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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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レベル7

午後の陽光が、パーラメント邸の廊下に長い影を落としていた。


磨かれた石床は、窓から差し込む光を白く反射している。


遠くでは、懇親会の喧騒がまだ続いていた。


笑い声。


杯が触れ合う音。


復興支援を語る貴族たちの、上品で退屈な談笑。


だが、その音はここまで届かない。


廊下には、別の緊張が満ちていた。


アエーシュモーは立ち止まっていた。


ルーシュの手を握ったまま。


その正面に立つのは、英雄級勇者セレスティア。


碧色の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。



「……随分と急いでいるな」


セレスティアの視線は、アエーシュモーではなく、その隣の少女に向いていた。


薄桃色の髪。


細い身体。


虚ろな目。


(この娘が、ルーシュ・ヴァーミリオンか)


「どこへ行くつもりだ?」


「屋敷へ戻るだけです」


アエーシュモーは即答した。


声は冷たい。


「理由は?」


「旦那様の命令です」


「理由を聞いている」


「それを勇者殿に説明する義務はありません」


切り捨てるような言い方だった。


だが、セレスティアは動じなかった。


彼女の目はルーシュの顔から離れない。


焦点の合わない瞳。


力の抜けた頬。


立ってはいるが、意識が奥に沈んでいる。


普通の体調不良ではない。


「体調不良か?」


「はい」


「なら本人に聞く」


セレスティアは一歩前に出た。


「ルーシュ殿」


反応はない。


「ルーシュ殿」


二度目で、ようやく少女の瞳が動いた。


ゆっくり。


人形に糸を通したような動きで、セレスティアを見る。


「なんでしょう」


抑揚のない声だった。


セレスティアの眉がわずかに動く。


「帰りたいのか?」


「帰ります」


「帰りたいから帰るのか?」


「帰ります」


「誰の意思だ」


「帰ります」


完全な反復。


壊れた蓄音機のようだった。


セレスティアの目が細くなる。


(催眠か)


(あるいは精神操作)


(理由は分からんが、見過ごす筋合いはない)


アエーシュモーも、セレスティアの視線の変化に気づいていた。


背筋を伸ばしたまま、ルーシュの手を離さない。


廊下に数秒の沈黙が落ちる。


やがてセレスティアは、小さく息を吐いた。


「失礼」


「本当に体調が悪いらしいな」


「早く休ませてやってくれ」


そう言って、あっさり道を譲った。


アエーシュモーの瞳が、ほんのわずかに細くなる。


「随分と物分かりがよろしいですね」


「物分かりが悪い方が好みなら、そうするが」


「いえ、結構です」


アエーシュモーは軽く会釈した。


「ご配慮、感謝いたします」


彼女はルーシュを連れ、セレスティアの横を通り過ぎる。


その背中を見送りながら、セレスティアは右手を静かに上げた。


詠唱の声は低いかった。


廊下の空気が震えた。


「世界よ、私に資格があるのなら応えよ」


「ここに異議あり」


「この事象は不当である」


「この契約は過剰である」


「この結果は本来にあらず」


「よって、世界の名において審理を求める」


「契約を再審せよ」


「事象を再定義せよ」


「――《解除(ディスペル)》」


セレスティアの右手に魔法陣が展開する。


複雑な光の輪が回転し、次の瞬間、魔法陣は手元から消えた。


代わりに、ルーシュの身体を覆う。


解除魔法ディスペル


対象に掛けられた魔法、契約を解体する術。


セレスティアの《ディスペル》はレベル六。


英雄級が扱える最高位である。


並の催眠や精神操作なら、一瞬で剥がれる。


――はずだった。


魔法陣が、ルーシュの身体を通り抜ける。


その直後。


ぱきん、と乾いた音がした。


光の輪が砕けた。


解除に失敗したのだ。


「……馬鹿な」


セレスティアの喉から声が漏れる。


「私の《ディスペル》は、レベル六だぞ」


魔法には階位がある。


最下層がレベル一。


最高位がレベル十。


《ディスペル》は原則として、術者と同階位までの魔法しか解除できない。


レベル六とは、英雄級の人材が到達できる上限だ。


レベル七以上は、神話級。


神、あるいは神に近い上位存在の領域。


つまり。


レベル六の《ディスペル》を弾いたということは、アエーシュモーの催眠はその領域に踏み込んでいる。


解除失敗の反動(ペナルティ)が来た。


セレスティアの視界が揺れる。


膝から力が抜け、石床に片膝をついた。


精神力を削られた。


ただし、反動を受けたのは彼女だけではない。


ルーシュも同じだった。


催眠状態のまま精神を削られた少女は、がくんと膝を折り、そのまま糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちる。


アエーシュモーが舌打ちした。


小さな音だった。


だが、はっきり聞こえた。


(催眠状態で精神力を削られると、立てなくなる)


(面倒ですね)


(いっそ影へ入れて運びますか)


一方、セレスティアも必死に思考を回していた。


(レベル六が弾かれた)


(あり得るのか)


(いや、今実際に弾かれた)


(この女は神話級相当の術者なのか)


(そんな人間が存在するのか)


アウグストゥスですら、レオヴァンと二人がかりで勝てるかどうか怪しい。


そのうえ、こんな化け物まで抱えている。


しかも目の前の女は、今も強者の圧をほとんど出していない。


戦えば勝てそうに見える。


触れれば倒せそうに見える。


その見え方そのものが、気味悪かった。


彼女の思考から、ルーシュの存在が抜け落ち。


セレスティアの意識が、アエーシュモーへ引き寄せられる。


それとは裏腹に。


アエーシュモーは、セレスティアにはもうほとんど関心を払っていなかった。


倒れたルーシュへ手をかざす。


影に沈めて運ぶためだ。


その瞬間。


ルーシュの周囲から、黒い靄が立ちのぼった。


床に落ちた影が、蠢く。


黒い茨が生えた。


棘だらけの蔓が、倒れたルーシュを囲むように伸びる。


宿主が突然意識を失ったことで、攻撃されたと判断したのだろう。


影の茨は、周囲を探るようにうねり、気配を嗅ぐように先端を動かしていた。


普段無表情なアエーシュモーの顔に、苛立ちが浮かぶ。


「よりにもよって、勇者の目の前で姿を見せるとは」


声が低くなる。


「舐めたことをしてくれますね」


「この下等生物」


「誰が後始末をすると思っているのですか」


その怒気に反応したのか。


影の茨が、アエーシュモーを敵と認識した。


蔓が伸びる。


黒い棘が空気を裂く。


だが、届かない。


アエーシュモーの手前、六十センチほどの位置で、蔓が弾け飛んだ。


破裂。


粉砕。


黒い欠片が塵になって消える。


何が起きたのか、セレスティアには見えなかった。


ただ、影の茨が突然砕けたようにしか見えない。


アエーシュモーは、セレスティアをどう処理するか考えていた。


(一番見られてはいけないものを)


(一番見せてはいけない人物に見られましたか)


(ここで殺せば楽でしょうね)


(ですが、英雄級勇者が死ねば勇者ギルドが全力で犯人を探す)


(それはそれで一興ですが、旦那様との契約があります)


(あの男の不興を買えば、ペナルティで契約期間が延びる)


(それは面倒です)


さらに言えば、英雄級は運命値が高い。


干渉するにはコストがかかりすぎる。


殺す。


記憶を消す。


魂に干渉する。


どれもできる。


だが、対価なしでやれば因果律の揺り返しが来る。


アエーシュモー自身の存在が歪む危険がある。


(誰かが対価を差し出してくれれば話は早いのですが)


(今この場に、それをする人間はいませんし)


(であるなら、やれることはないのでしょう)


(仕方ありません)


結論を出すのは早かった。


アエーシュモーは影の茨をすべて弾き飛ばし、塵に変えた。


セレスティアには、黒い蔓が勝手に爆ぜたようにしか見えない。


アエーシュモーは完全に興味を失った顔で、倒れたルーシュへ影を伸ばした。


黒い影が床を広がり、ルーシュの身体を包む。


少女は影の中へ沈んでいく。


水に落ちるより静かに。


棺に入るより自然に。


ルーシュの姿は、床から消えた。


アエーシュモーはセレスティアへ向き直る。


「ご機嫌よう、勇者殿」


軽く会釈する。


人差し指を唇の前に立、誰にも言わないようにジェスチャーで示し。


そいして、そうかと思うと何事もなかったかのように。


そのまま廊下の先へ歩き出した。


止めるべきだった。


分かっていた。


だがセレスティアの身体は、まだ動かなかった。


精神を削られた膝が震える。


それ以上に、目の前で見たものが、思考を縛っていた。


レベル六の《ディスペル》を弾く催眠。


ルーシュの影から現れた黒い茨。


それを身動き一つせず粉砕したメイド。


そして、影へ沈んだルーシュ。


セレスティアは床に片膝をついたまま、奥歯を噛み締める。


疑いでは足りない。


可能性では足りない。


これはもう、事件どころの騒ぎではない。


ヴァーミリオン男爵家には、何かがある。


それも、首無し死体事件以上に危険な脅威が。


この瞬間。


アウグストゥス・ヴァーミリオンは、セレスティアの中で容疑者から討つべき悪へ変わった。


必要なのは、もはや疑う理由ではない。


どう追い詰めるか。


それだけだった。


面白かった思う方が作者の精神安定のために、ブックマーク、評価をお願いします。


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