残り6日 昼(時計塔にて)
何?
私とレオヴァンの出会いか?
知ってどうする。
……と言いたいところだが、特別に教えてやろう。
奴は獣人の里から街へ出てきたばかりでな。探窟家として右も左も分からなかったところを、私が拾ってやったのだ。
それ以来の腐れ縁だ。
何だ、その顔は。
疑っているのか?
――セレスティアの回想録より抜粋
◇
旧時計塔の内部は、外から見た時よりも荒れていた。
扉を押し開けた瞬間、乾いた埃がローレンの顔へ吹きつける。
かつて鐘の音で街に時を知らせていた塔は、今では役目を終えた獣の骨に近かった。
床には砕けた石材が転がり、崩れた手すりは壁際に折り重なっている。
雨漏りの跡が黒い筋になって石壁を汚し、天井のどこかから水滴が落ちていた。
――ポタリ。
――ポタリ。
その音だけが、やけに耳につく。
ローレンは足を止めた。
鼻を動かす。
湿気。カビ。腐った木材。
その奥に、わずかな鉄臭さが混じっていた。
血だ。
新しくはない。だが、残っている。
ローレンは腰の剣に手を添えたまま、ゆっくりと周囲を見回した。
正面には螺旋階段がある。上階へ続いていた。
だが、そちらではない。
失踪者を隠すなら上ではない。逃げ場がない。見つかった時に詰む。
人を隠すなら地下。
そしてローレンは知っていた。この旧時計塔は、ただ時を告げるためだけの建物ではない。
モンスターの襲撃時、周辺住民を収容するための避難所としても設計されている。
地下には、人を収容できる大小の部屋がいくつかある。
門の守備隊を率いる者として、古い都市図面には一通り目を通していた。
無駄な知識だと思っていたが、今ばかりは役に立つ。
ローレンは螺旋階段を無視した。
一階の円形広間をゆっくり歩く。
割れた長椅子。朽ちた棚。壁際に積まれた古い木箱。
一見、何もない。
だが、妙に綺麗だった。
人が出入りしていない廃墟にしては、埃が均されすぎている。
ローレンはしゃがみ込み、床を指でなぞった。
埃が薄い。
誰かが歩いている。
それも最近だ。
視線を落とす。靴跡があった。一つではない。複数。
さらに、その横。
引きずった跡。
何か重い物を運んだ痕跡だった。
「……なるほど」
ローレンは低く呟いた。
数字は正しかった。
旧時計塔。
偶然ではない。
何かある。
その時だった。
ガタン。
奥で音がした。
ローレンは反射的に振り返る。
誰もいない。
だが、聞き間違いではない。
建物の奥。床下。
ローレンは音のした方向へ歩いた。
崩れた棚。積み上げられた木箱。その先で、石畳の一枚に目が止まる。
その石畳のエリアだけ周囲より新しい。
修復ではない。地下への階段を隠すため、後から塞いだのだ。
「ちょうど、この辺りだったな」
昔見た旧時計塔の図面を思い出しながら、ローレンは剣の柄で石を叩いた。
コン。
軽い。
下が空洞になっている。
周囲を探ると、すぐ近くに鉄の輪があった。
埃に隠されていたが、自然に埋もれたものではない。誰かが見えないようにしていた。
ローレンは輪を掴む。
力を込める。
重い。
だが、持ち上がる。
石畳が軋みながら開いた。
地下へ続く階段。
冷たい空気が吹き上がる。
その臭いを嗅いだ瞬間、ローレンの表情が変わった。
腐臭ではない。
汗。糞尿。洗っていない身体。湿った布。古い食べ物。
人間が閉じ込められ、そこで生活させられた時に出る臭いだった。
一人や二人ではない。
鼻の奥に張り付くほど濃い。
ローレンは息を浅くし、階段を下りた。
暗い。
湿っている。
壁には古いランタンが掛けられていた。火は消えているが、煤が新しい。
誰かが最近使った。
地下通路は予想以上に広かった。
時計塔の地下というより、別の施設だ。古い石造りの回廊が奥へ伸びている。
避難所として造られたにしては、通路が長い。
ローレンは足音を殺して進んだ。
十歩。
二十歩。
その先で足が止まる。
壁に文字が刻まれていた。
黒い塗料。
いや、違う。
乾いた血だ。
《黒山羊を讃えよ》
その下にも、乱れた文字がある。
《毒ヘビの血を捧げよ》
ローレンの眉が動いた。
教団。
やはり繋がっている。
その時、奥から声が聞こえた。
微かだった。
男。女。老人。
複数の声が混ざり、何かを唱えている。
ローレンは壁際へ身を寄せた。
呼吸を殺し、さらに奥へ進む。
声が近づく。
讃歌ではない。
祈りだ。
「黒山羊よ……我らの罪を、喰らえ」
「毒ヘビよ……我らの偽善を、噛み砕け」
「腐りし世界に……毒を満たし」
「死者の声をもって……真実を語らせ給え」
ローレンは足を止めた。
奥に大部屋がある。
曲がり角の陰から覗く。
一、二、三。
十人以上。
黒い外套をまとった者たちが、部屋の中央へ向かって膝をついていた。
その視線の先に、一人の男が立っている。
虚ろな顔。
スラムで追った、あの外套の男だ。
「祭司……か?」
ローレンは目を細めた。
だとすれば重要人物だ。少なくとも末端ではない。
もう少し声を拾うため、ローレンは身体を低くしたまま近づく。
部屋の奥を確認するため、曲がり角からさらに顔を出した。
二人。
黒い外套。
武装している。
腰には短剣。
外見だけなら一般市民にも見える。だが頬は痩せこけ、目だけが妙にぎらついていた。まともな食事を取っていない者の顔だ。
二人は部屋の奥の扉へ消えていった。
ローレンはさらに観察しようとして――止まった。
背後。
殺気。
考えるより先に身体が動いた。
ローレンは横へ飛ぶ。
直後。
ガァン!!
鉄の杭が壁に突き刺さった。
先ほどまで、ローレンの胸があった位置に。
機械弓。
矢の飛んできた方向へ視線を走らせる。
ローレンが歩いてきた通路。そこに、いつの間にか黒い外套の男が立っていた。
外套の下は裸に近い。肋骨が浮き、腹は落ちくぼんでいる。だが両腕だけは異様に太く、次の矢を機械弓へ番えていた。
罠だ。
一歩遅ければ串刺しだった。
「ちっ」
ローレンは舌打ちした。
だが、それで終わりではない。
カン。
カン。
カン。
警鐘が鳴った。
地下全体に金属音が響き渡る。
侵入を知らせる音。
完全に誘われていた。
通路の奥から、うめき声が押し寄せてくる。
「ぁ゙ぁ゙……」
「ヴヴ……ヴ……」
「げぇぇ……ぇが……」
言葉ではない。
ただ喉から漏れているだけの声。
先ほど大部屋にいた集団が、こちらへ向かってきていた。十人近い。
ローレンは剣を抜いた。
鋼が地下の闇で鈍く光る。
敵地。
包囲。
援軍なし。
状況は最悪だ。
だが、ローレンの口元にわずかな笑みが浮かんだ。
ここまで反応した。
つまり当たりだ。
失踪事件の核心は、この先にある。
「さて」
迫る足音を聞きながら、ローレンは剣を構えた。
「少し、話を聞かせてもらおうか」
次の瞬間。
黒い外套の男たちが、地下通路の闇から一斉に姿を現した。
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