接近警戒 後編
「ところで、ヴァーミリオン男爵」
アウグストゥスのカップが、わずかに止まった。
「貴方には娘がいると聞いている」
「違いますか?」
当然、いつかは振られる話題だった。
アウグストゥスはそう予想していた。
だから、表情は変えない。
「ええ。おりますが」
「それが何か?」
表面上は穏やかだった。
だが内側では、思考が高速で回り始めていた。
(馬鹿な)
(なぜ、いきなりルーシュの話題になる)
(何かに気づいたのか)
(昨日の夜の件か)
(いや、この女は魔力切れで寝ていたはずだ)
(仮にこちらに何かミスがあったとして、どうやってそれを知る)
(獣人の勇者か?)
(それもない。あの男にも動く時間はなかった)
(では、使い魔か)
(裏で使い魔を飛ばしていた?)
(いや、それならギルエルやアエーシュモーの周囲も探ったはず)
(あの二人が監視に気づかないとは考えにくい)
(仮にアエーシュモーが黙っていたとしても、ギルエルは黙れない)
(思想や信念以前に、あれは誠実でなければならない生き物だ)
(では、この女は何を知っている)
(何に気づいた)
アウグストゥスは、セレスティアがここまで話していた内容を一瞬で巻き戻す。
レオヴァンとのやり取り。
貴族への聞き込み。
噂。
娘。
そこに、驚きや確信の反応はなかった。
(違う)
(何かを掴んだのではない)
(単純に、ルーシュの存在に興味を持っただけか)
一度はそう結論づける。
だが、すぐに否定した。
(だが駄目だ)
(昨日の今日だ)
(リーベル・ハウスマンを襲ってから、まだ一晩も経っていない)
(ルーシュは不安定期に入っている)
(今会わせれば、何を言うか分からん)
(不用意な行動に出たら、隠しようがない)
最低三日。
できれば四日。
ルーシュが落ち着くまでの時間が欲しい。
断れる理由はある。
持病だ。
一部の貴族なら、ルーシュの体調が不安定なことは知っている。
ロゼもローレンも、確か把握していたはずだ。
彼らを会話に巻き込めば、自然に逃げ道が作れる。
ただし、逃げすぎれば疑われる。
距離を取れば、何か隠していると勘ぐられる。
それでも、今は会わせられない。
アウグストゥスは、瞬き一つの間に計算を終えた。
「なぜ突然、娘の話を?」
「以前、屋敷を訪れた時、挨拶をしていなかったことを思い出しまして」
セレスティアはさらりと言う。
「改めてご挨拶させていただきたい」
「ただの礼儀の問題です」
何が礼儀だ。
娘から俺のことを聞き出すつもりが丸見えだ。
この女狐め。
そう言いたくなるのを、アウグストゥスは紅茶と一緒に飲み込んだ。
「それはありがたいお申し出ですが」
彼は穏やかに微笑む。
「残念ながら、娘には持病がありましてな」
「今は少々、体調が優れないようです」
「後日、改めて紹介させていただけませんか?」
嘘は言っていない。
一言も。
ローレンがすぐに反応した。
「それは心配ですね」
「ルーシュ様をお一人にしておいて、大丈夫なのですか?」
続いてロゼが、珍しくアウグストゥスに噛みつかなかった。
「貴方は父親なのですから、しっかり娘を守らなくてどうしますの」
「どうせ今日は、貴方が現場で動くことも少ないでしょう」
「早く帰って、看病でもなさい」
アウグストゥスは軽く頭を下げる。
「ご心配には及びません」
「屋敷にはアエーシュモーもおりますので」
その一言で。
セレスティアの思考が止まった。
アエーシュモー。
黒髪のメイド。
いつもヴァーミリオン男爵のそばにいるはずの女。
昨日も、一昨日も。
社交の場でも、屋敷でも、影のように付き従っていた女。
その女が、今この会議室にいない。
なぜだ。
セレスティアの目が、細くなる。
(娘が体調不良)
(黒髪のメイドは屋敷)
(娘の世話なら、金髪のメイドに任せればいいのではないか?)
ただの偶然か。
それとも。
セレスティアは視線をアウグストゥスへ戻した。
老紳士は、穏やかに紅茶を飲んでいる。
その顔は完璧だった。
完璧すぎた。
「そうか」
セレスティアは静かに言った。
「では、後日必ず」
アウグストゥスも静かに微笑む。
「ええ」
「娘の体調が戻りましたら」
会議室の空気が、ほんのわずかに冷えた。
誰もまだ気づいていない。
だが、アウグストゥスの望みとは逆に、セレスティアとルーシュは直ぐに会うことになる。
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