残り6日 昼(地下避難所にて)
え?
アエーシュモーのことを、どう思うか?
どうだろう。
あまり考えたことがないわ。
だって、あの人、私にあまり興味がなさそうだもの。
でも、義父様の言うことはよく聞くから、嫌いではないよ。
好きかって聞かれたら、それは違うけど。
……ねえ。
何でそんなこと聞くの?
――ルーシュの回想録より抜粋
◇
重い扉が、闇の中で軋んだ。
――ギギギギギ。
錆びた蝶番が悲鳴を上げる。
だが、そこにあったのは部屋ではなかった。
扉の向こうに広がっていたのは、魔力によって空間そのものをこじ開けた穴だった。
おそらく扉も本物ではない。
魔力で作られた境界。
空間に亀裂を入れ、割れ目の奥へ、どこに繋がっているかも分からない漆黒の大穴を作り上げている。
その全貌を見た瞬間、ローレンは息を呑んだ。
でかい。
でかすぎる。
個人の魔力で作れる規模ではない。
扉は天井にまで届き、人間が使うには明らかに大きすぎた。
巨人でも通すつもりなのか。
あるいは、人ではない何かを迎えるための門か。
その禍々しさは、地獄の入口という安い言葉すら押し潰すほどだった。
「な……」
声が漏れた。
漆黒の穴の奥から、音が聞こえる。
鎖。
枷。
じゃらじゃらと金属が擦れる音。
引きちぎられた衣服。
爪で刻まれた無数の傷。
そして、声。
《たすけて》
《おかあさん》
《いやだ》
《ころして》
《みず》
穴の奥から、亡者たちの声が滲み出していた。
死を前にして最後に残した言葉なのだろう。
それが何十、何百と重なり、耳の奥にまとわりつく。
ローレンの顔から血の気が引いた。
ここで何をしている。
あれはここで殺された犠牲者なのか?
ハーネストが薬品を買い出したのは四カ月前。
少なくともその期間で、ここまで死霊化した亡者を呼び集める準備をしていたことになる。
百や二百では足りない。
もっとだ。
祭司の男が、両腕を広げた。
「美シいだろう」
狂信者たちが、恍惚とした声を漏らす。
「讃エよ」
「讃エよ」
「讃エよ」
ローレンの握る剣に力が入った。
「貴様ら……何人を犠牲にした」
祭司は笑った。
歯がなかった。
歯茎だけが、薄暗い光の中でぬらりと見える。
「数エたことハない」
「家畜ノ数を数エる農夫がいるカ?」
地下の空気が、一瞬で冷えた。
ローレンの殺気が膨れ上がる。
その圧力を浴びても、祭司は笑っていた。
「怒るナ」
「彼ラは救済サれた」
「苦シミから」
「飢エから」
「未来カら」
「そして命カら」
ローレンが踏み込んだ。
床が砕ける。
一直線。
狙うのは祭司の首。
だが、祭司は避けなかった。
その代わり、背後の巨大な扉が完全に開く。
瞬間。
腐臭が噴き出した。
堰き止められていた死の海が、いきなり解放されたようだった。
胃がひっくり返るほど濃い死臭。
血。
腐肉。
薬品。
土。
死。
あらゆる臭いが混ざり合い、喉の奥を焼いた。
漆黒の大穴に、薄暗い光が差す。
月明かりにも似た、頼りない光。
それが奥の景色を、少しずつ浮かび上がらせていく。
ローレンの剣が止まった。
目が、勝手に扉の向こうを見てしまう。
そして理解した。
なぜ教団が表に出てきたのか。
なぜ、ここまで派手に動いたのか。
扉の向こうには、積み上げられていた。
人間が。
壁のように。
山のように。
何百。
いや、千体近い人間に見えた亡者。
すでに儀式の準備は終わっている。
少なくとも、最終段階には入っている。
狂信者たちが歓声を上げた。
「冒涜だ」
「冒涜だ」
「冒涜だ」
祭司は両手を掲げる。
「見ロ」
「コレが真実だ」
「四十二人など、前菜に過ぎぬ」
ローレンの背筋を、冷たい汗が流れた。
四十二人。
デトロン川怪事件。
あの首無し死体の群れ。
祭司は今、自分から繋がりを認めた。
デトロン川怪事件は、この儀式と繋がっている。
少なくとも、そう聞こえる。
そう聞こえるように、言っている。
ローレンは歯を食いしばった。
(落ち着け)
(今の言葉を、気にしている場合ではない)
目の前の死体の山は本物だ。
腐臭も本物。
亡者の声も本物。
ならば、嘘の中に本物を混ぜている。
一番厄介な手口だった。
祭司は、恍惚とした顔で死体の山を見上げていた。
「彼ラは証言する」
「ザレイドの罪を」
「貴族の罪を」
「神の罪を」
「人間の罪を」
狂信者たちが泣きながら祈り始める。
その時だった。
死体の山の奥で、何かが動いた。
――ゴリ。
ローレンの視線が止まる。
山が崩れたのではない。
内側から押し上げられている。
――ゴリ。
――ゴリ。
――ゴリ。
巨大な何かが。
死体の中から。
ゆっくりと。
確実に這い出してくる。
祭司は涙を流しながら叫んだ。
「見ヨ!」
「死者の王が目覚メる!」
「コレこそ黒山羊の奇跡!」
ローレンは直感した。
違う。
奇跡ではない。
これは災厄だ。
西区のイフリートなど比較にならない。
都市そのものを、内側から腐らせて飲み込む類の災厄。
ローレンは剣を構え直した。
勝てるとは思わない。
だが、背を向けた瞬間に終わる。
それだけは分かった。
「……上等せすよ」
口の中が乾いていた。
それでも声は出た。
「生贄が欲しかったんでしょう」
「できるものならやってみろ!」
祭司の笑みが、さらに裂けた。
「良イだろウ」
「見届けヨウ」
「そして贄のサイゴをナ」
死体の山が、また動いた。
◇
同時刻。
旧時計塔へ向かう街道を、ダンデ・クロイスは全力で駆けていた。
嫌な予感がしていた。
人生で何度も味わった感覚だ。
背中の皮がざらつき、胃の底が冷える。
そして、その予感は一度たりとも外れたことがない。
遠く。
旧時計塔の地下から、地鳴りのような振動が響いた。
ダンデの顔色が変わる。
「……冗談だろ」
呟いた瞬間だった。
時計塔の窓から、黒い靄が噴き上がった。
狼煙のように。
いや、もっと悪い。
空へ向かって、死そのものが吹き上がっている。
黒い靄はザレイド全域から見えるほど高く、真っ直ぐ天へ伸びていった。
街の人々が足を止める。
市場のざわめきが消える。
荷馬車の馬が怯えて嘶く。
ダンデは舌打ちし、速度を上げた。
「ローレン」
「生きてろよ、馬鹿野郎」
◇
その光景を、パーラメント邸の窓から見上げる男がいた。
アウグストゥス・ヴァーミリオン。
黒い靄は、遠くの空に巨大な柱を作っている。
ザレイド中の者が見るだろう。
治安局も。
執政官も。
勇者も。
そして民衆も。
黒山羊と毒ヘビの教団が、街の地下で何かをしていた。
そう理解するには、十分すぎる光景だった。
アウグストゥスは静かに目を細めた。
「……証人になってもらうぞ」
声は穏やかだった。
「ローレン・ゲイデン」
ローレンは有能だ。
だからこそ、価値がある。
彼が見たものは信じられる。
彼が持ち帰った言葉は、治安局を動かす。
彼が生きて帰れば、教団犯行説は一気に補強される。
死んでも構わない。
その場合は、教団の危険性を示す殉職者になる。
どちらでも、盤面は進む。
アウグストゥスは窓硝子に映る自分の顔を見た。
老紳士の顔。
穏やかな表情。
その口元だけが、わずかに歪んでいた。
「さあ」
「これで世間が、俺を疑えない理由がまた一つ増えるな」
黒い靄は、なおも天へ昇り続けていた。
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