タイムリミット
フッフッフ。
汝は知らないでしょうが、我は実は、唯一神に仕える天使なのですよ。
……何ですか、その疑いの眼差しは。
良いでしょう。
今ここで、奇跡を起こしてご覧に入れましょう。
ギルエルは両手を合わせ、目を閉じた。
そして、祈った。
しばしの沈黙。
だが、何も起こらない。
風も吹かない。
光も降りない。
皿も割れない。
ギルエルは満足げに目を開けた。
どうです?
我が奇跡は。
え?
何も起こっていない?
何をおっしゃいますやら。
今、汝は我に愛されたのですよ。
人に愛されるとは、それだけで奇跡なのです。
それをお忘れなきように。
――ギルエルの回想より抜粋
◇
夕暮れが近づいていた。
パーラメント邸の庭園では、薔薇の花弁が風に揺れている。
西日を受けた噴水は赤く染まり、水音だけが静かに響いていた。
先ほどまで賑わっていた懇親会も終盤を迎え、貴族たちは帰り支度を始めている。
馬車の車輪。
従者たちの足音。
別れの挨拶。
その穏やかな光景とは裏腹に、邸宅二階の応接室には、重苦しい沈黙が沈んでいた。
セレスティアは窓際に立っていた。
組んだ腕に、無意識に力が入っている。
向かいのソファにはレオヴァンが座っていた。
獣人の勇者は、黙って酒杯を回している。
いつもの豪放な気配はない。
部屋に入ってから十分。
セレスティアは、まだ何も説明していなかった。
「で?」
先に口を開いたのは、レオヴァンだった。
「何があった」
「結局、ルーシュ嬢ちゃんには会えたのか?」
セレスティアは、トイレに行くと言って部屋を出たきり戻らなかった。
レオヴァンが探しに出ると、廊下で片膝をついたまま動けなくなっていた。
ひとまず自室のベッドへ運んだ。
だが、それからも彼女は一言も喋らなかった。
そして今、ようやく応接室に戻ってきた。
それでもまだ、窓の外を見たまま動かない。
「レオヴァン」
沈黙していたセレスティアが、やっと口を開いた。
「お前は、神話級を見たことがあるか」
酒杯の動きが止まる。
獣耳が、ぴくりと動いた。
「なぇよ」
レオヴァンの声が低くなる。
「俺が知る限り、現存してねぇ」
「そいつが居るのは伝承の中だけだろ?」
「そうだろうな」
セレスティアは自嘲気味に笑った。
「私も、そう思っていた」
そこでようやく振り返る。
碧色の瞳には、疲労が滲んでいた。
ただの魔力切れではない。
氷刻の円剣を使い過ぎた後の消耗なら、レオヴァンは何度も見ている。
だが今回は違う。
激しく戦ったわけでもない。
傷もない。
それなのに、セレスティアの顔から血の気が引いていた。
レオヴァンは酒杯を机に置く。
「何を見た」
セレスティアは一瞬だけ黙った。
言葉にすれば、自分でも馬鹿げていると思ったからだ。
だが見た。
確かに見た。
「アウグストゥスのメイドだ」
「アエーシュモー」
「奴がルーシュにかけていた術に、《ディスペル》を使った」
レオヴァンの目が細くなる。
「理由は」
「ルーシュの様子がおかしかった」
「会話が成立しない。意思もない。催眠か精神操作だと判断した」
「妥当だと思うぜ、その判断は」
レオヴァンも否定しなかった。
同じ場にいれば、自分も止めた。
あるいは止める前に、首根っこを掴んでいたかもしれない。
問題は、その先だ。
「だが、失敗した」
「……あん?」
「私の《ディスペル》はレベル六だ」
セレスティアはゆっくり言う。
「それが弾かれた」
応接室の空気が変わった。
レオヴァンの表情から、完全に笑みが消える。
「お前が術式ミスったんじゃねぇのか?」
「ミスるわけがない、ディスペル自体は中級魔法だぞ」
「そこまで難しい魔法じゃない」
セレスティアは吐き捨てる。
「解除失敗の反動まで受けたんだぞ」
「間違えようがない」
「馬鹿な」
レオヴァンが立ち上がった。
床板が軋む。
英雄級の二人にとって、それは常識の崩壊を意味していた。
レベル六。
人類が到達できる頂点。
王国最高峰の魔術師でも届かない者がいる領域。
その解除魔法を無効化する術式など、理論上は存在しても、現実には存在しない。
そういうことになっていた。
「まだある」
セレスティアは続けた。
「ルーシュの影から、何かが出た」
「何か、だぁ?」
「茨だと思う」
「黒い影の茨」
「生きていた。少なくとも、私にはそう見えた」
レオヴァンは何も言わない。
ただ聞いている。
「そしてアエーシュモーは、それを触れもせず破壊した」
「魔法陣は?」
「ない」
「詠唱は?」
「ない」
「魔力の動きは」
「分からない」
セレスティアは唇を噛んだ。
「本当に分からなかったんだ」
「ただ、壊れた」
応接室に沈黙が落ちる。
庭から遠く、馬車の支度をする音が聞こえた。
平和な音だった。
腹立たしいほどに。
長い沈黙の後、レオヴァンが低く呟いた。
「ギルドに報告するぞ」
「何?」
「この仕事は俺たちだけじゃ無理だってな」
セレスティアは眉を上げる。
「逃げるのか!」
「違う」
レオヴァンの黄金色の瞳が、鋭く細まる。
「応援を呼ぶ」
「これは俺たち二人で扱う案件じゃねぇ」
「王国案件ですらない」
「勇者ギルド本部案件だ」
セレスティアは黙った。
否定できなかった。
レベル六の《ディスペル》を弾くメイド。
影から茨を出す令嬢。
それを抱え込むアウグストゥス・ヴァーミリオン。
首無し死体事件。
黒山羊と毒ヘビの教団。
西区の大火災。
散らばっていた点が、嫌な形で繋がり始めていた。
「……呼ぶなら早い方がいい」
セレスティアは言った。
「だが、その前に」
「何だ」
「アウグストゥスを逃がさない」
レオヴァンは鼻で笑った。
「当たり前だ」
「逃げ道を塞ぐぞ」
◇
アウグストゥスは、予定より早くパーラメント邸を後にした。
懇親会で起きたイレギュラーのせいだ。
本来なら、ルトベール・ハウスマンについて、セレスティアがどの程度まで情報を持っているのか確認したかった。
だが、それどころではなくなった。
セレスティアがいつまで経っても庭園に現れなかった。
ルーシュが庭園に来ていたにも関わらずだ。
単純にルーシュの姿を見つけられなかったのか。
そうでなければ、向こうにも何かトラブルがあったのか。
この時点で、嫌な予感はしていた。
そして自邸に戻ったアウグストゥスは、玄関で出迎えるアエーシュモーを見て、その予感が正しかったことを理解した。
アエーシュモーは恭しく礼をしている。
いつも通り無表情。
だが、こういう時の彼女は、大抵ろくでもない報告を持っている。
「何かあったのか」
アウグストゥスは短く尋ねた。
「はい」
アエーシュモーは答える。
「少々」
アウグストゥスの眉間に、わずかに皺が寄る。
アエーシュモーの“少々”は、“かなり”と同義だ。
「何があった」
そう言いながら、アウグストゥスは屋敷の玄関をくぐった。
アエーシュモーが少し後ろを歩く。
「庭園から馬車へ向かう途中、セレスティア殿と会いました」
その時点で、アウグストゥスは露骨に目頭を押さえた。
「続けろ」
「その前に、お嬢様は庭園で暴れたため、私の催眠下にありました」
「セレスティア殿は、それを不審に思ったのでしょう」
「《ディスペル》を使われました」
沈黙。
アウグストゥスは歩みを止めない。
「結論を言え」
「はい」
アエーシュモーは淡々と告げる。
「私がレベル七以上の術式を扱えること」
「そして、お嬢様が影の茨に寄生されていること」
「この二点が露見しました」
アウグストゥスは深く息を吐いた。
怒鳴らない。
顔色も変えない。
ただ、廊下の先を見たまま思考を始める。
(アエーシュモーがレベル七以上の術式を組めると知られた)
(まずいが、まだ誤魔化しが効く)
(獣人はともかく、セレスティアがロゼやローレンに話したところで信じまい)
(何かの見間違い。勘違いにジョーク。そう言える)
(レベル七以上を扱える存在など、人間社会には存在しないことになっている)
(信憑性に欠ける話だ)
問題は、影の茨だった。
(まだそこまでは調べていないだろう)
(だが、ビオランテ事件まで掘られるとまずい)
ビオランテ事件。
四年前、イグナティア小王国の西にあるナラタイラ共和国。
その都市ビオランテに、ある日突然、謎のモンスターが現れた。
街の一部を破壊し、約四百人の死傷者を出し、そして忽然と姿を消した事件である。
影の茨を見ただけで、そこまで連想できるとは思えない。
普通なら。
だが今は、星の巡りが最悪だ。
何かの拍子に、セレスティアがビオランテ事件とルーシュの影の茨を結びつけても不思議ではない。
予期せぬ出来事が連続しているため、多少ナーバスになってるかもしれないが、警戒に越したことはない。
「それで」
アウグストゥスは尋ねる。
「お前はセレスティアをどうした」
「何も」
アエーシュモーは即答した。
「勇者の運命値が高いことは、旦那様もご存じでしょう」
「私が手を出すには、条件を満たすのが少々難しくございました」
運命値。
世界にどこまで干渉することを許されるかを示す数値。
運命値が高い者ほど、世界に功績あるいは悪名を刻みやすい。
別名、英雄因子。
英雄級の力を持つ者は、この運命値が高い傾向にある。
そしてアエーシュモーは、この世界の存在ではない。
彼女がこの世界で強力な力を行使するには、常に対価が必要になる。
特に、運命値の高い相手へ直接干渉する場合、その対価は跳ね上がる。
アウグストゥスはそれを理解していた。
だから咎めなかった。
咎めても意味がない。
「ふん」
短く息を吐き、アウグストゥスは廊下を歩きながら方針を切り替える。
「お前の存在を知られた」
「執政官や役人はともかく、勇者たちはギルドに支援を要請する可能性が高い」
「もし俺が犯人なら、あの二人だけでは手に負えんからな」
アエーシュモーは黙って聞く。
「他の勇者が到着するまで、どれほど猶予がある」
アウグストゥスは足を止めた。
「私の寿命をくれてやる」
「未来を覗け、アエーシュモー」
「畏まりました」
アエーシュモーの瞳孔が、ゆっくり開いた。
その精神が、時間の流れと同期する。
現在の視界が剥がれ落ち、ここではない場所、まだ起きていない出来事が、無数の絵画のように浮かび上がる。
断片。
人の顔。
馬車の列。
街道の土埃。
天秤に放射状に広がる八条の光。
その天秤を支えるのは抜き身の剣。
勇者ギルドの紋章だった。
流れる川のように、無数の未来がアエーシュモーへ押し寄せた。
その中の一枚に、彼女の視線が止まる。
絵画が動き出した。
「今から十四日後」
アエーシュモーは告げる。
「六人の勇者がザレイドに現れます」
「それで、ルーシュはどうなる」
「旦那様は逃げおおせます」
アエーシュモーは一拍置いた。
「ですが、お嬢様は捕らえられ、処刑されます」
アウグストゥスは右手で顔の半分を覆った。
深い溜息が漏れる。
怒りではない。
悲嘆でもない。
計算を組み直すための、一瞬の排熱だった。
「少なくとも十四日以内に、執政官へ認めさせねばならん」
「四十二人の首無し死体は、黒山羊と毒ヘビの教団が作ったのだと」
「政庁から事件解決を勇者ギルドへ報告させれば、勇者がこの街で活動する理由は潰せる」
「だがこれは、予想に過ぎん」
アウグストゥスはアエーシュモーを見た。
その視線の意味に、アエーシュモーはすぐ気づく。
「よろしいのですか?」
「未来視の連続使用は、寿命を大幅に削りますが」
「構わん」
アウグストゥスは一切迷わなかった。
「見ろ」
「畏まりました」
アエーシュモーは、再び未来を覗いた。
今度はさらに深く。
複数の可能性を切り分け、条件を変え、どの未来が生き残るかを読む。
時間の濁流が、彼女の瞳の奥を削っていく。
やがて、答えが出た。
「六日以内です」
「六日以内に、執政官が黒山羊と毒ヘビの教団を犯人とする報告書を上げれば、勇者たちの来訪は阻止できます」
「決まりだ」
アウグストゥスは杖を鳴らした。
石床に、乾いた音が響く。
「本来は、もう少しのんびり進めるつもりだった」
「だが予定を変える」
「六日以内に、どんな手を使っても、黒山羊と毒ヘビの教団を犯人とする報告書を勇者たちに提出させる」
アエーシュモーは、静かに頭を下げた。
「そのためには?」
アウグストゥスの口元が、わずかに歪む。
「証拠が足りないなら作れ」
「証人が足りないなら喋らせろ」
「死体が足りないなら、用意しろ」
「連中が欲しがっている答えを、こちらから喉奥へ押し込んでやる」
屋敷の廊下は、静かだった。
しかしその沈黙の中で、盤面は大きく動き始めていた。
この日を境に。
疑いを確信へ変えたセレスティアと。
確信を証拠にさせまいとするアウグストゥスの戦いは、次の段階へ入る。
残された猶予は、六日。
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