残り6日 昼(広場にて)
朝の市場は、もう一日の戦場になっていた。
荷車が石畳を軋ませ、魚売りが怒鳴り、果物商が声を張り上げる。焼きたての黒パンの香りと、人いきれと、家畜の臭いが入り混じり、街全体が巨大な生き物のように脈打っていた。
その喧騒の中を、ローレンは歩く。
周囲には目もくれない。
ダンデにもらった検視の資料に視線を落としたまま、人波を縫うように進んでいた。
四十二人の首無し死体。
旧時計塔。
失踪者集中区域。
教団活動の疑い。
そして――検視結果。
遺体の一部にはミイラ化が見られる。
死後三——
数字は綺麗すぎた。
綺麗すぎて、気味が悪い。
まるで誰かが「ここを見ろ」と言わんばかりに証拠を並べている。
犯人が隠したいのか。
それとも見せたいのか。
その違いは大きい。
「ローレン殿?」
不意に女の声が飛んできた。
顔を上げる。
広場の噴水近くに豪奢な馬車が停まっていた。
白銀の装飾。
青い商会旗。
その傍らに立つ女の姿を見て、ローレンは小さく目を細めた。
「バレッタ夫人」
「まあ、偶然ですこと」
ロゼ・バレッタは扇子を閉じた。
笑っている。
だが目は笑っていない。
相手の懐を覗き込み、値段を付ける商人の目だった。
「治安局の皆様は、最近ずいぶん慌ただしそうですわね」
「あんな事件の後ですから」
「四十二人の死体騒ぎに西区の大火災」
ローレンは答えなかった。
肯定も否定もしない。
それだけで十分だった。
ロゼはくすりと笑う。
「ちょうど良かったですわ」
そう言って馬車の扉を開いた。
「お乗りなさいな」
本来なら、このままスラムへ向かう予定だった。
だが結局、あとでパーラメント邸へ顔を出す必要がある。
順番が変わるだけだ。
ローレンは軽く肩を竦め、馬車へ乗り込んだ。
馬車が動き出す。
市場を抜ける途中、横を荷車が通り過ぎた。
薬草の束が山のように積まれている。
独特の青臭い匂いが流れ込み、ロゼがちらりと視線を向けた。
そして何気ない口調で言う。
「そういえば、商人ギルドから昨日、ようやく報告書が届きましたの」
ローレンが顔を向ける。
「報告書?」
「以前から商人ギルドに頼んでいた件ですわ。エンバーミング用薬品を扱う商会の調査結果」
その瞬間、ローレンの意識が切り替わった。
「何かわかったんですか」
「ええ」
ロゼは頷く。
「ラーベラ薬品商会が少し妙ですの」
「妙?」
「定期的に防腐薬を買っていた人物がいましたわ」
ローレンの表情が僅かに固まる。
防腐薬。
死体保存。
四十二人の首無し死体。
頭の中で別々だった線が、ゆっくり近付いていく。
「名前は?」
「ハーネストと言う医者ですわ」
市場の喧騒が遠のいた。
そんな錯覚を覚えた。
その名は知っている。
つい最近聞いた。
「西区大火災の日に殺されていた……スラムの医者ですか」
「その方ですわ」
ロゼは即答した。
ローレンの眉が寄る。
ロゼは続けた。
「購入量が不自然でしたの」
「どれくらい?」
「小さな診療所で消費するには多すぎますわね」
扇子の先で空中に線を描く。
「二週間ごと。毎回同じ量。一度も変わらない」
毎日変動する不特定多数の人を診察しといて、消費量が全く変わらない。
むしろそちらの方が不自然だった。
「届け先は?」
「診療所になっていますわ」
「診療所以外は?」
「確認できませんでした」
ローレンは黙った。
考えている時の癖だった。
ロゼは少し間を置く。
情報を売る商人の間だ。
相手が次の言葉を欲しがる瞬間を待つ。
「それと」
ローレンが顔を上げる。
「まだあるんですか」
「購入を始めた時期なのですが」
ロゼの瞳が真っ直ぐ向けられる。
「四か月前です」
ローレンの脳裏に資料が浮かんだ。
失踪者数の推移。
四か月前。
増加開始。
完全に一致する。
だが――。
その瞬間、別の違和感が喉元までせり上がった。
首無し死体の中にはミイラ化が進んだ遺体があった。
先ほど目を通していた検視の資料では三年から四年前の死亡と推定されている。
四か月前から薬品購入。
三年以上前の死体。
数字が噛み合わない。
(なんだ、このズレは……)
失踪者増加と薬品購入は繋がる。
だがミイラ化遺体の存在だけが、そこからはみ出している。
ハーネストが途中で計画を引き継いだのか。
それとも。
ローレンが思考を巡らせていると、ロゼが窓の外へ目を向けた。
「もっとも」
「本人は死んでおりますからね」
その声音は軽い。
だが内容は重い。
「何に使っていたかは、もう聞けませんわ」
ローレンは窓の外を見る。
市場では何事もなく人々が行き交っている。
子供が走り。
魚屋が怒鳴り。
鐘楼から正午を告げる鐘が鳴った。
だがローレンの頭の中では別の景色が出来上がりつつあった。
教団。
失踪者。
防腐薬。
首無し死体。
旧時計塔。
ハーネスト。
散らばっていた欠片が少しずつ噛み合い始める。
そして噛み合えば噛み合うほど、見えてくるものがある。
誰かが長い時間をかけて準備した犯罪だ。
偶然で積み上がる数字ではない。
「ここで降ります」
突然ローレンが言った。
馬車が減速する。
「旧時計塔へ向かいます。皆には資料を共有しておいてください」
「承知しましたわ」
ロゼは微笑んだ。
その笑みは商人の笑みだった。
情報を売り渡した人間の顔。
ローレンは一礼し、馬車を降りる。
扉が閉まる。
ロゼを乗せた馬車はパーラメント邸へ向かって走り去った。
残されたローレンはしばらくその場に立ち尽くす。
(三年前の死体と四か月前の薬品購入……)
そこだけが引っかかる。
まるで歯車の一枚だけ形が違う。
だが違和感ほど価値のある証拠はない。
捜査とは、説明できないものを追う仕事だ。
ローレンは旧時計塔へ向かって歩き出した。
調べれば分かる。
そう考えた、その時だった。
人混みの向こう。
黒い外套の男が横切った。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
だがローレンの足が止まる。
男は振り返らない。
顔も見えない。
それなのに妙だった。
背中が妙に記憶へ引っかかる。
(誰だ……?)
人波が流れる。
荷車が横切る。
魚売りが怒鳴る。
次の瞬間には、男の姿は完全に消えていた。
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