氷刻の冷姫VS爆熱の魔人
夕焼けが、黒煙に呑まれていた。
燃え上がる炎の赤と、沈みかけた太陽の赤が混ざり合い、ザレイドの西区一帯を血の色に染めている。
熱風が路地を吹き抜けた。火の粉が舞い、屋根を叩き、消防隊の怒号と住人の泣き声が入り乱れる。
そのすべてを断ち切るように、一筋の白銀が夜空を走った。
矢より速い。
黒煙の向こうから飛来した光は、燃える区画の上空でぴたりと止まった。
火の明かりを受け、長い金髪が揺れる。
英雄級勇者。
セレスティアだった。
腰には、アーティファクト氷刻の円剣。
セレスティアは上空から火災現場を一瞥し、すぐに剣を抜いた。刀身へ魔力が流れ込む。刃の表面に幾何学模様が浮かび上がり、蛇のように絡み合いながら銀の剣身を覆っていった。
光が強まる。
そのたびに、周囲の温度が落ちた。
街はまだ燃えている。
それなのに、石畳の端に白い霜が降りた。焼けた壁面がぱきりと鳴り、消防隊員の吐く息が白くなる。
屋根の上からそれを見上げていたアウグストゥスが、感心したように目を細めた。
「おお……これが勇者の力ですか」
「この業火の上で、あの美貌にあの剣。実に絵になりますな」
レオヴァンが横目で睨む。
「呑気なこと言ってんじゃねぇよ」
「離れた方がよろしいですかな?」
「いや、あの技なら平気だ。巻き込むような女じゃねぇ」
「信頼しておられる」
「腕はな」
「性格は知らん」
セレスティアの魔力が限界まで高まる。
上空に冷気が集まり、炎の熱とぶつかって白い霧を生んだ。
次の瞬間。
セレスティアが剣を振り抜いた。
「――氷華ノ絶舞」
冷気で形作られた無数の氷花が、燃える区画へ降り注ぐ。
花弁は人を避けた。
消防隊員を避け、逃げ惑う住人を避け、燃え盛る建物だけを正確に包み込んでいく。
炎に喰われていた梁が凍る。
窓から噴き出していた火柱が白く固まる。
屋根を這っていた火が、音もなく氷の中へ閉じ込められる。
一瞬だった。
西区の業火は、巨大な氷像へ変わった。
「消えた……?」
誰かが呟いた。
次に、歓声が上がる。
泣き崩れる者がいた。
手を叩く者がいた。
勇者の名を叫ぶ者もいた。
だが、レオヴァンは笑わなかった。
耳が動く。
足裏に、嫌な振動が伝わっていた。
地面の下だ。
歓声を踏み潰すように、低い地鳴りが響いた。
セレスティアの目が鋭くなる。
レオヴァンが吠えた。
「下だ!」
「そこから離れろ!」
アウグストゥスだけが、妙に静かな声で言った。
「間に合いませんな」
言葉が終わる前に、石畳が割れた。
亀裂の奥から赤い光が膨れ上がる。
次の瞬間、地下から噴き出した炎が氷を砕き、通りを丸ごと吹き飛ばした。
爆風。
悲鳴。
砕けた氷片が屋根に突き刺さる。
噴き上がった炎は空中で一箇所へ集まり、人の形を作っていった。
頭には山羊の角。
上半身は人間に近い。
だが下半身は炎そのもので、脚は存在しない。
上位精霊。
イフリート。
その灼熱の巨体が、黒煙の中に浮かび上がった。
(我が契約を阻むのは、お前か)
声ではない。
念が、直接脳を焼く。
セレスティアは空中で剣を構え直した。
「契約?」
「誰に使われている」
(お前が知る必要はない)
イフリートの眼窩で炎が揺れる。
(我が契約の履行を阻むとは万死に値する)
(醜く焼かれて死ね)
言い終えると同時に、イフリートの周囲で炎が渦を巻いた。
竜巻だ。
一本ではない。
三本、四本、さらに増える。
氷漬けにされた建物の表面が赤く染まり、再び炎が走り出す。
「鎮火の魔法が効かなかった理由は、あいつか」
レオヴァンが低く呟いた。
「火災そのものに、精霊が食い込んでやがる」
隣でアウグストゥスが燃える街を見下ろす。
「セレスティア殿を助けなくてよろしいのですか?」
「あのくらいなら、フロストグレイスがあれば十分だろ」
「属性相性も悪くねぇ」
レオヴァンは屋根の下へ視線を走らせた。
通りには逃げ遅れた住人が残っている。氷花の一撃で助かった者たちが、今度は再燃した炎に追い詰められていた。
「それより下だ」
「逃げ遅れを出す方がまずい」
「確かに」
アウグストゥスはゆっくり両手を前へ出した。
レオヴァンの耳がぴくりと動く。
魔力の気配がない。
詠唱もない。
それなのに、アウグストゥスの両手の先で空間が歪み始めた。
熱気で揺らいでいるのではない。
空間そのものが、指で押された薄膜のようにたわんでいる。
「位置は……そうですな」
アウグストゥスは燃える街の中心を見た。
八本の通りが交わる円形広場。
炎がそこへ流れ込み、逃げ道を塞いでいる。
「中心は、あの辺りでよろしいでしょう」
右手の指が鳴る。
パチン。
歪んだ空間が一瞬で円形広場の上空へ移動した。
そこからさらに歪みが深くなる。
黒く。
濃く。
底のない穴のように。
やがて、それは漆黒の球体へ変わった。
直後。
びゅおおおおおおお――ッ!
周囲の空気が一斉に黒球へなだれ込んだ。
突風が屋根瓦を剥がし、煙を引き裂き、火の粉を吸い上げる。炎までもが風に巻かれ、蛇のように身をよじりながら黒い球体へ吸い込まれていった。
燃えていた通りが、ぽっかりと息を吹き返す。
逃げ道が開いた。
消防隊が叫ぶ。
住人が走る。
レオヴァンは素直に目を見開いた。
「おお……すげぇな、男爵殿」
「今のは何だ?」
「魔力が動いた気配がしなかったぞ」
アウグストゥスは微笑んだ。
「企業秘密です」
「ですが、これでご理解いただけましたかな」
「なぜ私が、深淵の魔法で記憶を読まれることを拒んだのか」
レオヴァンの目が細くなる。
「……なるほどな」
「オリジナルの魔法、ってことだけは分かった」
「ご理解が早くて助かります」
屋根の上で交わされる穏やかな会話とは裏腹に、上空ではセレスティアとイフリートが激しく火花を散らしていた。
イフリートが炎の矢を放つ。
セレスティアはフロストグレイスでそれを斬り落とす。
一撃ごとに白い霧が爆ぜ、赤い火の粉が降った。
セレスティアは戦いながら下を見る。
黒い球体へ、街の炎が吸い込まれていく。
(レオヴァン?)
一瞬そう思い、すぐに否定する。
あれはレオヴァンの術ではない。
ならば。
(ヴァーミリオン男爵……)
何をした。
どうやって。
疑問が喉元まで上がる。
だが、考える時間は与えられなかった。
(人間にしてはやるな)
イフリートが、セレスティアの真正面で燃え上がる。
(だが、ここまでだ)
(我が真の力を見せてやろう)
人の形をしていた炎が崩れた。
角も、腕も、胴も、輪郭を失い、巨大な炎の柱へ溶け込んでいく。
火柱は地上から空へ伸びた。
その内側に、上位精霊の気配が渦巻いている。
街を焼くためだけの災害。
イフリートの必殺技。
《烈火霊導柱》。
「まずい……!」
セレスティアの顔から血の気が引いた。
このまま落とせば、一区画どころでは済まない。
西区全体が呑まれる。
逡巡は一瞬だけだった。
セレスティアは奥歯を噛み、フロストグレイスへ残る魔力を叩き込む。
「後は任せるぞ、レオヴァン!」
聞こえたかどうかは確認しない。
確認している時間もない。
氷刻の円剣が最大光度へ達した。
白銀の光が、黒煙を裂く。
セレスティアは炎の柱を睨み、叫んだ。
「世界よ、止まれ!」
「お前は美しい!」
剣が振り下ろされる。
「――聖氷翼輝光輪穿!」
冷気をまとった光の斬撃が、空を裂いた。
白銀の閃光は炎の柱へ突き刺さり、その中心を真っ直ぐに貫く。
一拍遅れて。
「ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
大気が震える、イフリートの絶叫らしき音がザレイドの空に響いた。
炎の柱が真っ二つに割れる。
割れた断面から氷が走り、灼熱が白く凍りつき、砕けた。
炎が消える。
黒煙だけが、空に残った。
セレスティアは結果を見届けなかった。
魔力を使い果たした身体から力が抜ける。
空中に留まる術が解け、金髪がふわりと浮いた。
落ちる。
その寸前、屋根を蹴ったレオヴァンが跳んだ。
空中でセレスティアの身体を受け止める。
お姫様抱っこの形になったセレスティアは、意識を失ったまま、かすかに眉を寄せていた。
レオヴァンは屋根へ着地し、深く息を吐く。
「何が『任せるぞ』だよ」
「もうちょっと後先考えて戦え、馬鹿お姫様」
そう吐き捨てながらも、抱える腕の力は緩めなかった。
西区の炎上は、ようやく鎮まった。
だが、被害は軽くない。
この日、重軽傷者は八百九十六人に上った。
焼け落ちた範囲は、西区の六分の一。
市場裏から職人街の外縁まで、約三万平方メートルが灰と黒い瓦礫に変わった。
そして、誰もまだ知らない。
その大火災が、ある男による陽動であったことを。
◇
ザレイド中央時計塔。
街で最も高いその塔の頂で、黒いフードの女が西区を見下ろしていた。
アエーシュモー。
夜風がフードの裾を揺らす。
眼下では、鎮火したばかりの街がまだ煙を吐いている。人々は泣き、叫び、瓦礫を掘り返し、名前を呼び続けていた。
彼女はその光景を、じっと眺めていた。
「旦那様の言いつけとはいえ……」
アエーシュモーは胸に手を当てる。
「酷いことをしました」
「とても、胸が痛みますわね」
フードの奥で、唇がゆっくりと吊り上がる。
次の瞬間。
彼女の姿は、時計塔の上から消えていた。
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