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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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残り6日 昼(スラムにて)

ロバート。


あの子が生まれた時、私は世界で一番幸せだった。


ロバート。


あの子が初めて私を呼んだ時、私の人生は報われた気がした。


ロバート。


あの子の父親が消えた時、私の中で何かが折れた。


ロバート。


あの子が私を心配してくれた時、あの子が私の生きる理由になった。


ロバート。


あの子がいなくなった時、私は私ではなくなった。


目の前の金貨に喜んだ自分を、今でも殺してやりたい。


――テシリア・デーンの回想より抜粋



スラム街へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


市場の喧騒は背後へ遠ざかり、代わりに湿った臭気が鼻を刺す。


雨水と汚泥が混ざった路地。傾いた木造家屋。壁にもたれる酔漢。痩せた子供たち。


この街の繁栄から、意図的に切り離された場所だった。


ローレンは、無意識に歩幅を落とした。


捜査官の勘が告げている。


何かがおかしい。


理由はまだない。


だが、背筋の奥がざわついていた。


十歩。


二十歩。


曲がり角を一つ越えたところで、違和感の正体が分かった。


視線だ。


誰かが見ている。


ローレンは気づかないふりを続けた。


市場でも同じ違和感があった。


黒い外套の男。


あれは偶然ではない。


(試すか)


ローレンは、露店の前で足を止めた。


錆びた鍋や壊れた工具を並べる古物商である。


興味もない工具を手に取り、値踏みするふりをしながら、視線だけを周囲へ流す。


見えた。


路地の奥。


物陰。


汚れた外套。


男がこちらを見ていた。


目が合う。


その瞬間、男は顔を逸らした。


ローレンは何事もなかったように工具を戻した。


尾行。


ほぼ間違いない。


問題は、誰の人間かだった。


教団。


犯罪組織。


あるいは、治安局内部。


今の情報だけでは判断できない。


ローレンは再び歩き出す。


わざと人通りの少ない道を選んだ。


細い裏路地。


頭上では洗濯物が風に揺れ、濁った水が石畳の隙間を流れている。


足音が一つ。


二つ。


一定の距離を保って続いていた。


追ってきている。


だが、近づいてはこない。


妙だった。


殺し屋なら、もっと早い。


素人なら、もっと雑だ。


まるで――監視。


そんな印象だった。


ローレンは角を曲がった。


次の瞬間、建物の陰へ滑り込む。


足音が近づく。


止まらない。


男はローレンがそのまま進んだと思い込んでいる。


姿が現れた。


黒い外套。


市場で見た男だ。


ローレンは飛び出さなかった。


捕まえるには情報が足りない。


今は顔と挙動を見ればいい。


男は、ゆらゆらと身体を揺らして歩いていた。


力が抜けた足取り。


生気のない顔。


空を見上げ、ぶつぶつと何かを呟いている。


「黒……や……へ……び……」


「たたえ……」


その声音は、独り言というより、壊れた祈りだった。


治安局の記録に、その顔の見覚えはない。


男はそのまま通り過ぎる。


そして、不意に足を止めた。


振り返る。


瞳孔が開ききった、虚ろな目。


気づかれた。


ローレンも悟る。


相手は普通ではない。


互いに気づいた。


その瞬間、男は走った。


迷いなく。


一直線に。


ローレンも飛び出した。


石畳を蹴る。


男は狭い路地へ飛び込み、人混みを縫うように走っていく。


速い。


先ほどまで幽鬼のように歩いていた男とは思えない脚力だった。


(訓練を受けている?)


ローレンは追う。


だが、路地を二つ抜けたところで、男は忽然と消えた。


行き止まり。


隠れる場所もない。


あるのは崩れかけた倉庫だけ。


ローレンは周囲を見回した。


静寂。


風だけが吹いている。


逃げられた。


だが、収穫はあった。


男は自分を監視していた。


そして、自分の行き先を知りたがっていた。


偶然ではない。


捜査が、どこかに届き始めている。


ローレンは息を整えた。


視線の先に、旧時計塔が見える。


灰色の石造り。


空へ突き刺さる尖塔。


今では誰も使わない廃墟。


だが失踪者の目撃情報は、この周辺に集中している。


あの男は、ここへ近づかせたくなかったのか。


それとも。


ここへ誘導したかったのか。


ローレンは剣の柄へ手を置いた。


答えは中にある。


そう思いながら、旧時計塔の黒い入口を見上げた。



一方、治安局では。


上級監察官ダンデ・クロイスが、窓際で腕を組んでいた。


嫌な予感がしている。


ローレン・ゲイデンは旧時計塔へ行くと言った。


数字が正しいなら、何かある。


そう言っていた。


だが西区の大火災で現れた上級精霊(イフリート)を見れば、この事件の裏にいる連中が、ただの犯罪者集団でないことは明らかだった。


英雄級勇者でもなければ、まともに相手にならない。


ローレンは中級魔法使いとしては腕が立つ。


兵を率いる判断力もある。


だが、それだけだ。


上位精霊を呼び出すような相手に、一人で踏み込ませるには足りない。


「……引き留めるべきだったか」


ダンデは舌打ちした。


まさか一人で教団を潰す気ではあるまい。


ローレンはそこまで無謀ではない。


そう思いたい。


だが、あの男は妙なところで真面目すぎる。


目の前に手がかりがあれば、喉元まで突っ込む。


止めても、理由が弱ければ聞かない。


窓の外では、雲がゆっくり流れていた。


ザレイドの街は、今日も平然と動いている。


その下で、誰かが罠を敷いているとも知らずに。


ダンデは部下を呼んだ。


「旧時計塔周辺に人を回せ」


「表向きは巡察だ」


「だがローレンを見つけたら、俺の所へ来るように伝えろ」


部下が頷く。


「監察官殿も行かれますか?」


「ああ」


ダンデは机の上の名簿を掴んだ。


「俺が嫌な予感がする時は、大抵当たるんでね」


部下が部屋を出ていく。


ダンデは、もう一度だけ窓の外を見た。


旧時計塔の方角。


灰色の尖塔が、薄曇りの空に刺さっている。


「あの数字が罠なら……」


ダンデは低く呟いた。


そして彼もまた、旧時計塔へ向かう準備を始めた。


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