レベル7
午後の陽光が、パーラメント邸の廊下に長い影を落としていた。
磨かれた石床は、窓から差し込む光を白く反射している。
遠くでは、懇親会の喧騒がまだ続いていた。
笑い声。
杯が触れ合う音。
復興支援を語る貴族たちの、上品で退屈な談笑。
だが、その音はここまで届かない。
廊下には、別の緊張が満ちていた。
アエーシュモーは立ち止まっていた。
ルーシュの手を握ったまま。
その正面に立つのは、英雄級勇者セレスティア。
碧色の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。
◇
「……随分と急いでいるな」
セレスティアの視線は、アエーシュモーではなく、その隣の少女に向いていた。
薄桃色の髪。
細い身体。
虚ろな目。
(この娘が、ルーシュ・ヴァーミリオンか)
「どこへ行くつもりだ?」
「屋敷へ戻るだけです」
アエーシュモーは即答した。
声は冷たい。
「理由は?」
「旦那様の命令です」
「理由を聞いている」
「それを勇者殿に説明する義務はありません」
切り捨てるような言い方だった。
だが、セレスティアは動じなかった。
彼女の目はルーシュの顔から離れない。
焦点の合わない瞳。
力の抜けた頬。
立ってはいるが、意識が奥に沈んでいる。
普通の体調不良ではない。
「体調不良か?」
「はい」
「なら本人に聞く」
セレスティアは一歩前に出た。
「ルーシュ殿」
反応はない。
「ルーシュ殿」
二度目で、ようやく少女の瞳が動いた。
ゆっくり。
人形に糸を通したような動きで、セレスティアを見る。
「なんでしょう」
抑揚のない声だった。
セレスティアの眉がわずかに動く。
「帰りたいのか?」
「帰ります」
「帰りたいから帰るのか?」
「帰ります」
「誰の意思だ」
「帰ります」
完全な反復。
壊れた蓄音機のようだった。
セレスティアの目が細くなる。
(催眠か)
(あるいは精神操作)
(理由は分からんが、見過ごす筋合いはない)
アエーシュモーも、セレスティアの視線の変化に気づいていた。
背筋を伸ばしたまま、ルーシュの手を離さない。
廊下に数秒の沈黙が落ちる。
やがてセレスティアは、小さく息を吐いた。
「失礼」
「本当に体調が悪いらしいな」
「早く休ませてやってくれ」
そう言って、あっさり道を譲った。
アエーシュモーの瞳が、ほんのわずかに細くなる。
「随分と物分かりがよろしいですね」
「物分かりが悪い方が好みなら、そうするが」
「いえ、結構です」
アエーシュモーは軽く会釈した。
「ご配慮、感謝いたします」
彼女はルーシュを連れ、セレスティアの横を通り過ぎる。
その背中を見送りながら、セレスティアは右手を静かに上げた。
詠唱の声は低いかった。
廊下の空気が震えた。
「世界よ、私に資格があるのなら応えよ」
「ここに異議あり」
「この事象は不当である」
「この契約は過剰である」
「この結果は本来にあらず」
「よって、世界の名において審理を求める」
「契約を再審せよ」
「事象を再定義せよ」
「――《解除》」
セレスティアの右手に魔法陣が展開する。
複雑な光の輪が回転し、次の瞬間、魔法陣は手元から消えた。
代わりに、ルーシュの身体を覆う。
解除魔法。
対象に掛けられた魔法、契約を解体する術。
セレスティアの《ディスペル》はレベル六。
英雄級が扱える最高位である。
並の催眠や精神操作なら、一瞬で剥がれる。
――はずだった。
魔法陣が、ルーシュの身体を通り抜ける。
その直後。
ぱきん、と乾いた音がした。
光の輪が砕けた。
解除に失敗したのだ。
「……馬鹿な」
セレスティアの喉から声が漏れる。
「私の《ディスペル》は、レベル六だぞ」
魔法には階位がある。
最下層がレベル一。
最高位がレベル十。
《ディスペル》は原則として、術者と同階位までの魔法しか解除できない。
レベル六とは、英雄級の人材が到達できる上限だ。
レベル七以上は、神話級。
神、あるいは神に近い上位存在の領域。
つまり。
レベル六の《ディスペル》を弾いたということは、アエーシュモーの催眠はその領域に踏み込んでいる。
解除失敗の反動が来た。
セレスティアの視界が揺れる。
膝から力が抜け、石床に片膝をついた。
精神力を削られた。
ただし、反動を受けたのは彼女だけではない。
ルーシュも同じだった。
催眠状態のまま精神を削られた少女は、がくんと膝を折り、そのまま糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちる。
アエーシュモーが舌打ちした。
小さな音だった。
だが、はっきり聞こえた。
(催眠状態で精神力を削られると、立てなくなる)
(面倒ですね)
(いっそ影へ入れて運びますか)
一方、セレスティアも必死に思考を回していた。
(レベル六が弾かれた)
(あり得るのか)
(いや、今実際に弾かれた)
(この女は神話級相当の術者なのか)
(そんな人間が存在するのか)
アウグストゥスですら、レオヴァンと二人がかりで勝てるかどうか怪しい。
そのうえ、こんな化け物まで抱えている。
しかも目の前の女は、今も強者の圧をほとんど出していない。
戦えば勝てそうに見える。
触れれば倒せそうに見える。
その見え方そのものが、気味悪かった。
彼女の思考から、ルーシュの存在が抜け落ち。
セレスティアの意識が、アエーシュモーへ引き寄せられる。
それとは裏腹に。
アエーシュモーは、セレスティアにはもうほとんど関心を払っていなかった。
倒れたルーシュへ手をかざす。
影に沈めて運ぶためだ。
その瞬間。
ルーシュの周囲から、黒い靄が立ちのぼった。
床に落ちた影が、蠢く。
黒い茨が生えた。
棘だらけの蔓が、倒れたルーシュを囲むように伸びる。
宿主が突然意識を失ったことで、攻撃されたと判断したのだろう。
影の茨は、周囲を探るようにうねり、気配を嗅ぐように先端を動かしていた。
普段無表情なアエーシュモーの顔に、苛立ちが浮かぶ。
「よりにもよって、勇者の目の前で姿を見せるとは」
声が低くなる。
「舐めたことをしてくれますね」
「この下等生物」
「誰が後始末をすると思っているのですか」
その怒気に反応したのか。
影の茨が、アエーシュモーを敵と認識した。
蔓が伸びる。
黒い棘が空気を裂く。
だが、届かない。
アエーシュモーの手前、六十センチほどの位置で、蔓が弾け飛んだ。
破裂。
粉砕。
黒い欠片が塵になって消える。
何が起きたのか、セレスティアには見えなかった。
ただ、影の茨が突然砕けたようにしか見えない。
アエーシュモーは、セレスティアをどう処理するか考えていた。
(一番見られてはいけないものを)
(一番見せてはいけない人物に見られましたか)
(ここで殺せば楽でしょうね)
(ですが、英雄級勇者が死ねば勇者ギルドが全力で犯人を探す)
(それはそれで一興ですが、旦那様との契約があります)
(あの男の不興を買えば、ペナルティで契約期間が延びる)
(それは面倒です)
さらに言えば、英雄級は運命値が高い。
干渉するにはコストがかかりすぎる。
殺す。
記憶を消す。
魂に干渉する。
どれもできる。
だが、対価なしでやれば因果律の揺り返しが来る。
アエーシュモー自身の存在が歪む危険がある。
(誰かが対価を差し出してくれれば話は早いのですが)
(今この場に、それをする人間はいませんし)
(であるなら、やれることはないのでしょう)
(仕方ありません)
結論を出すのは早かった。
アエーシュモーは影の茨をすべて弾き飛ばし、塵に変えた。
セレスティアには、黒い蔓が勝手に爆ぜたようにしか見えない。
アエーシュモーは完全に興味を失った顔で、倒れたルーシュへ影を伸ばした。
黒い影が床を広がり、ルーシュの身体を包む。
少女は影の中へ沈んでいく。
水に落ちるより静かに。
棺に入るより自然に。
ルーシュの姿は、床から消えた。
アエーシュモーはセレスティアへ向き直る。
「ご機嫌よう、勇者殿」
軽く会釈する。
人差し指を唇の前に立、誰にも言わないようにジェスチャーで示し。
そいして、そうかと思うと何事もなかったかのように。
そのまま廊下の先へ歩き出した。
止めるべきだった。
分かっていた。
だがセレスティアの身体は、まだ動かなかった。
精神を削られた膝が震える。
それ以上に、目の前で見たものが、思考を縛っていた。
レベル六の《ディスペル》を弾く催眠。
ルーシュの影から現れた黒い茨。
それを身動き一つせず粉砕したメイド。
そして、影へ沈んだルーシュ。
セレスティアは床に片膝をついたまま、奥歯を噛み締める。
疑いでは足りない。
可能性では足りない。
これはもう、事件どころの騒ぎではない。
ヴァーミリオン男爵家には、何かがある。
それも、首無し死体事件以上に危険な脅威が。
この瞬間。
アウグストゥス・ヴァーミリオンは、セレスティアの中で容疑者から討つべき悪へ変わった。
必要なのは、もはや疑う理由ではない。
どう追い詰めるか。
それだけだった。
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