星の巡りに嫌われて
昼前のザレイドには、まだ焼け焦げた臭いが残っていた。
西区の空は白く霞み、焼け落ちた家々からこぼれた炭が、地面を黒く汚している。
街は動き始めていた。
荷車が瓦礫を運び、臨時治療所の前には家を失った人々が列を作り、兵士たちは通りの封鎖を少しずつ解いて回っている。
だが、ハウスマン子爵邸だけは、朝から別の戦場だった。
割れた窓。
倒れた家具。
踏み砕かれた絵画。
廊下の床には、使用人が引きずられた血の跡が、赤黒く伸びていた。
◇
パーラメント男爵邸の庭では、西区大火災の復興支援を名目にした50人ほどの規模の懇親会が開かれていた。
焼け出された平民たちが、まだ瓦礫の前で膝をついている昼前。
その庭では、貴族や有力商人たちが、絹と宝石で飾り立てた服をまとい、銀の杯を手に談笑している。
善意。
哀悼。
復興。
そうした言葉は、香水の匂いと一緒に庭を漂っていた。
その集まりの中に、アウグストゥスもいた。
隣にはギルエルが立っている。
ただし彼女の手には、会話用の扇でも書類でもなく、料理が山のように盛られた皿があった。
アウグストゥスがこの懇親会に出席した理由は、一つ。
招待客の名簿に、ルトベール・ハウスマン子爵の名があったからだ。
(なぜ、このタイミングでハウスマンの名前が出る)
(何かに気づいたのか)
(それとも偶然か)
直接確かめる手もあった。
だが、偶然だった場合は藪蛇になる。
だからアウグストゥスは、懇親会当日まで何もせず、大人しく招待に応じた。
内心の焦りは顔には出さないよう思考を続ける。
問題はハウスマンだけではなかった。
ルーシュもだ。
懇親会があると知ったルーシュが、同行したいと駄々をこねた。
当然、アウグストゥスは屋敷にいるよう命じた。
だが、リーベルの首を手に入れ損なったルーシュは、ひどく機嫌が悪かった。
屋敷に残せば、また外へ出るかもしれない。
リーベルを探しに行くかもしれない。
あるいは、代わりの獲物を見つけるかもしれない。
その危険を考え、アウグストゥスは渋々、同行を許した。
(こうなっては、セレスティアとルーシュが会う可能性は避けきれん)
(だが、ルーシュの隣にはアエーシュモーをつけてある)
(あの女なら、何があっても最悪の一歩手前で止められるだろう)
そうなると問題は、やはりハウスマンに戻った。
アウグストゥスは貴族たちと挨拶を交わしながら、視線だけで庭を探る。
(ハウスマンの姿が見えんな)
(欠席か)
十分あり得る。
ハウスマン邸では、大火災の翌朝から怒鳴り声がやまないと噂になっている。
娘のことで手一杯で懇親会どころではない。
そう判断したとしても、おかしくない。
(それなら、それで結構)
(今この街で、セレスティアに会わせたくない男が奴だ)
リーベルとセレスティアが接触する。
リーベルの異変にセレスティアが気づく。
仮にそう言う事になっても、そこからルーシュへ繋がる可能性は低い。
証拠となる痕跡は消してある。
リーベルの記憶も消した。
だが、魔力禍の嵐に逢ってからは星の巡りが悪い。
予想外のことが次々に起こる。
アウグストゥスは、穏やかな顔で杯を受け取りながら、頭の中でいくつもの展開を組み立てていた。
そして、その中でも限りなくゼロに近いはずの最悪な展開が、庭の入口から現れる。
◇
一方、セレスティアとレオヴァンは、庭を見下ろせる部屋の中にいた。
窓辺からは懇親会の様子がよく見える。
貴族たちは庭のあちこちで小さな輪を作り、火災復興について語りながら、実際には互いの顔色と利益を探っていた。
セレスティアは腕を組み、庭を見下ろす。
「ルーシュ殿は見えるか、レオヴァン」
レオヴァンは鼻を鳴らした。
「来ちゃいるみたいだな」
「なぜ分かる」
「匂いだよ」
「なぜルーシュ殿の匂いを知っている」
「会ったことはないだろ?」
レオヴァンは面倒くさそうに答える。
「だが、ヴァーミリオンの屋敷に行った時に嗅いだやつと、似た匂いがした」
「たぶん、それがルーシュ嬢ちゃんだ」
そこで彼は、逆にセレスティアを睨んだ。
「ていうか、会ったこともねぇ俺に『来てるか』って聞いたのお前だろ」
「匂いで確認しろって意味じゃなかったのか」
「薄桃色の髪らしいから、見た目で分かると思って聞いた」
「無茶言うな、死角に居たら分かんねぇだろ」
「あと、匂いで女を特定するのは気色悪いぞ」
「女性の前では言わない方がいい」
「獣人なんだから分かっちまうんだよ!」
レオヴァンの耳が怒ったように立つ。
「なんなんだ、この女!」
「ふん」
セレスティアは鼻で笑う。
「レオヴァンは女心が分からん未熟者だな」
「うぜぇ」
「心底うぜぇ」
レオヴァンには、この懇親会の本当の目的を話していなかった。
セレスティアが狙っているのは、ルーシュとの接触である。
間違った犯人に妄執すれば時間を無駄にするだけでなく、犯人に逃げられる可能性が高くなる。
だから、レオヴァンは必ず小言を言う。
止めはしないだろう。
それでも、視野を広げるためにと面倒な忠告を聞かされる。
だから表向きは、貴族たちの中にいるかもしれない黒山羊と毒ヘビの教団協力者を探るため、とだけ伝えていた。
レオヴァンは「ふーん」とだけ言った。
だが、信じている顔ではなかった。
レオヴァンも、ヴァーミリオンが犯人の可能性は6割以上と踏んでいたからだ。
だから、それ以上追及しないのは、セレスティアにヴァーミリオンを調べさせるチャンスを与えるためだった。
その時、庭の入口がざわめいた。
貴族たちの視線が、一斉にそちらへ向かう。
現れたのは二人。
ルトベール・ハウスマン子爵。
そして、その娘リーベル・ハウスマンだった。
普段なら何の問題もない組み合わせだ。
だが、この日の二人は違った。
ルトベールの顔は腫れ上がっていた。
頬には濃い痣。
片目の周りは紫色に変色し、かろうじて本人と分かるほどに顔立ちが崩れている。
その隣で、リーベルは会場に着くなり周囲の客を押しのけた。
パーラメントが用意した料理へ一直線に向かい、皿も使わず、手づかみで肉を引き裂く。
「邪魔なんだよ」
「どけ」
「見てんじゃねぇ、気色悪りぃ」
周囲の貴族たちが凍りつく。
リーベル・ハウスマンを知る者ほど、顔色を失っていた。
あの人懐っこく、礼儀正しく、父の顔色を気にしていた少女は、そこにいなかった。
少し離れた場所でその光景を見ていたアウグストゥスは、珍しく表情を失った。
(馬鹿な)
(ルトベールはともかく、なぜリーベルまでここにいる)
(あんな状態の娘を連れてくるなど、何を考えている)
ルトベールにも事情はあった。
朝帰ってきたリーベルは、完全に別人だった。
誰彼構わず殴る。
蹴る。
暴言を吐く。
物を壊す。
挙げ句、母親に向かって「アバズレ」と吐き捨てた。
ハウスマン夫人は、ついに泣き崩れた。
娘を元に戻してほしい。
そう妻に懇願されたルトベールは、ひどく浅い希望にすがった。
見慣れた友人。
知人。
社交の場。
そうしたものに触れれば、娘が本来の自分を思い出すかもしれない。
だから彼は、殴られた顔のまま娘を連れてきた。
だが、そんな事情をアウグストゥスが知るはずもない。
一瞬だけ動揺した。
すぐに冷静さを取り戻す。
(今この場で、もっとも起きてほしくない事態は何か?)
(セレスティアがこの騒ぎに気づくのは時間の問題)
(ルトベールを心配するふりをして追い返すか?)
(娘の体調が悪いようなので、今日は帰った方がよい、と)
(駄目だ)
(私はルトベールとほとんど面識がない)
(挨拶を交わす程度の関係だ)
(今ここで接触すれば、関係を勘ぐられる)
ルトベールは、セレスティアが調べているアウグストゥスの交友関係の外にいる人物だ。
ならば、近づかない方がいい。
今はまだ、アウグストゥスとリーベルの間につながりはない。
自分でつながりを作る愚は避けるべきだった。
(他に警戒すべきは……ルーシュ)
アウグストゥスの思考が、そこで鋭く止まる。
リーベルの記憶は消した。
だが、ルーシュの記憶は消していない。
彼女には常に状況が許せる範囲で、最大の自由と権利を約束しているからだ。
つまりルーシュは、リーベルを覚えている。
(まずい)
(ルーシュがリーベルに気づけば、話しかける)
(いや、確実に行く)
(親しげに)
(リーベルはすでに、ルーシュにとって“友達”なのだから)
その場面をセレスティアに見られたら終わりだ。
ルーシュとリーベルの関係が露見する。
セレスティアは必ず、リーベルの異変とルーシュを結びつける。
そして真相に気づく。
ルーシュが危ない。
頭の中の危機感とは裏腹に、アウグストゥスの顔は静かだった。
彼は隣にいるギルエルへ声をかける。
「ギルエル」
「はいなのです」
ギルエルは口いっぱいに料理を頬張ったまま返事をした。
「アエーシュモーに伝えろ」
「ルーシュを連れて、すぐここから離れろと」
「はい?」
ギルエルは皿を抱えたまま瞬きをする。
「なぜですか。お嬢様、せっかくお喋りを楽しまれているのに」
彼女の視線の先には、少し離れた場所で同年代の令嬢たちと楽しげに話すルーシュがいた。
幸いなことに、話に夢中になっているルーシュはまだリーベルに気づいていない。
今なら間に合う。
「事情が変わった」
アウグストゥスは周囲にセレスティアの姿がないか確認しながら言った。
「細かい説明をしている時間はない」
「早く行け」
ギルエルは少しだけ唇を尖らせた。
せっかくルーシュが楽しそうにしているのに水を差したくない。
そう思ったギルエルだったが、指示は指示だ。
「……分かりましたなのです」
不承不承、ギルエルはアエーシュモーの元へ向かった。
◇
アエーシュモーは、ギルエルが近づいてくる前から気づいていた。
「何の用です」
「その……旦那様がお嬢様を連れて、すぐここから離れるようにと」
歯切れの悪い答え。
だが、それだけで十分だった。
アエーシュモーは周囲の気配を探る。
そして、遠くにリーベルの姿を見つけた。
「なるほど」
「原因は、彼女ですか」
それだけ呟くと、アエーシュモーはルーシュへ向き直った。
令嬢たちとの会話に、何の遠慮もなく割って入る。
「お嬢様」
「急用ができました」
「至急、屋敷に戻ります」
「え?」
ルーシュが振り返るより早く、アエーシュモーはその手を掴んだ。
返事を待たない。
そのまま連れて行こうとする。
ルーシュの顔から笑みが消えた。
「いや」
「離して」
「わたくし、まだここにいるの!」
「お嬢様」
「離してって言ってるでしょう!」
ルーシュは周囲の令嬢たちの目も気にせず暴れた。
「義父様!」
「助けて!」
「アエーシュモーが、わたくしをいじめるの!」
アエーシュモーは冷たい目でルーシュを見下ろした。
「仕方ありませんね」
独り言のように呟く。
左手をルーシュの目の前にかざした。
魔力が、幾何学模様を描く。
細い線が重なり、円を作り、瞳の奥へ沈んでいく。
ルーシュの抵抗が止まった。
瞳から、すっと生気が抜ける。
催眠術だった。
「お嬢様」
「ここから離れます。よろしいですね」
ルーシュは虚ろな顔で頷いた。
「うん」
「分かった」
そのまま、アエーシュモーの後ろをとぼとぼ歩き出す。
残された令嬢たちは、何を見たのか分からず固まっていた。
一人だけ取り残されたギルエルは、気まずさを誤魔化すように、山盛りの皿を差し出す。
「食べますか?」
「おいしいですよ?」
誰も手を伸ばさなかった。
◇
遠くからその一部始終を見ていたアウグストゥスは、ようやく息を吐いた。
(これで、ルーシュとリーベルの接触は避けられた)
(残る問題は、リーベルとセレスティアが接触するかどうか)
(だが、ここで私が動けば逆に目立つ)
(成り行きを見るしかない)
アウグストゥスは冷静に状況を見定めていた。
ルトベール親子には近づかない。
ルーシュは退避させた。
アエーシュモーがついている。
最悪の事態は避けられた。
そう判断した。
だが、今日の星の巡り合わせは、どうやら過去最悪らしい。
馬車へ向かう途中。
アエーシュモーとルーシュは、廊下の角で足を止めることになる。
そこに立っていたのは、セレスティアだった。
金髪の勇者は、アエーシュモーの手元を見た。
そして、虚ろな目をしたルーシュを見た。
「……随分と急いでいるな」
セレスティアの声は低かった。
「どこへ行くつもりだ?」
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