接近警戒 前編
夜明け前のザレイドは、奇妙な静けさに包まれていた。
鳥はまだ鳴かない。
市場も開かない。
空だけが薄青く染まり始めているのに、街は眠ったままだった。
だが、ハウスマン子爵邸だけは違った。
廊下を使用人たちが右往左往し、侍女たちは泣きそうな顔で走り回っている。
怒号が飛び、陶器が割れ、誰かが短い悲鳴を上げた。
その中心にいるのは――リーベル・ハウスマンだった。
◇
「お嬢様! お待ちください!」
「うるせぇ!!」
花瓶が飛んだ。
壁に激突し、甲高い音を立てて砕け散る。
老執事は反射的に身を屈めたが、飛び散った破片が頬を掠めた。
薄く血が滲む。
リーベルは豪奢な客間の中央で、次の獲物を探すように視線を走らせていた。
椅子を蹴り飛ばす。
机をひっくり返す。
引き千切ったカーテンを床へ叩きつける。
目に入るものすべてが、彼女の苛立ちの餌食になっていた。
「クソが!!」
「クソクソクソクソ!!」
「イライラすんだよ!!」
叫び声は、昨夜までのリーベルのものではなかった。
ルトベール・ハウスマン子爵は、客間の入口で立ち尽くしていた。
娘が反抗期になった。
そんな言葉で済むなら、どれほど楽だったか。
目の前にいるのは、行儀よく笑い、父を気遣い、夜会で会釈の角度まで気にしていた娘ではない。
皮だけ同じで、中身が違う。
そう思ってしまうほど、完全に別物だった。
「リーベル……」
ルトベールは震える声で呼びかけた。
「頼む。話を聞いてくれ」
「黙れ」
即答だった。
リーベルは父を睨みつける。
そこに愛情はない。
信頼もない。
あるのは、皮膚の下を這い回る苛立ちだけだった。
「お前さぁ」
「何でそんな顔してんの?」
「リーベル……?」
「何、泣きそうな顔してんだよ」
リーベルは鼻で笑った。
「キモいんだよ」
ルトベールの顔から血の気が引いた。
周囲の使用人たちも動けない。
だがリーベルは止まらない。
「娘が帰ってきて嬉しいか?」
「感動の再会?」
「馬鹿じゃねぇの」
吐き捨てる声に、父親への遠慮は一欠片もなかった。
「知らねぇよ」
「そんなもん」
リーベルは割れた陶器を踏みつけた。
靴底の下で、破片がじゃり、と鳴る。
その音に、彼女は少しだけ楽しそうに口元を歪めた。
◇
その頃。
パーラメント男爵邸では、セレスティアがようやく目を覚ましていた。
上位精霊との戦いで魔力を使い切り、そのまま意識を失っていたのである。
身体は重い。
頭の奥に鈍い痛みが残っている。
喉は乾き、指先にはまだ魔力切れ特有の痺れがあった。
アーティファクト《氷刻の円剣フロストグレイス》が壁に立てかけられている。
この剣は厄介な代物だった。
術の威力を三倍に引き上げる代わりに、消費魔力は六倍に跳ね上がる。
短期決戦を好むセレスティアにとっては、性格面では悪くない相棒だ。
ただし、レオヴァンはこの剣をあまり好いていない。
彼の言い分は単純だった。
短期決戦で倒しきれなければ、魔力切れを起こしたセレスティアがそのまま荷物になる。
正直に言って邪魔だった。
それは正しい。
正しいが、セレスティアは今まで「まあ何とかなるだろう」で生き残ってきた。
希望的観測というより、楽観的な願望に近い。
だが実際に生きている。
ならば、自分の考えは間違っていない。
そう率直に伝えたところ、レオヴァンは呆れた顔で黙った。
(つまり、私の勝ちだな)
そんな雑な結論を出しながら、セレスティアは身を起こした。
窓の外は明るい。
時間を確認して、動きが止まる。
「……まずい」
朝の会議は、もう始まっている頃だった。
セレスティアは慌てて最低限の身支度を済ませた。
髪を整える時間は削る。
服の皺も無視する。
顔色の悪さだけはどうにもならないが、死んでいないなら問題ない。
彼女は剣を腰に戻し、会議室へ向かった。
◇
会議室では、朝の顔合わせが終わりかけていた。
昨日決めた今日の予定。
追加で調べるべきこと。
教団、診療所、西区の大火災、ハーネストの日記、関所の検閲記録。
それぞれの確認が済み、そろそろ解散しようという空気になっていた。
その矢先、扉が乱暴に開いた。
「おはよう、諸君!」
セレスティアが勢いよく入ってくる。
とりあえず明るさで押し切るつもりだった。
だが、室内の視線が一斉に突き刺さる。
レオヴァン。
ローレン。
ロゼ。
アウグストゥス。
全員が無言だった。
セレスティアの勢いは、三歩で死んだ。
「あー……いや……」
彼女は頬を赤くし、視線を泳がせる。
「何と言って入ろうか迷ってな」
「とりあえず、元気で押し切ってみようかと……」
「いいから座れ」
レオヴァンが親指でクイッと自分の隣の席を指した。
「自分の席くらい覚えてるだろ」
「分かっている」
セレスティアはしどろもどろになりながら席へ向かった。
腰を下ろしたところで、レオヴァンが紅茶を置く。
「体調は?」
「ああ。もう大丈夫だ」
「ならいい」
「それより、何日経った?」
魔力切れによる昏睡だったため、セレスティアの時間感覚は曖昧だった。
レオヴァンは肩をすくめる。
「まだ昨日の今日だ。安心しろ、兄弟」
「私は女だ」
セレスティアは不満そうに眉を寄せる。
「そこは姉妹と言え」
「知らねぇよ、面倒くせぇな」
レオヴァンは軽口を打ち切り、本題に入った。
「それよか、お前が寝てる間に話してたことだが、昨日の上位精霊については、何か大掛かりな組織が動いてる可能性が高いって話になった」
「それで政務官殿が王都に軍の派遣要請を出した」
「昨日の夜、あの大火災が鎮火してすぐの話だ」
セレスティアは目を見開き、机に手をついた。
「待て」
「まだ断定するには早すぎる」
その反応に、レオヴァンも少しだけ頷く。
「俺も半分はそう思う」
「だが、上位精霊を単独で使役できる人材は限られる」
「英雄級の力が要るが、そんな奴は稀だ」
レオヴァンは指で机を叩いた。
「なら、複数の魔法使いが儀式を行い、上位精霊を召喚した」
「そう考える方が、自然な流れだ」
シンプルに考えれば、そうなる。
だが、この会議室には一人、それをやれてもおかしくない男がいる。
セレスティアの視線が鋭くなる。
アウグストゥス。
彼女は迷わず、老紳士を睨んだ。
その視線に気づいていながら、アウグストゥスは涼しい顔で紅茶を啜っている。
(やはり、俺を疑うのはやめないか)
(予想通りだ)
アウグストゥスは内心で静かに笑う。
(だが、勇者……いや、この捜査チームは組織犯の可能性を報告に含めている)
(ローレンが執政官へ出す報告書には、すでにそう書かれる)
(つまり、お前たちは自分たちの手で、俺を犯人候補から外すことになる)
(残念ながら、盤面はこちらに傾いた)
(ここからさらに、組織犯を示す証拠が次々に出てくる)
(俺が、そう仕向ける)
セレスティアは疑っている。
だが、疑いは証拠ではない。
証拠の流れは、アウグストゥスの作った水路を進んでいる。
その内心に気づかぬまま、ローレンがセレスティアへ尋ねた。
「それで、セレスティア殿」
「昨日は貴族の方々から話を聞いていたのですよね」
「何か分かったことは?」
それは確かに、昨日セレスティアが自分で言い出した仕事だった。
表向きは、貴族の中に黒山羊と毒ヘビの教団の信者がいないか探るため。
本音を言えば、アウグストゥスの交友関係を洗うためだ。
さすがに、そこまでは口にできない。
セレスティアは椅子に座り直し、記憶を整理した。
「端的に言えば、皆、教団については知らないそうだ」
「ただ、関係していそうな怪しい人物の噂はいくつか聞いた」
「もっとも、ほとんどはゴシップの域を出ない」
ロゼが扇を開き、会話に入ってきた。
「具体的には、どなたの名前が出ましたの?」
「たとえば、マルゲリータ夫人」
セレスティアは指を折る。
「年齢の割に若く見えるのは、悪魔に魂を売ったからだ。おそらく教団の関係者に違いない、と」
ロゼの口元が、少しだけ歪む。
「ありがちな嫉妬ですわね」
「次に、イルザールという商人」
「最近妙に羽振りがいいのは、悪魔に未来の相場を教えてもらっているからに違いない。だから教団の財政担当だ、と」
「それは商売で負けた方の恨みでしょう」
「それから、ルサール准男爵」
セレスティアは淡々と続ける。
「王都のコーネリア侯爵令嬢と婚約できたのは、悪魔から受け取った媚薬を飲ませたからだ」
「悪魔と契約できたのは、奴が教団幹部だからだ。そういう話もあった」
ローレンが額に手を当てた。
「噂というより、悪口ですね」
「だが一応、リストにはする」
セレスティアは言う。
「今は犯人候補を幅広く拾ってく必要がある」
正直、信じてはいない。
出てきた名のほとんどは、嫉妬と怨恨と酒場の悪口を煮詰めたものだった。
それでもリストは作る。
捜査している形を整えるため。
そして、本命を隠すため。
セレスティアの本命は、最初からほぼ一人に固定されている。
(結局、ヴァーミリオンについて得られた情報は、あの誕生パーティーで聞いた話と大差なかった)
新しく加わったのは、下世話な噂くらいだ。
いつも黒髪のメイドを連れている。
あれは愛人ではないか。
その程度。
情報を頭の中で並べていたセレスティアは、ふと動きを止めた。
(そういえば)
(ヴァーミリオンには、娘と黒髪のメイドの他に、金髪のメイドもいると言っていたな)
今までは流していた。
アウグストゥスが家族に、自分の抱えている重要な話をするとは思えなかったからだ。
だが、娘や金髪のメイドに会えば、何かの切っ掛けになる話が聞けるかもしれない。
直接の証拠でなくてもいい。
暮らしぶり。
外出。
不審な荷物。
地下室。
屋敷内の空気。
本人が隠せても、周囲が零すことはある。
他に当てもない。
なら、試す価値はあるはずだ。
セレスティアは顔を上げた。
「さて、私の報告は以上だ」
そして、静かに本命へ切り込んだ。
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