壊れた令嬢
夜が深まったザレイドは、息を潜めていた。
西区からは、まだ薄く焦げた臭いが流れてくる。
焼けた街の残り香が、夜風に混じっていた。
ヴァーミリオン邸の庭では、夜露を含んだ薔薇が月光を受けている。
屋敷の窓に灯りは少ない。
使用人たちは眠りにつき、広い館は死んだように静まり返っていた。
その沈黙を破ったのは、一台の馬車だった。
石畳を叩く車輪の音。
正門が開き、黒塗りの馬車がゆっくりと中庭へ入る。
扉が開いた。
降り立ったのは、アウグストゥスだった。
勇者たちとの捜査を終えたばかりだというのに、その顔に疲労はない。
老紳士は杖をつき、玄関へ向かう。
その扉の前に、アエーシュモーが立っていた。
いつも通り無表情。
だが、空気がわずかに違う。
アウグストゥスは足を止めた。
「何かあったか」
「はい」
即答だった。
「少々」
アウグストゥスは片眉を上げる。
アエーシュモーが“少々”と言う時は、大抵少々では済まない。
「ルーシュか」
「はい」
聞きたくはない。
だが、聞かずに済む話でもない。
アウグストゥスは小さく息を吐き、屋敷の中へ入った。
アエーシュモーは、主の少し後ろを歩きながら淡々と報告する。
ギルエルが家事に追われ、ルーシュの監視を怠ったこと。
その隙に、貴族令嬢がルーシュへ接触したこと。
昼のうちに友人となり、その夜、二人で屋敷を抜け出したこと。
そして大聖堂の鐘楼で、ルーシュが殺人衝動を抑えられず、その令嬢を殺したこと。
アウグストゥスは途中で口を挟まなかった。
ただ歩きながら聞いた。
「それで」
「ハウスマンの娘の死体は?」
「空いているゲストルームのベッドで保管しております」
「案内しろ」
「畏まりました」
案内された部屋には、リーベル・ハウスマンが横たわっていた。
事情を知らなければ、眠っているようにも見える。
白いシーツ。
整えられた黒髪。
血の臭いはない。
アエーシュモーが処理したのだろう。
アウグストゥスはベッドの横に立ち、まず首を見た。
「首は繋がっているのだな」
「はい」
「結構」
短く答え、アウグストゥスは考える。
(厄介なことになった)
(だが、勇者が来てから厄介事は続いている)
(今更、一つ二つ増えたところで大差はない)
怒りはなかった。
嘆きもない。
あるのは、盤面を整理する冷たい思考だけだった。
(問題は、この娘が貴族の子女であること)
(失踪となれば、ハウスマンは治安局へ駆け込む)
(あの無能どもでも、貴族の訴えなら形だけでは済ませまい)
(捜査人員が増えれば、勇者どもの手間が減る)
(結局、勇者も治安局もルーシュを探すことになるからだ)
(それは良くない)
アウグストゥスは思考を切り、アエーシュモーへ視線を向けた。
「ハウスマンは、娘の失踪に気づいているか」
「はい。残念ながら」
実際、ルトベール・ハウスマン子爵は娘の不在に気づき、すでに屋敷中を探させていた。
ただ、年頃の娘である。
密かに友人の家へ転がり込んでいる可能性も捨てきれず、治安局への届出だけは明朝まで待つつもりでいた。
「そうか」
アウグストゥスは短く返す。
それだけだった。
(ただの失踪で片付けばよい)
(だが何を切っ掛けに、デトロン川怪事件と結びつけられるか分らん)
(せっかく個人犯の疑いから目を逸らすために、事件の規模を大きくしたというのに)
(ここで貴族令嬢の失踪と首無し死体事件の間に、何か共通点を見つけられれば厄介だ)
(治安局はともかく、勇者どもは違う)
(特にセレスティア)
(あの女は、一度疑えば噛みついて離れん)
だが、幸運もあった。
死体の首は繋がっている。
このまま発見させれば、首無し死体とは無関係に見える。
問題は、セレスティアのサイコメトリーだった。
死体に触れられれば、犯人が誰か暴かれる。
かといって、深淵の魔法で記憶を隠せば、それ自体が不自然な痕跡になる。
死体を燃やして消す手もある。
だが、それはルーシュを刺激しかねない。
(死体がないと知れば、あの娘は荒れる)
(失った友達の代わりを作るために、また外へ出る)
(最悪だ)
事件が増えれば増えるほど、隠蔽は難しくなる。
そもそも首無し死体にエンバーミングを施してきたのは、ルーシュを落ち着かせるためだ。
頭を保存し、友人が側にいると安心させる。
犠牲者を減らすための、最低限の餌。
それを奪れば、あの娘はまた飢える。
しばらく沈黙した後、アウグストゥスは尋ねた。
「この娘を蘇生できるか」
アエーシュモーは予想していたように即答した。
「可能です」
「ただし、私の蘇生には対価が必要です」
「構わん」
アウグストゥスは迷わない。
「何が望みだ」
「では」
アエーシュモーは静かに微笑んだ。
「旦那様が幸せだった記憶の一部をいただきます」
アウグストゥスは、少しも表情を動かさなかった。
「そんなもので死者が蘇るなら安い取引だ」
「人の人格は、記憶で形成されているのですよ」
アエーシュモーは淡々と告げる。
「記憶を失うとは、今の自分が曖昧になるということ」
「さらに幸せな記憶ともなれば、多少なりとも幸福感が薄れるかもしれません」
「それがどうした」
アウグストゥスは冷ややかに言った。
「幸せな記憶がないなら、また作ればいい」
「人は覚えていることより、忘れていることの方が多い」
「いちいち忘れたものに傷ついてなどいられるか」
「人格も同じだ」
「覚えている記憶と、忘れている記憶で人ができていると言うのなら、人は誰しも最初から曖昧な人格を抱えている」
「つまり、いつもと変わらん」
アエーシュモーは、その価値観を黙って聞いていた。
内心では、退屈していた。
(大切な思い出を失い、もっと惨めに苦しんでくれれば、この男にも少しは可愛げがあるのですが)
(ここまで当然のように切り捨てられると、面白くもありません)
(早く契約が切れればよろしいのに)
(そうすれば、もっとよく壊れる玩具に乗り換えられると言うのに……)
主が主なら、メイドもメイドである。
おおよそ平凡な人間とは懸け離れた価値観を持つ二人は、案外、相性だけは悪くなかった。
アエーシュモーは蘇生の準備に入ろうとして、ふと口を開いた。
「それと、旦那様」
「何だ」
「私の蘇生は、蘇生された人物の人格が歪みます」
「どう歪む」
「少々、粗暴で攻撃的になります」
「場合によっては、人を殺めることもございます」
アウグストゥスは少しだけ考えた。
(この娘を死体のままにすれば、先ほど考えたリスクがそのまま残る)
(凶暴化して蘇生した場合、ハウスマンは娘の豹変に戸惑うだろう)
(だが年齢を考えれば、反抗期で済ませられる余地はある)
(では、反抗期では収まらず、人を殺した場合は?)
(俺との結びつきを探す者はいるか……)
(……いや、恐らくいない)
首無し死体。
教団に見せかけたチンピラ。
ゾンビ化した医者。
そこへ粗暴化した貴族令嬢が起こす暴力沙汰が加わったところで、共通点はない。
むしろ混乱が増えるだけだ。
ただ一つ。
リーベルの記憶だけは、絶対に読ませてはならない。
そこまで考え、アウグストゥスは結論を出した。
「娘は蘇生する」
「ただし、ルーシュの記憶は消しておけ」
「畏まりました」
アエーシュモーは必要最低限の返事だけを返す。
そして、リーベル・ハウスマンの蘇生準備に入った。
◇
翌朝。
ハウスマン子爵邸は騒然としていた。
夜の間、姿を消していた娘、リーベル・ハウスマンが帰ってきたからだ。
ルトベール・ハウスマン子爵は、安堵で顔を歪めながら玄関ホールへ駆け込んだ。
「リーベル!」
娘はそこに立っていた。
黒髪は乱れ、ドレスは替えられていたが、確かにリーベルだった。
生きている。
帰ってきた。
その事実だけで、ルトベールの膝から力が抜けそうになる。
「よかった……本当に、よかった……」
彼は娘を抱きしめようと、震える手を伸ばした。
次の瞬間。
乾いた音が、玄関ホールに響いた。
リーベルの拳が、父の頬を打っていた。
ルトベールは何が起きたのか分からず、片膝をつく。
使用人たちが凍りついた。
リーベルは父を見下ろし、唇を歪める。
「気色悪りぃんだよ、ジジイ」
「触んじゃねぇ」
そこにいたのは、人懐っこいリーベル・ハウスマンではなかった。
父に愛され、夜会で微笑み、友人を欲しがっていた少女は、もうどこにもいない。
帰ってきたのは、別の何かだった。
面白かった思う方が作者の精神安定のために、ブックマーク、評価をお願いします。
ログインなしで感想機能を開放しました。
お気軽に感想を書き込んでください。




