残り6日 早朝(治安局にて)
夜明け前のザレイドは、まだ静かだった。
城壁の上では、防衛部隊の兵士たちが眠気を噛み殺しながら、白み始めた東の空を見ている。
市場へ向かう荷馬車が石畳を軋ませ、井戸端には水桶を抱えた女たちが集まり、パン窯からは白い煙が立ち上っていた。
平和な朝。
少なくとも、街の住人たちはそう思っていた。
だが、政庁の地下書庫では。
一人の男が、震える手で羊皮紙を捲っていた。
治安局記録官、エドワード・マリス。
四十代半ば。
薄くなった頭髪と神経質そうな顔立ちをした男である。
その額には、朝の冷気に似合わない汗が浮かんでいた。
「おかしい……」
掠れた声が漏れる。
机の上には、失踪者名簿が積み上げられていた。
一冊や二冊ではない。
十年分だ。
エドワードは夜を徹して、その全てに目を通していた。
理由は単純だった。
昨日、上級監察官ダンデ・クロイスが訪ねてきたからである。
銀の剣の友に所属している改革派。
青二才と呼ぶには少し老けているが、それでもエドワードにとっては面倒な若造だった。
三十代後半で目つきだけは妙に鋭い。
失踪者の記録を作り直せ。
そう言われた時、エドワードは最初、適当に誤魔化すつもりだった。
どうせ貴族に媚びたい監察官の点数稼ぎだ。
そう思っていた。
だが違った。
ダンデは本気だった。
そして今日。
エドワードは、気づいてしまった。
「四十二人……」
記録簿を捲る。
また一人。
また一人。
また一人。
行方不明になった平民。
行方不明になった孤児。
行方不明になった流れ者。
一見すればばらばらだ。
年齢も、職も、家族構成も違う。
けれど、住んでいた区画に偏りがある。
ほんの少し。
無視できるほど小さく。
だが、十年分を並べると、そこだけ数字が膨らんで見えた。
特にここ三年。
失踪届の出ている区画が、明らかに寄っている。
「本当に……教団の仕業なのか……?」
黒山羊と毒ヘビの教団。
そう考えれば、複数犯という線は自然だった。
先日起きた西区の大火災。
上位精霊イフリートの出現。
あれほどの精霊を個人で召喚するのは、ほぼ不可能とされている。
だから捜査は、組織犯の方向へ傾いていた。
教団。
儀式。
複数の術者。
エドワードは、指先で名簿の行をなぞった。
もし、この偏りのある区画の失踪者と、デトロン川怪事件で発見された遺体の特徴を重ねたら。
もし、その一致が偶然でなかったら。
デトロン川怪事件――いや、コープスパーティーの準備は三年前から始まっていたことになる。
エドワードの喉が鳴った。
侶胡王国で起きたコープスパーティー。
あの猟奇的連続殺人事件は、半年前から発生していたと言われている。
だが、ザレイドの失踪者の偏りは三年前からだ。
時期が合わない。
方法も、規模も、準備期間も違う。
「……違うのか?」
教団。
コープスパーティー。
首無し死体。
西区大火災。
誰かが、それらを一つの線に見せようとしているのではないか。
そう思った瞬間だった。
地下書庫の扉が叩かれた。
コン。
コン。
コン。
規則正しい音。
エドワードは顔を上げる。
「誰だ?」
返事はない。
代わりに、扉がゆっくり開いた。
立っていたのは、黒い外套の女だった。
深く被ったフードのせいで、顔は見えない。
ただ、女の手には分厚い革鞄が握られていた。
「貴方が、エドワード・マリス様ですね」
穏やかな声だった。
しかし、その声を聞いた瞬間、エドワードの背筋に冷たいものが走った。
女は親指と中指を擦り合わせた。
パチン。
乾いた音が地下書庫に響く。
その瞬間、身体が重くなった。
椅子に縫い付けられたように、指一本まともに動かない。
「少々、お話がありましてね」
女は微笑んだ。
旧友に話しかけるような、柔らかい声だった。
エドワードの意識が、少しずつ遠のいていく。
地下書庫の奥で、蝋燭の火が小さく揺れた。
積み上げられた記録簿の影が壁を這い、紙の擦れる音だけが静寂を刻んでいる。
視界が霞む。
指先に力が入らない。
椅子から立ち上がろうとしても、膝が言うことを聞かなかった。
「な……にを……した……」
喉から漏れた声は、情けないほど弱かった。
女は答えない。
ゆっくりと机へ歩み寄り、革鞄を置く。
金具が外れた。
中には、大量の羊皮紙が詰め込まれていた。
失踪届。
戸籍の写し。
死亡記録。
治安局の保管資料。
その全てに、エドワードは見覚えがあった。
「なぜ……それを持っている……」
血の気が引いた。
治安局の内部資料だ。
許可なく持ち出せるはずがない。
女は一枚の書類を取り出す。
そこには、赤い印が押されていた。
「優秀な方で助かりました」
穏やかな声だった。
だからこそ、気味が悪い。
「三年前から偏りがある。そこまで辿り着かれたのでしょう?」
エドワードの瞳が揺れる。
知っている。
この女は、自分が何を調べ、何に気づいたのか知っている。
最初から。
全部。
「……誰だ」
「誰でも構いません」
女は微笑む。
「重要なのは、貴方が正解へ辿り着いたことです」
その瞬間、革鞄の中で何かが蠢いた。
紙束の隙間から、黒い靄が這い出してくる。
煙ではない。
生きている。
それは指ほどの大きさの黒い影となり、机の上を渡って、エドワードの足元へ辿り着いた。
「ま、待て――」
影が飛び跳ねた。
口を閉じる間もない。
黒い影が、喉へ潜り込んだ。
胃が裏返る。
肺が焼ける。
爪で首を掻き毟っても、何も出てこない。
視界が明滅する。
記憶が剥がれていく。
幼い頃の記憶。
初めて治安局へ入った日の記憶。
妻の顔。
同僚の名前。
ダンデ・クロイスの鋭い目。
三年前からの失踪者の偏り。
辿り着いた答え。
それらが、内側から食われていく。
女は静かに見下ろしていた。
「安心してください」
エドワードの瞳から、光が薄れていく。
「貴方のお仕事は、これからも続きます」
机の上には、失踪者名簿が広がっていた。
その隣には、誰かが用意したもう一冊の名簿。
赤い印が押された書類。
偏りのない、整いすぎた記録。
黒山羊と毒ヘビの教団へ続くためだけに作られた、偽物の道。
エドワード・マリスは、ゆっくりと羊皮紙へ手を伸ばした。
震えは、もうない。
恐怖もない。
疑問もない。
ただ命じられた通りに、名簿を書き換え始めた。
面白かった思う方が作者の精神安定のために、ブックマーク、評価をお願いします。
ログインなしで感想機能を開放しました。
お気軽に感想を書き込んでください。




