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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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残り6日 早朝(治安局にて)

夜明け前のザレイドは、まだ静かだった。


城壁の上では、防衛部隊の兵士たちが眠気を噛み殺しながら、白み始めた東の空を見ている。


市場へ向かう荷馬車が石畳を軋ませ、井戸端には水桶を抱えた女たちが集まり、パン窯からは白い煙が立ち上っていた。


平和な朝。


少なくとも、街の住人たちはそう思っていた。


だが、政庁の地下書庫では。


一人の男が、震える手で羊皮紙を捲っていた。


治安局記録官、エドワード・マリス。


四十代半ば。


薄くなった頭髪と神経質そうな顔立ちをした男である。


その額には、朝の冷気に似合わない汗が浮かんでいた。


「おかしい……」


掠れた声が漏れる。


机の上には、失踪者名簿が積み上げられていた。


一冊や二冊ではない。


十年分だ。


エドワードは夜を徹して、その全てに目を通していた。


理由は単純だった。


昨日、上級監察官ダンデ・クロイスが訪ねてきたからである。


銀の剣の友に所属している改革派。


青二才と呼ぶには少し老けているが、それでもエドワードにとっては面倒な若造だった。


三十代後半で目つきだけは妙に鋭い。


失踪者の記録を作り直せ。


そう言われた時、エドワードは最初、適当に誤魔化すつもりだった。


どうせ貴族に媚びたい監察官の点数稼ぎだ。


そう思っていた。


だが違った。


ダンデは本気だった。


そして今日。


エドワードは、気づいてしまった。


「四十二人……」


記録簿を捲る。


また一人。


また一人。


また一人。


行方不明になった平民。


行方不明になった孤児。


行方不明になった流れ者。


一見すればばらばらだ。


年齢も、職も、家族構成も違う。


けれど、住んでいた区画に偏りがある。


ほんの少し。


無視できるほど小さく。


だが、十年分を並べると、そこだけ数字が膨らんで見えた。


特にここ三年。


失踪届の出ている区画が、明らかに寄っている。


「本当に……教団の仕業なのか……?」


黒山羊と毒ヘビの教団。


そう考えれば、複数犯という線は自然だった。


先日起きた西区の大火災。


上位精霊イフリートの出現。


あれほどの精霊を個人で召喚するのは、ほぼ不可能とされている。


だから捜査は、組織犯の方向へ傾いていた。


教団。


儀式。


複数の術者。


エドワードは、指先で名簿の行をなぞった。


もし、この偏りのある区画の失踪者と、デトロン川怪事件で発見された遺体の特徴を重ねたら。


もし、その一致が偶然でなかったら。


デトロン川怪事件――いや、コープスパーティーの準備は三年前から始まっていたことになる。


エドワードの喉が鳴った。


侶胡王国で起きたコープスパーティー。


あの猟奇的連続殺人事件は、半年前から発生していたと言われている。


だが、ザレイドの失踪者の偏りは三年前からだ。


時期が合わない。


方法も、規模も、準備期間も違う。


「……違うのか?」


教団。


コープスパーティー。


首無し死体。


西区大火災。


誰かが、それらを一つの線に見せようとしているのではないか。


そう思った瞬間だった。


地下書庫の扉が叩かれた。


コン。


コン。


コン。


規則正しい音。


エドワードは顔を上げる。


「誰だ?」


返事はない。


代わりに、扉がゆっくり開いた。


立っていたのは、黒い外套の女だった。


深く被ったフードのせいで、顔は見えない。


ただ、女の手には分厚い革鞄が握られていた。


「貴方が、エドワード・マリス様ですね」


穏やかな声だった。


しかし、その声を聞いた瞬間、エドワードの背筋に冷たいものが走った。


女は親指と中指を擦り合わせた。


パチン。


乾いた音が地下書庫に響く。


その瞬間、身体が重くなった。


椅子に縫い付けられたように、指一本まともに動かない。


「少々、お話がありましてね」


女は微笑んだ。


旧友に話しかけるような、柔らかい声だった。


エドワードの意識が、少しずつ遠のいていく。


地下書庫の奥で、蝋燭の火が小さく揺れた。


積み上げられた記録簿の影が壁を這い、紙の擦れる音だけが静寂を刻んでいる。


視界が霞む。


指先に力が入らない。


椅子から立ち上がろうとしても、膝が言うことを聞かなかった。


「な……にを……した……」


喉から漏れた声は、情けないほど弱かった。


女は答えない。


ゆっくりと机へ歩み寄り、革鞄を置く。


金具が外れた。


中には、大量の羊皮紙が詰め込まれていた。


失踪届。


戸籍の写し。


死亡記録。


治安局の保管資料。


その全てに、エドワードは見覚えがあった。


「なぜ……それを持っている……」


血の気が引いた。


治安局の内部資料だ。


許可なく持ち出せるはずがない。


女は一枚の書類を取り出す。


そこには、赤い印が押されていた。


「優秀な方で助かりました」


穏やかな声だった。


だからこそ、気味が悪い。


「三年前から偏りがある。そこまで辿り着かれたのでしょう?」


エドワードの瞳が揺れる。


知っている。


この女は、自分が何を調べ、何に気づいたのか知っている。


最初から。


全部。


「……誰だ」


「誰でも構いません」


女は微笑む。


「重要なのは、貴方が正解へ辿り着いたことです」


その瞬間、革鞄の中で何かが蠢いた。


紙束の隙間から、黒い靄が這い出してくる。


煙ではない。


生きている。


それは指ほどの大きさの黒い影となり、机の上を渡って、エドワードの足元へ辿り着いた。


「ま、待て――」


影が飛び跳ねた。


口を閉じる間もない。


黒い影が、喉へ潜り込んだ。


胃が裏返る。


肺が焼ける。


爪で首を掻き毟っても、何も出てこない。


視界が明滅する。


記憶が剥がれていく。


幼い頃の記憶。


初めて治安局へ入った日の記憶。


妻の顔。


同僚の名前。


ダンデ・クロイスの鋭い目。


三年前からの失踪者の偏り。


辿り着いた答え。


それらが、内側から食われていく。


女は静かに見下ろしていた。


「安心してください」


エドワードの瞳から、光が薄れていく。


「貴方のお仕事は、これからも続きます」


机の上には、失踪者名簿が広がっていた。


その隣には、誰かが用意したもう一冊の名簿。


赤い印が押された書類。


偏りのない、整いすぎた記録。


黒山羊と毒ヘビの教団へ続くためだけに作られた、偽物の道。


エドワード・マリスは、ゆっくりと羊皮紙へ手を伸ばした。


震えは、もうない。


恐怖もない。


疑問もない。


ただ命じられた通りに、名簿を書き換え始めた。


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