狂姫再び
また、貴方ですか。
今度は何を聞きたいのです?
……また、あの娘の話ですか。
突き詰めれば、ただのメンヘラですよ。
それ以上でも、それ以下でもありません。
ですが、まあ良いでしょう。
あの娘は不眠症を抱えています。
運よく眠れたとしても、悪夢で目を覚ますことが多い。
ですが、なぜかあの男が側にいる時だけは、悪夢を見ずに眠れるらしいのです。
はい?
愛の力?
何を穢らわしいことを言っているのですか。
その口、引き裂いて腸を詰め込んでやりましょうか。
もう貴方とは口を利きたくありません。
お引き取りください。
――アエーシュモーの回想より抜粋
◇
月明かりが、石畳を白く濡らしていた。
昼の喧騒を失った大通りは静まり返り、遠くから酒場の笑い声と巡回兵の足音だけが流れてくる。
焼け残った建物の黒い影が、夜のザレイドをいびつに切り取っていた。
西区の火災跡からは、まだ焦げ臭い風が吹いている。
ルーシュは先を歩いていた。
リーベルは、その後ろを追う。
最初は少し緊張していた。
父に黙って夜の街へ出るなど、今まで一度もなかったからだ。
だが、ルーシュが何気なく話しかけてくるたびに、その緊張は少しずつ薄れていった。
「夜の街って、こんなに静かなのですね」
「昼とは別の場所みたいでしょう?」
「ええ」
リーベルは笑った。
「少しだけ、冒険している気分です」
「そうね」
ルーシュも微笑む。
本当に楽しそうだった。
だからリーベルは気づかなかった。
ルーシュの視線が、何度も自分の首筋へ落ちていることに。
歩幅を合わせるふりをして、距離を測っていることに。
二人は路地を抜けた。
やがて大聖堂の尖塔が見えてくる。
夜空へ突き刺さる巨大な影。
鐘楼は高く、古く、月明かりを受けた石壁には冷たい光が張りついていた。
「すごい……」
リーベルは思わず声を漏らす。
「近くで見ると、こんなに大きいのですね」
「上まで登れるのよ」
「本当に?」
「ええ」
ルーシュは振り返り、人差し指を唇に当てた。
「秘密だけれど」
その仕草が妙に可愛らしくて、リーベルは小さく笑った。
「わたくしたち、悪いことをしていますわね」
「少しだけよ」
「少しだけ」
二人は顔を見合わせた。
まるで、本当に親友同士のように。
鐘楼の裏手には、小さな木製の扉があった。
古びた扉だった。
鍵は掛かっていない。
ルーシュが押すと、軋んだ音を立てて開く。
中から冷たい空気が流れ出た。
「こちらよ」
ルーシュは先に入った。
リーベルも続く。
石造りの螺旋階段が、闇の中を上へ伸びていた。
足音が反響する。
外の音は一段ずつ遠ざかり、代わりに自分たちの呼吸だけが耳につく。
上へ。
さらに上へ。
途中で、リーベルは手すりに指をかけた。
「ま、まだですの……?」
「もう少し」
「鐘を鳴らす方々は、大変ですわね……」
「ふふ」
ルーシュは笑った。
その声だけが、階段の奥で妙に楽しそうに響いた。
やがて最上階へ辿り着く。
夜風が吹き込んできた。
視界が開ける。
ザレイドの街並みが、一望できた。
家々の灯り。
魔法の外灯で照らされる道並み。
遠くの城壁。
黒く焼けた西区の火災跡。
昼間の世界では見えなかったものが、夜の高さからはひどく小さく見える。
「綺麗……」
リーベルは呆然と呟いた。
「本当に綺麗ですわ……」
彼女は夢中で景色を見た。
だから気づかなかった。
ルーシュが一歩、後ろへ下がったことに。
景色ではなく、自分だけを見ていることに。
「リーベル様」
「はい?」
リーベルが振り返る。
ルーシュは笑っていた。
昼間、庭園で見た時と同じ笑顔だった。
友達になれたと喜んでいた、あの笑顔。
なのに。
なぜか、リーベルの胸の奥が冷えた。
「どうかなさいました?」
ルーシュは答えなかった。
夜風が薄桃色の髪を揺らす。
月光を受けた髪は淡く光り、その下でルーシュの瞳だけが、妙に濡れていた。
「ねえ、リーベル様」
「はい」
「わたくしね」
ルーシュの声は優しかった。
優しすぎて、逃げ道を塞ぐ声だった。
「貴女のこと、とても好きになってしまったの」
リーベルは微笑んだ。
「わたくしも――」
言いかけて、言葉が止まる。
ルーシュの瞳が、友人を見るものではなかった。
欲しいものを見つけた子供の目。
壊してでも手に入れると決めた目。
鐘楼の上。
二人きり。
逃げ場はない。
ルーシュが一歩近づいた。
リーベルの肩に手を置き、そっと顔を寄せる。
口づけは、驚くほどやわらかかった。
リーベルは拒まなかった。
目を閉じた。
頬が熱くなる。
初めての秘密。
初めての恋人。
初めて、誰かに選ばれた感覚。
その全部に、少しだけ酔った。
次の瞬間――腹部が熱くなった。
「……え?」
目を開く。
ルーシュの顔が近い。
笑っている。
リーベルは自分の腹へ視線を落とした。
ドレスの布地が、黒く濡れていく。
太ももを、熱い液体が伝った。
最初は、尿を漏らしたのかと思った。
けれど違う。
臭いが違う。
鉄の臭い。
血の臭い。
身体から力が抜けた。
膝が折れ、石の床へ倒れ込む。
頬に冷たい感触。
床に広がった血だまりが、月明かりを鈍く返していた。
「ぁ……あ……」
息がうまく吸えない。
「なん……で……」
呂律の回らない声を、ルーシュは満面の笑みで見下ろしていた。
「怖がらないで」
ルーシュは膝をつく。
「大丈夫。わたくしたちはずっとお友達、そうでしょう?」
「だから、ずっと一緒にいてあげる」
「誰にも貴女を傷つけさせない」
リーベルの指が床を掻いた。
逃げようとしているのか、助けを求めているのか、自分でも分からない。
ルーシュは気にしなかった。
「楽しい思い出を、これからもいっぱい作りましょうね」
「わたくしね、いつか海を見てみたいの」
「青い海、白い雲、きらきら輝く砂浜」
「そこに義父様の優しい微笑みがあったら、きっと素敵でしょう?」
ルーシュは夢見るように話し続ける。
「その時は、たくさんのお友達をバッグに詰めて、みんなも一緒に連れていくの」
「ああ、大丈夫」
「みんなといる時も、貴女を仲間外れになんてしないわ」
「貴女は特別」
「だって、他のどんなお友達よりも可愛いもの」
リーベルの身体が震えた。
恐怖のせいか。
血を失った寒さのせいか。
もう判別できなかった。
ただ、怖かった。
目の前の少女が。
昼間、友達になってほしいと笑った少女が。
「これからも、いっぱい、いっぱいお喋りしましょうね」
ルーシュは楽しげに言った。
リーベルの視界が滲む。
鐘楼の天井が歪む。
父の顔が浮かんだ。
(お父さま……)
(言いつけを破って、申し訳ありません……)
声にはならない。
喉から漏れるのは、ひゅう、と細い音だけだった。
「ああ、でも今は駄目ね」
ルーシュはふと思い出したように言う。
「あのね、今は勇者様がいらして、わたくしを探しているらしいの」
リーベルの状態など見ていない。
自分の話だけをしている。
「おかげで、みんなが集まっていたお部屋から、みんなの頭が片付けられてしまったの」
「ああ、早く会いたい」
「早く、みんなに会いたいわ」
その言葉を聞き取る力は、もうリーベルには残っていなかった。
どれほど一方的に話していただろう。
やがてルーシュは、リーベルが何の反応も示さなくなっていることに気づいた。
「あら」
首を傾げる。
「もう亡くなられてしまったの?」
「もっと持つかと思ったのに」
少しだけ残念そうに言い、それからすぐに笑った。
「まあ、いいわ」
ルーシュは動かなくなったリーベルを指差す。
足元の影が揺れた。
黒い影から、茨が伸びる。
棘だらけの蔓が、音もなく床を這った。
「やって」
無感情な命令だった。
茨が勢いよくリーベルの死体へ襲いかかる。
その先端が、白い喉元へ届こうとした刹那。
何者かが茨を掴んだ。
動きが止まる。
そこにいたのは、アエーシュモーだった。
「ようやく見つけたと思えば、手遅れですか」
彼女は茨を片手で押さえたまま、リーベルの死体を見下ろす。
「まあ、それならそれで仕方ありませんが」
声に同情はない。
ただ、状況確認だけがある。
(この娘……たしかハウスマン子爵の)
(死んでから、すでに少し経っていますね)
(治癒魔法では無理)
(蘇生なら可能性はありますが、やるなら対価が要る)
アエーシュモーの視線が、ゆっくりとルーシュへ向いた。
(この場で対価を払える人間は、お嬢様だけ)
(ですが、この娘から対価を取ることは禁じられている)
(となると、選択肢はありませんね)
「お嬢様」
不意に呼ばれ、ルーシュの肩が跳ねた。
「な、なに」
「お、義父様はわたくしの味方よ」
「絶対に、わたくしを叱ったりしないんだから」
禁止されている行為。
現行犯。
言い逃れのできない状況。
ルーシュの声は震えていた。
それでも威張ろうとして、失敗していた。
「承知しております」
アエーシュモーは淡々と答える。
「ただし、人に見つかるとまずい」
「少々、乱暴に進めさせていただきます」
言い終えると同時に、アエーシュモーの指先から小さな魔力の塊が飛んだ。
銃弾のように速い。
それはルーシュの額へ命中した。
「……っ」
ルーシュの目が一瞬だけ見開かれる。
次の瞬間、糸を切られた人形のように、その場へ崩れ落ちた。
アエーシュモーは表情を変えない。
次に、リーベルの死体へ影を伸ばした。
影は床を広がり、血だまりごと死体を飲み込んでいく。
まるで黒い沼へ沈むように、リーベルの身体は音もなく消えていった。
血の臭いも。
足跡も。
引きずった痕も。
すべて影の中へ沈む。
(これで、証拠は残りません)
アエーシュモーは鐘楼の外へ視線を向けた。
夜のザレイドは、まだ西区の火災でざわついている。
だが貴族令嬢が一人、突然消えたとなれば話は別だ。
(この状況で、ハウスマン子爵の娘が行方不明)
(しかも最後に接触したのが、お嬢様だと知られれば……)
アエーシュモーは足元で気絶しているルーシュを見た。
「面倒なことになりましたね」
その予想は、正しかった。
後日。
この夜の失踪は、アウグストゥスを追い込む事となる。
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