残り6日 昼(スラムにて)
ロバート。
あの子が生まれた時、私は世界で一番幸せだった。
ロバート。
あの子が初めて私を呼んだ時、私の人生は報われた気がした。
ロバート。
あの子の父親が消えた時、私の中で何かが折れた。
ロバート。
あの子が私を心配してくれた時、あの子が私の生きる理由になった。
ロバート。
あの子がいなくなった時、私は私ではなくなった。
目の前の金貨に喜んだ自分を、今でも殺してやりたい。
――テシリア・デーンの回想より抜粋
◇
スラム街へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
市場の喧騒は背後へ遠ざかり、代わりに湿った臭気が鼻を刺す。
雨水と汚泥が混ざった路地。傾いた木造家屋。壁にもたれる酔漢。痩せた子供たち。
この街の繁栄から、意図的に切り離された場所だった。
ローレンは、無意識に歩幅を落とした。
捜査官の勘が告げている。
何かがおかしい。
理由はまだない。
だが、背筋の奥がざわついていた。
十歩。
二十歩。
曲がり角を一つ越えたところで、違和感の正体が分かった。
視線だ。
誰かが見ている。
ローレンは気づかないふりを続けた。
市場でも同じ違和感があった。
黒い外套の男。
あれは偶然ではない。
(試すか)
ローレンは、露店の前で足を止めた。
錆びた鍋や壊れた工具を並べる古物商である。
興味もない工具を手に取り、値踏みするふりをしながら、視線だけを周囲へ流す。
見えた。
路地の奥。
物陰。
汚れた外套。
男がこちらを見ていた。
目が合う。
その瞬間、男は顔を逸らした。
ローレンは何事もなかったように工具を戻した。
尾行。
ほぼ間違いない。
問題は、誰の人間かだった。
教団。
犯罪組織。
あるいは、治安局内部。
今の情報だけでは判断できない。
ローレンは再び歩き出す。
わざと人通りの少ない道を選んだ。
細い裏路地。
頭上では洗濯物が風に揺れ、濁った水が石畳の隙間を流れている。
足音が一つ。
二つ。
一定の距離を保って続いていた。
追ってきている。
だが、近づいてはこない。
妙だった。
殺し屋なら、もっと早い。
素人なら、もっと雑だ。
まるで――監視。
そんな印象だった。
ローレンは角を曲がった。
次の瞬間、建物の陰へ滑り込む。
足音が近づく。
止まらない。
男はローレンがそのまま進んだと思い込んでいる。
姿が現れた。
黒い外套。
市場で見た男だ。
ローレンは飛び出さなかった。
捕まえるには情報が足りない。
今は顔と挙動を見ればいい。
男は、ゆらゆらと身体を揺らして歩いていた。
力が抜けた足取り。
生気のない顔。
空を見上げ、ぶつぶつと何かを呟いている。
「黒……や……へ……び……」
「たたえ……」
その声音は、独り言というより、壊れた祈りだった。
治安局の記録に、その顔の見覚えはない。
男はそのまま通り過ぎる。
そして、不意に足を止めた。
振り返る。
瞳孔が開ききった、虚ろな目。
気づかれた。
ローレンも悟る。
相手は普通ではない。
互いに気づいた。
その瞬間、男は走った。
迷いなく。
一直線に。
ローレンも飛び出した。
石畳を蹴る。
男は狭い路地へ飛び込み、人混みを縫うように走っていく。
速い。
先ほどまで幽鬼のように歩いていた男とは思えない脚力だった。
(訓練を受けている?)
ローレンは追う。
だが、路地を二つ抜けたところで、男は忽然と消えた。
行き止まり。
隠れる場所もない。
あるのは崩れかけた倉庫だけ。
ローレンは周囲を見回した。
静寂。
風だけが吹いている。
逃げられた。
だが、収穫はあった。
男は自分を監視していた。
そして、自分の行き先を知りたがっていた。
偶然ではない。
捜査が、どこかに届き始めている。
ローレンは息を整えた。
視線の先に、旧時計塔が見える。
灰色の石造り。
空へ突き刺さる尖塔。
今では誰も使わない廃墟。
だが失踪者の目撃情報は、この周辺に集中している。
あの男は、ここへ近づかせたくなかったのか。
それとも。
ここへ誘導したかったのか。
ローレンは剣の柄へ手を置いた。
答えは中にある。
そう思いながら、旧時計塔の黒い入口を見上げた。
◇
一方、治安局では。
上級監察官ダンデ・クロイスが、窓際で腕を組んでいた。
嫌な予感がしている。
ローレン・ゲイデンは旧時計塔へ行くと言った。
数字が正しいなら、何かある。
そう言っていた。
だが西区の大火災で現れた上級精霊を見れば、この事件の裏にいる連中が、ただの犯罪者集団でないことは明らかだった。
英雄級勇者でもなければ、まともに相手にならない。
ローレンは中級魔法使いとしては腕が立つ。
兵を率いる判断力もある。
だが、それだけだ。
上位精霊を呼び出すような相手に、一人で踏み込ませるには足りない。
「……引き留めるべきだったか」
ダンデは舌打ちした。
まさか一人で教団を潰す気ではあるまい。
ローレンはそこまで無謀ではない。
そう思いたい。
だが、あの男は妙なところで真面目すぎる。
目の前に手がかりがあれば、喉元まで突っ込む。
止めても、理由が弱ければ聞かない。
窓の外では、雲がゆっくり流れていた。
ザレイドの街は、今日も平然と動いている。
その下で、誰かが罠を敷いているとも知らずに。
ダンデは部下を呼んだ。
「旧時計塔周辺に人を回せ」
「表向きは巡察だ」
「だがローレンを見つけたら、俺の所へ来るように伝えろ」
部下が頷く。
「監察官殿も行かれますか?」
「ああ」
ダンデは机の上の名簿を掴んだ。
「俺が嫌な予感がする時は、大抵当たるんでね」
部下が部屋を出ていく。
ダンデは、もう一度だけ窓の外を見た。
旧時計塔の方角。
灰色の尖塔が、薄曇りの空に刺さっている。
「あの数字が罠なら……」
ダンデは低く呟いた。
そして彼もまた、旧時計塔へ向かう準備を始めた。
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