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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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危険な遊び、危険な友達

夜風が、路地を抜けた。


焦げた木材の臭いは、まだ街のあちこちにこびりついている。


西区の大火災。


焼け落ちた家々。


瓦礫の下から掘り出される遺体。


今夜のザレイドは、その話題で持ち切りだった。


だが、貧民街のさらに外れ。


人通りの絶えた石畳の路地には、街の騒ぎなど届かない。


聞こえるのは、酒場から漏れる笑い声と、安酒に濁った罵声。


路地の奥を、二人の少女が歩いていた。


薄桃色の髪を揺らす、華奢な背中。


ルーシュだった。


そのすぐ後ろを、黒髪の少女がついていく。


仕立てのよい外套。


汚れ一つない靴。


夜の貧民街には、あまりにも場違いな少女だった。


貴族か、大商人の娘。


そう見れば、まず外れない。


二人は友人同士の距離で歩いていた。


少なくとも、後ろを歩く少女はそう信じていた。


彼女――リーベル・ハウスマンがルーシュと出会ったのは、この惨劇が起こる前。


まだ太陽が、ザレイドの真上にあった頃である。



昼下がりのヴァーミリオン男爵邸は、妙に静かだった。


庭園の花は整えられ、噴水は涼しげに水音を立て、白いガゼボの影だけが、退屈を持て余す少女を閉じ込めていた。


ルーシュはそこで本を読んでいた。


正確には、本を開いていただけだった。


文字は目に入っている。


意味は、ほとんど入ってこない。


「……ああ、暇ね」


ルーシュはページを一枚めくった。


読んでもいないのに。


「退屈だわ」


いつもなら、ギルエルが横にいる。


あの金髪の妙なメイドは、話し相手としては騒がしいが、退屈しのぎにはなる。


だが今日はアエーシュモーが外出しており、屋敷の仕事の大半をギルエルが担当していた。


洗濯。


掃除。


食器。


庭の水やり。


たぶん、今頃どこかで何かを壊している。


「義父様も朝からいないし」


ルーシュは本を閉じ、膝の上に置いた。


「私はきっと捨てられたのだわ……」


冗談のつもりだった。


けれど、口に出すと胸の奥が少しだけ冷えた。


その時、塀の外から声がした。


「ルーシュ様」


「ルーシュ様、ですよね?」


ルーシュは顔を上げた。


塀の向こう。


鉄柵の隙間から、同い年ほどの少女がこちらを見ていた。


黒髪。


整った顔立ち。


仕草に品がある。


少女は軽く会釈し、にこやかに笑った。


ルーシュは本を置いて立ち上がる。


警戒心を隠しきれないまま、ゆっくりと近づいた。


「そうだけれど」


「貴女は?」


アウグストゥスからは、社交界以外で人と親しくするなと言われている。


特に、家柄のある令嬢や子息は駄目。


万が一が起きた時、揉み消す難度が跳ね上がるからだ。


もちろん、ルーシュにはそこまで説明されていない。


ただ、駄目だと言われている。


それだけだった。


「失礼いたしました」


少女は丁寧に頭を下げた。


「私はリーベル。ルトベール・ハウスマン子爵の娘、リーベル・ハウスマンと申します」


ハウスマン。


その名を聞いて、ルーシュは記憶を探った。


どこかで聞いた。


一度だけ会った気がする。


音楽家ホッペンスト・ボア准男爵が、新曲披露の夜会を開いた時だ。


あの時、義父様に話しかけていた男が、たしかルトベール・ハウスマン子爵だった。


文化や科学、魔法で功績を上げた者には准男爵。


武勇で功を立てた者には騎士爵。


国の財政に協力した者にはジェントル。


イグナティア小王国では、そうした一代限りの爵位が授与される。


序列はない。


少なくとも表向きは、どれも対等に扱われる。


ルーシュは記憶をつなぎ合わせ、微笑んだ。


「ああ」


「ハウスマン子爵様とは、一度お会いしたことがございますわ」


ルーシュは膝を曲げ、丁寧に挨拶を返す。


「以前の夜会では、わたくしのような者にもお声をかけてくださいました。深く感謝しております」


「いえ、そんな」


リーベルは慌てたように手を振った。


「気になさらないでください。それより、以前からルーシュ様をこのお庭で何度かお見かけしていたのです」


「わたくしを?」


「はい。お話ししたいと思っていたのですけれど……いつも金髪のメイドの方に、こう、すごく冷たい目で見られまして」


リーベルは困ったように笑った。


「でも今日は、いらっしゃらないみたいでしたから」


「思い切って、お声をかけてしまいました」


ころころと笑うリーベルを見て、ルーシュは素直に可愛らしいと思った。


人懐っこい。


明るい。


こちらを怖がっていない。


それが妙に嬉しかった。


「それで、どのようなご用でしょうか?」


「用というほどのものはありません」


リーベルは急にもじもじし始めた。


「本当に、お見かけしたのでお話ししたかっただけなのです」


「ただ……」


そこで一度、視線を落とす。


頬が少し赤い。


「できれば、お友達になっていただきたいな、と思いまして」


「駄目、でしょうか?」


ルーシュの胸が、軽く踊った。


友達。


その言葉は、ひどく甘かった。


「駄目だなんて」


ルーシュは思わず身を乗り出した。


「むしろ、わたくしもお友達が欲しいと、ずっと思っていたところなの!」


本心だった。


ルーシュは、本来なら人と話すのが好きだった。


綺麗な服の話。


菓子の話。


夜会の話。


噂話。


くだらないことを、いくらでも話していられる。


だがアウグストゥスは、それを許さなかった。


殺人衝動。


発作。


失敗した時の被害。


そのすべてを警戒し、ルーシュの交友関係を極力作らせないようにしていた。


貴族や大商人の子女との友好など、最も避けるべきものだった。


けれど。


退屈に腐っていたルーシュにとって、そんな事情はどうでもよかった。


塀越しに始まった会話は、すぐに弾んだ。


リーベルはよく笑った。


ルーシュもよく笑った。


二人は庭園の花の話をし、夜会の話をし、菓子の話をした。


新しく生まれた友情は、やわらかく、無防備で、壊れやすかった。


壊す側が誰なのかを、リーベルだけが知らなかった。


不穏な方向へ傾いたのは、リーベルの何気ない一言からだった。


「そういえば、前から気になっていたのですけれど」


「はい?」


「ルーシュ様の髪の色は、染めていらっしゃるのですか?」


ルーシュは瞬きをした。


リーベルは柵の向こうから、薄桃色の髪をうっとりと眺めている。


「ずっと素敵だなと思って、遠くから見ておりましたの」


「よろしければ、少し触らせていただけませんか?」


素敵。


その言葉が、ルーシュの背筋を細く走った。


身体の内側に、ぱちりと火花が散る。


嬉しい。


見られていた。


褒められた。


求められた。


興奮で息が浅くなる。


下腹部に嫌な熱が落ち、次の瞬間、ルーシュの顔から少しだけ血の気が引いた。


心因性の頻尿。


小さな失敗。


下着に、じわりと湿った染みが広がる。


だがリーベルは気づかない。


ルーシュは笑った。


いつもより少し硬い笑みだった。


「ふふ……ええ、構いませんわ」


そう言って、髪を触りやすいように首を傾ける。


リーベルは恐る恐る手を伸ばした。


指先が、薄桃色の髪に触れる。


「本当に綺麗……」


「柔らかいのですね」


ルーシュは目を細めた。


その指先が優しかった。


優しいから、もっと欲しくなった。


もっと近くに。


もっと自分だけに。


もっと壊れない場所へ。


少女たちは笑い合った。


塀を挟んだまま、友情を深めているつもりで。


やがてルーシュが、楽しげに声を潜める。


「ねぇ、リーベル様」


「何でしょう?」


「夜の街を眺めるのに、とても良い場所があるの」


「夜の街?」


「ええ。この道の先に、大聖堂の鐘楼があるでしょう?」


ルーシュの瞳がきらめいた。


「そこから見るザレイドは、とても綺麗なの」


リーベルは目を輝かせた。


「まあ……そんな場所があるのですか」


「いつか行ってみたいです」


「なら、今夜行きましょう」


リーベルの笑みが止まった。


「今夜、ですか?」


「ええ。二人で」


「でも、夜に外へ出るなんて……父に知られたら」


リーベルは迷った。


本当は、家の決まりを一度くらい破ってみたいと思っていた。


父ルトベール・ハウスマンに心配をかけたくなくて、わがままらしいわがままを言ったことはない。


夜の街。


鐘楼。


友達との秘密。


どれも、彼女には眩しすぎた。


そして何より。


前から友達になりたいと思っていたルーシュに誘われている。


断る理由より、頷きたい理由の方が多すぎた。


「……少しだけなら」


リーベルは小さく答えた。


「本当に、少しだけですわよ」


ルーシュは嬉しそうに笑った。


「ええ」


「少しだけ」


その声は甘かった。


毒の入った菓子みたいに。


そして、その夜。


リーベル・ハウスマンは、父の知らない場所へ向かった。


友達だと思った少女の後を追って。


二度と戻らない道を。


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