残り6日 夕方(パーラメント邸にて)
夕暮れには、まだ少し早かった。
旧時計塔へ差し込む陽光は西へ傾き始め、地下へ続く穴から斜めに射し込み、砕けた石畳と黒く焦げた壁を照らしていた。
戦いの熱は、少しずつ引いている。
焦げた肉の臭い。
焼けた木材。
雷で砕けた岩肌。
そして、静寂。
さきほどまで亡者たちが埋め尽くしていた地下は、嵐が過ぎた後の廃墟に変わっていた。
ローレンは、祭司へゆっくり歩み寄る。
祭司は瓦礫にもたれ、血を吐いていた。
それでも口元だけは笑っている。
「終わりだ」
ローレンが剣先を突きつける。
「黒山羊と毒ヘビの教団について、全部話してもらう」
祭司は答えない。
乾いた笑みを浮かべるだけだった。
その時だった。
「……ッ!」
祭司の身体が痙攣した。
胸が大きく反り返る。
首筋の血管が黒く浮き上がり、墨のような筋が全身を這い始めた。
ダンデが眉をひそめる。
「何だ……?」
祭司は喉を押さえた。
「そいつから離れろ!ローレン!」
レオヴァンが叫んだ。
苦しそうに喘ぎ、口を限界まで開く。
「が……あ……あぁぁ……!」
次の瞬間。
祭司の口から、黒い靄が勢いよく噴き出した。
煙ではない。
生き物だった。
意志を持った何か。
蛇のように身をくねらせながら宙を走り、まだ閉じ切っていなかった巨大な召喚門へ一直線に飛び込んでいく。
「逃がすか!」
ローレンが駆ける。
だが、間に合わない。
黒い靄は門の奥へ吸い込まれた。
直後、巨大な門が低いうなり声を上げる。
――ゴゴゴゴゴ……。
空間そのものが歪み始めた。
漆黒の裂け目が、ゆっくりと閉じていく。
亡者たちの呻き声も。
腐臭も。
底の見えない闇も。
すべてが門の向こうへ飲み込まれていった。
そして。
――パキン。
硝子が砕けるような音とともに、門は完全に消滅した。
残ったのは、ひび割れた石床だけだった。
ローレンは舌打ちする。
「逃がしたか……」
背後で、小さな音がした。
カサッ。
祭司だった。
いや、もう祭司ではない。
身体が急速に縮み始めていた。
皮膚から水分が抜け、肉が骨へ張りつき、眼球は落ち窪み、髪は白く枯れ落ちる。
数秒後。
そこに転がっていたのは、一体の干からびた死体だけだった。
何十年も前に死んだミイラのように。
ダンデは静かに息を吐く。
「まぁ、何はともかくローレン、お前が無事で良かったよ」
「ちげぇねえ」
レオヴァンが同意する。
ローレンは無言で干からびた死体を見下ろした。
手掛かりは残った。
だが、一番聞きたかった人間だけは、何一つ語らず死んだ。
◇
夕日が、パーラメント邸の窓硝子を赤く染めていた。
庭園では噴水が静かな音を立て、薔薇の影が長く芝生へ伸びている。
昼間の喧騒が嘘のような屋敷だった。
会議室には、重い空気が流れていた。
机の上には、旧時計塔から運び出された資料が並べられている。
地下通路の簡易見取り図。
回収した教団の装束。
破損した祭具。
黒山羊と毒ヘビの紋章。
そして、干からびた祭司の検分書。
ローレンは一枚一枚を確認し終えると、静かに口を開いた。
「報告します」
部屋中の視線が集まる。
「旧時計塔地下に、黒山羊と毒ヘビの教団の拠点を確認しました」
「地下には多数の狂信者がおり、巨大な召喚門を用いた儀式を行っていました」
ローレンは一度言葉を切った。
あの光景を、まだ喉の奥で噛み殺している顔だった。
「門の向こうには、おびただしい数の亡者が存在していました」
「さらに儀式によって、“リッチー”と呼ばれる災害級の強力なアンデッドを召喚」
「通常の炎属性魔法では有効打にならず、治安局の援軍も苦戦しました」
部屋が静まり返る。
ローレンは続けた。
「その後、レオヴァン殿がアーティファクト《獅子穿つ戦斧》を解放」
「リッチーは討伐されました」
「しかし――」
ローレンの表情が険しくなる。
「祭司は尋問直前、黒い靄に全身の精気を吸い尽くされました」
「その靄は召喚門へ逃走し、門も同時に閉鎖」
「祭司は干からびた死体となり、教団について証言を得ることはできませんでした」
再び沈黙が落ちた。
誰もすぐには口を開かない。
ローレンは最後に、机へ教団の紋章を置いた。
「以上が、旧時計塔で確認した全容です」
「少なくとも、黒山羊と毒ヘビの教団が今回の事件に深く関与していることだけは、間違いありません」
報告が終わった。
会議室に一瞬の空白が生まれる。
その沈黙を最初に破ったのは、アウグストゥスだった。
「少しよろしいかな、ローレン殿」
声は穏やかだった。
「その祭司は、デトロン川怪事件の死体を“前菜”と言ったのでしょう?」
「ええ」
「おかしくはありませんか?」
ローレンの目が、わずかに動く。
アウグストゥスは机上の資料へ視線を落とした。
「ロゼ夫人の報告では、ハーネストがエンバーミング用の薬品を買い出したのは四カ月前」
「ですが、デトロン川怪事件の死体の中には、ミイラ化したものまであった」
「治安局の検視では、あそこまで進むには三、四年かかるという話でしたな」
アウグストゥスは、わざとらしいほど丁寧に指を折る。
「一つの線で繋ごうとすると、矛盾が出る」
「さらにローレン殿が旧時計塔で見た、アンデッド召喚用の大量の死体」
「これも妙です」
彼は、会議室にいる全員を一度ずつ見た。
「治安局が作成した行方不明者の推移表では、十年間ほぼ横ばいのはず」
「しかし教団がそれだけ多くの人間を生贄にしていたなら、数字に影響が出るのではありませんか?」
自分が裏で糸を引いた事件の矛盾。
アウグストゥスは、それを自分の口で指摘した。
あえて。
先に。
誰よりも冷静に。
ロゼが扇を閉じる。
「確かに、納得のいく話ではありませんわね」
「何かを見落としているのか」
「それとも、私たちが握っている情報のどこかに嘘があるのか」
そこで口を開いたのは、アエーシュモーだった。
「行方不明者の推移だけなら、何もおかしくありません」
全員の視線が向く。
アエーシュモーは、感情のない声で続けた。
「侶胡王国で行われたコープスパーティーの準備は、確かに半年前からだったとされています」
「そこから逆算して今回の事件期間を仮定するから、矛盾が生じるのです」
「実際のコープスパーティーの計画は三年前から始まっていた」
「このイグナティアでの準備の方が先に進んでいたが、何らかの事情で、急遽、侶胡王国へテロを仕掛ける必要が生じた」
「そう仮定すれば、期間の矛盾は消えます」
アエーシュモーは淡々と話す。
まるで、他人の死体の数を計算しているだけだった。
「この仮定で考えれば、行方不明者数に大きな変化が出ていない理由も説明できます」
「三年前から、行方不明者数が不自然に増えないよう、数を管理していた」
「こう考えれば、辻褄は合います」
その説明を、冷えた目で聞き流している者が二人いた。
セレスティアとレオヴァンである。
(いけしゃあしゃあと、よく言うぜ)
レオヴァンは内心で吐き捨てた。
(ミイラ化した死体が三年)
(お前らがこの街に来て、断絶したヴァーミリオン家を名乗り始めたのも三年)
(数字が揃いすぎてる)
(疑うなって方が無理だろ)
さらに、イフリート。
リッチー。
並の魔法使いなら召喚どころか制御もできない存在が、立て続けに出てきた。
そのどれも、アエーシュモーなら簡単にできる。
少なくとも、レベル六のディスペルを弾いたあの女なら。
(決定的な証拠はない)
(だが状況証拠だけ並べりゃ、真っ黒だ)
(今すぐ問い詰めて正体を暴きたいところだが、暴いたところで捕まえる戦力が足りねぇ)
(面倒くせぇ)
(こっちの戦力が整うまで、この茶番に付き合うしかねぇのかよ)
レオヴァンは、苛立ちを酒で流し込むように黙っていた。
横にいたセレスティアが、アエーシュモーの仮説へ口を挟む。
「確かに」
「コープスパーティー計画を教団がいつから練っていたのか分からない以上、アエーシュモー殿の意見は否定できない」
そこで、声が鋭くなる。
「だが、デトロン川で浮かんでいた死体には首がなく、エンバーミングまで施されていた」
「一方、ローレン殿が旧時計塔で見た死体の山には、そんな処理はされていなかったのだろう?」
ローレンが頷く。
「ええ。少なくとも私が見た範囲では」
「なら疑問は残る」
セレスティアは机に指を置いた。
「なぜ、デトロン川の四十二体だけ、そんな面倒な処置を施されていたのか」
「その理由が説明されていない」
「私は、教団以外にも犯人がいると考える」
当然の指摘だった。
その当然に、アウグストゥスは穏やかに答える。
「セレスティア殿の指摘はもっともです」
「ですが、ローレン殿は教団の祭司から言質を取っておられる」
「四十二体の死体など前菜だ、と」
「これはどう説明されますか?」
セレスティアは即座に切り返した。
「当てにならない」
「ローレン殿が祭司を尋問しようとした瞬間、祭司の口から黒い靄が飛び出し、門の向こうへ逃げたのでしょう?」
「なら、その祭司が本当に自分の意思で喋っていた保証はない」
「使い魔か、寄生体か、術式か」
「何かに言わされていた可能性は十分ある」
アウグストゥスが何か言おうとする。
その前に、ロゼが割って入った。
「セレスティア殿のおっしゃることも、分かります」
「ですが、それではこう言いたいのですか?」
ロゼの目が細くなる。
「四十二人を殺した犯人が、その四十二人の殺人を誤魔化すために、コープスパーティーを企てている、と」
会議室の空気が固まる。
「たった、と言うにはあまりに凄惨ですけれど」
「四十二人の殺人を隠すために、街の一区画を焦土に変え、上位精霊を呼び、リッチーまで召喚する人間がいる」
「その方が、推理として無理がありませんか?」
正論だった。
常識的には。
反論の糸口を、セレスティアはすぐに掴めなかった。
レオヴァンも、内心で舌打ちする。
(正論だぜ)
(俺だって、最初にあの男を疑ってなかったら騙されてた)
(四十二人を隠すために、都市テロをやる奴なんざ、今日まで考えたこともなかった)
だが、いる。
実際に目の前にいる。
細かい理由は分からないが自分が裁かれないためなら、人殺しを息をするように選ぶ男。
罪を隠すためなら、罪の規模を増やす男。
吐き気を催す邪悪、などという言葉では足りない。
世界の計算式に混じった異物。
存在してはいけないバグ。
それが、アウグストゥス・ヴァーミリオンだった。
(他の勇者が来るまで、お前は絶対に逃がさねぇ)
(すでにパーラメント男爵の、裏の知り合いにお前の屋敷は見張らせてある)
(覚悟しておけよ、この外道)
レオヴァンは黙って、アウグストゥスを見た。
アウグストゥスは、静かに紅茶を口へ運んでいる。
涼しい顔。
完璧な姿勢。
その穏やかさが、余計に腹立たしかった。
会議室では、まだ議論が続いている。
教団犯行説。
共犯者説。
別犯説。
矛盾。
仮説。
証拠。
すべてが机の上で行儀よく並べられている。
だが、レオヴァンには分かっていた。
この場にいる全員が、もう盤面の上にいる。
アウグストゥスが敷いた道。
セレスティアが噛み破ろうとしている罠。
そして、自分たちは今、証拠が足りないまま怪物の前に座っている。
だから、まだ噛みつけない。
まだだ。
レオヴァンは奥歯を噛み締めた。
(待ってろ)
(牙が届く距離まで来たら、喉ごと持っていってやる)
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