危険な遊び、危険な友達
夜風が、路地を抜けた。
焦げた木材の臭いは、まだ街のあちこちにこびりついている。
西区の大火災。
焼け落ちた家々。
瓦礫の下から掘り出される遺体。
今夜のザレイドは、その話題で持ち切りだった。
だが、貧民街のさらに外れ。
人通りの絶えた石畳の路地には、街の騒ぎなど届かない。
聞こえるのは、酒場から漏れる笑い声と、安酒に濁った罵声。
路地の奥を、二人の少女が歩いていた。
薄桃色の髪を揺らす、華奢な背中。
ルーシュだった。
そのすぐ後ろを、黒髪の少女がついていく。
仕立てのよい外套。
汚れ一つない靴。
夜の貧民街には、あまりにも場違いな少女だった。
貴族か、大商人の娘。
そう見れば、まず外れない。
二人は友人同士の距離で歩いていた。
少なくとも、後ろを歩く少女はそう信じていた。
彼女――リーベル・ハウスマンがルーシュと出会ったのは、この惨劇が起こる前。
まだ太陽が、ザレイドの真上にあった頃である。
◇
昼下がりのヴァーミリオン男爵邸は、妙に静かだった。
庭園の花は整えられ、噴水は涼しげに水音を立て、白いガゼボの影だけが、退屈を持て余す少女を閉じ込めていた。
ルーシュはそこで本を読んでいた。
正確には、本を開いていただけだった。
文字は目に入っている。
意味は、ほとんど入ってこない。
「……ああ、暇ね」
ルーシュはページを一枚めくった。
読んでもいないのに。
「退屈だわ」
いつもなら、ギルエルが横にいる。
あの金髪の妙なメイドは、話し相手としては騒がしいが、退屈しのぎにはなる。
だが今日はアエーシュモーが外出しており、屋敷の仕事の大半をギルエルが担当していた。
洗濯。
掃除。
食器。
庭の水やり。
たぶん、今頃どこかで何かを壊している。
「義父様も朝からいないし」
ルーシュは本を閉じ、膝の上に置いた。
「私はきっと捨てられたのだわ……」
冗談のつもりだった。
けれど、口に出すと胸の奥が少しだけ冷えた。
その時、塀の外から声がした。
「ルーシュ様」
「ルーシュ様、ですよね?」
ルーシュは顔を上げた。
塀の向こう。
鉄柵の隙間から、同い年ほどの少女がこちらを見ていた。
黒髪。
整った顔立ち。
仕草に品がある。
少女は軽く会釈し、にこやかに笑った。
ルーシュは本を置いて立ち上がる。
警戒心を隠しきれないまま、ゆっくりと近づいた。
「そうだけれど」
「貴女は?」
アウグストゥスからは、社交界以外で人と親しくするなと言われている。
特に、家柄のある令嬢や子息は駄目。
万が一が起きた時、揉み消す難度が跳ね上がるからだ。
もちろん、ルーシュにはそこまで説明されていない。
ただ、駄目だと言われている。
それだけだった。
「失礼いたしました」
少女は丁寧に頭を下げた。
「私はリーベル。ルトベール・ハウスマン子爵の娘、リーベル・ハウスマンと申します」
ハウスマン。
その名を聞いて、ルーシュは記憶を探った。
どこかで聞いた。
一度だけ会った気がする。
音楽家ホッペンスト・ボア准男爵が、新曲披露の夜会を開いた時だ。
あの時、義父様に話しかけていた男が、たしかルトベール・ハウスマン子爵だった。
文化や科学、魔法で功績を上げた者には准男爵。
武勇で功を立てた者には騎士爵。
国の財政に協力した者にはジェントル。
イグナティア小王国では、そうした一代限りの爵位が授与される。
序列はない。
少なくとも表向きは、どれも対等に扱われる。
ルーシュは記憶をつなぎ合わせ、微笑んだ。
「ああ」
「ハウスマン子爵様とは、一度お会いしたことがございますわ」
ルーシュは膝を曲げ、丁寧に挨拶を返す。
「以前の夜会では、わたくしのような者にもお声をかけてくださいました。深く感謝しております」
「いえ、そんな」
リーベルは慌てたように手を振った。
「気になさらないでください。それより、以前からルーシュ様をこのお庭で何度かお見かけしていたのです」
「わたくしを?」
「はい。お話ししたいと思っていたのですけれど……いつも金髪のメイドの方に、こう、すごく冷たい目で見られまして」
リーベルは困ったように笑った。
「でも今日は、いらっしゃらないみたいでしたから」
「思い切って、お声をかけてしまいました」
ころころと笑うリーベルを見て、ルーシュは素直に可愛らしいと思った。
人懐っこい。
明るい。
こちらを怖がっていない。
それが妙に嬉しかった。
「それで、どのようなご用でしょうか?」
「用というほどのものはありません」
リーベルは急にもじもじし始めた。
「本当に、お見かけしたのでお話ししたかっただけなのです」
「ただ……」
そこで一度、視線を落とす。
頬が少し赤い。
「できれば、お友達になっていただきたいな、と思いまして」
「駄目、でしょうか?」
ルーシュの胸が、軽く踊った。
友達。
その言葉は、ひどく甘かった。
「駄目だなんて」
ルーシュは思わず身を乗り出した。
「むしろ、わたくしもお友達が欲しいと、ずっと思っていたところなの!」
本心だった。
ルーシュは、本来なら人と話すのが好きだった。
綺麗な服の話。
菓子の話。
夜会の話。
噂話。
くだらないことを、いくらでも話していられる。
だがアウグストゥスは、それを許さなかった。
殺人衝動。
発作。
失敗した時の被害。
そのすべてを警戒し、ルーシュの交友関係を極力作らせないようにしていた。
貴族や大商人の子女との友好など、最も避けるべきものだった。
けれど。
退屈に腐っていたルーシュにとって、そんな事情はどうでもよかった。
塀越しに始まった会話は、すぐに弾んだ。
リーベルはよく笑った。
ルーシュもよく笑った。
二人は庭園の花の話をし、夜会の話をし、菓子の話をした。
新しく生まれた友情は、やわらかく、無防備で、壊れやすかった。
壊す側が誰なのかを、リーベルだけが知らなかった。
不穏な方向へ傾いたのは、リーベルの何気ない一言からだった。
「そういえば、前から気になっていたのですけれど」
「はい?」
「ルーシュ様の髪の色は、染めていらっしゃるのですか?」
ルーシュは瞬きをした。
リーベルは柵の向こうから、薄桃色の髪をうっとりと眺めている。
「ずっと素敵だなと思って、遠くから見ておりましたの」
「よろしければ、少し触らせていただけませんか?」
素敵。
その言葉が、ルーシュの背筋を細く走った。
身体の内側に、ぱちりと火花が散る。
嬉しい。
見られていた。
褒められた。
求められた。
興奮で息が浅くなる。
下腹部に嫌な熱が落ち、次の瞬間、ルーシュの顔から少しだけ血の気が引いた。
心因性の頻尿。
小さな失敗。
下着に、じわりと湿った染みが広がる。
だがリーベルは気づかない。
ルーシュは笑った。
いつもより少し硬い笑みだった。
「ふふ……ええ、構いませんわ」
そう言って、髪を触りやすいように首を傾ける。
リーベルは恐る恐る手を伸ばした。
指先が、薄桃色の髪に触れる。
「本当に綺麗……」
「柔らかいのですね」
ルーシュは目を細めた。
その指先が優しかった。
優しいから、もっと欲しくなった。
もっと近くに。
もっと自分だけに。
もっと壊れない場所へ。
少女たちは笑い合った。
塀を挟んだまま、友情を深めているつもりで。
やがてルーシュが、楽しげに声を潜める。
「ねぇ、リーベル様」
「何でしょう?」
「夜の街を眺めるのに、とても良い場所があるの」
「夜の街?」
「ええ。この道の先に、大聖堂の鐘楼があるでしょう?」
ルーシュの瞳がきらめいた。
「そこから見るザレイドは、とても綺麗なの」
リーベルは目を輝かせた。
「まあ……そんな場所があるのですか」
「いつか行ってみたいです」
「なら、今夜行きましょう」
リーベルの笑みが止まった。
「今夜、ですか?」
「ええ。二人で」
「でも、夜に外へ出るなんて……父に知られたら」
リーベルは迷った。
本当は、家の決まりを一度くらい破ってみたいと思っていた。
父ルトベール・ハウスマンに心配をかけたくなくて、わがままらしいわがままを言ったことはない。
夜の街。
鐘楼。
友達との秘密。
どれも、彼女には眩しすぎた。
そして何より。
前から友達になりたいと思っていたルーシュに誘われている。
断る理由より、頷きたい理由の方が多すぎた。
「……少しだけなら」
リーベルは小さく答えた。
「本当に、少しだけですわよ」
ルーシュは嬉しそうに笑った。
「ええ」
「少しだけ」
その声は甘かった。
毒の入った菓子みたいに。
そして、その夜。
リーベル・ハウスマンは、父の知らない場所へ向かった。
友達だと思った少女の後を追って。
二度と戻らない道を。
面白かった思う方が作者の精神安定のために、ブックマーク、評価をお願いします。
ログインなしで感想機能を開放しました。
お気軽に感想を書き込んでください。




