
老紳士は、静かに目を細めた。
「始まったか」
誰もいない部屋で、彼は呟く。
「ロゼ夫人」
「あなたにも、証人になっていただきますよ」
窓の外では、初夏の陽射しが穏やかに街を照らしていた。
その下で。
黒山羊と毒ヘビの教団へ続く道が、また一本増えた。
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