暁に染まる空、煉獄に染まる街
肝を冷やしたことがある。
新月の夜だった。
ルーシュが屋敷を抜け出し、酒場通りの路地裏で酔っ払いと話していた。
相手は女なら誰でもよかったのだろう。
薄暗い路地。
酒臭い息。
壁際へ追い詰められたルーシュ。
そして、男は手を伸ばした。
運が悪かった。
その夜、ルーシュの機嫌が悪かった。
いや。
機嫌が悪かったのは、あの寄生虫の方か。
ともかく、殺人衝動は抑えられなかった。
まだ通りに人の気配があった。
酒場から笑い声も聞こえていた。
それでもルーシュは、男の喉を裂いた。
悲鳴は出なかった。
出る前に潰した。
幸い、アエーシュモーがすぐに見つけた。
ルーシュを回収し、死体を魔法で隠し、血の臭いを誤魔化した。
誰にも見つからなかった。
本当に、運がよかった。
なに?
言うべきことはそれだけか、だと?
他に何を聞きたい。
謝罪か?
――アウグストゥスの回想より抜粋
◇
治安局への通報を終え、パーラメント邸へ戻る頃には夕暮れになっていた。
時間を食った理由は単純だ。
治安局の連中がしつこかった。
路地のチンピラ。
死んで動いた医者。
診療所から出てきた教団の経典。
説明しているこちらが馬鹿馬鹿しくなるほど、話が悪趣味だった。
ザレイドの空は赤い。
石畳には長い影が伸びている。
露店商は野菜を木箱に戻し、荷運び人は樽を転がし、仕事帰りの職人たちが酒場へ流れていく。
いつもの夕暮れ。
いつもの街。
その中で、レオヴァンだけが顔をしかめていた。
脇には黒い本。
黒山羊と毒ヘビの教団の経典。
隣ではアウグストゥスが、散歩でもしているみたいな顔で歩いている。
「男爵殿」
「はい」
「一つ聞く」
「どうぞ」
レオヴァンは前を向いたまま言った。
「教団ってのは何だ」
アウグストゥスは少しだけ間を置いた。
「どの程度ご存じで?」
「噂程度だ」
「人攫い」
「生贄」
「怪しい儀式」
「その手の与太話しか知らねぇ」
「概ね正しいですね」
「正しいのかよ」
「ええ」
アウグストゥスは静かに頷いた。
「むしろ、噂の方がまだ上品です」
風が吹いた。
軒先の洗濯物が揺れる。
アウグストゥスは何でもないことのように続ける。
「人身売買」
「違法薬物」
「誘拐」
「死体売買」
「禁術研究」
「臓器の売買もあります」
「当然、子供も使う」
レオヴァンの牙がわずかに覗いた。
「腐ってんな」
「ええ」
「王国中で何度も潰されていますが、その度に名前を変え、教義を変え、看板を変えて戻ってくる」
「ゴキブリみてぇな連中だな」
「否定はいたしません」
その時だった。
ゴーン。
鐘が鳴った。
中央広場の方角。
レオヴァンとアウグストゥスは同時に足を止める。
ゴーン。
ゴーン。
一度では終わらない。
通行人の足が止まる。
市場のざわめきが変わった。
笑い声が消える。
誰かが空を指差した。
「火事だ!」
最初は、どこかの家が燃えた程度の声だった。
だが西の空へ黒い煙が伸びるにつれて、空気が変わった。
「おい、煙が濃すぎるぞ」
「一軒じゃねぇだろ、あれ」
「何が燃えてるんだ?」
「西口の方だ!」
黒煙が夕焼けを汚していく。
赤い空に、墨をぶちまけたような黒。
レオヴァンは目を細めた。
「男爵殿」
「はい」
「あれ、ただの火事だと思うか」
「そうであってほしいものです」
「希望的観測だな」
「ええ」
「状況が悪すぎる」
洗脳されたチンピラ。
死んで動いた医者。
診療所から出た教団の経典。
その直後に、街の一角で大火災。
偶然で済ませるには、並びが汚すぎた。
レオヴァンは舌打ちした。
「行くぞ」
「私もですか?」
「ぜひとも来てほしいね」
レオヴァンはアウグストゥスを横目で見る。
「火事を見た時の顔が見たい」
アウグストゥスは口元だけで笑った。
「隠しませんね」
「隠す必要がねぇ、あんたが容疑者候補なのは知ってるだろ?」
「よろしい」
「私も気になります。ご一緒しましょう」
「走るが、世話は焼いてやれないぞ」
「構いません」
言い終える前に、レオヴァンの足元で魔力が弾けた。
石畳が鳴る。
身体が前へ飛ぶ。
疾走の魔法。
戦場で敵陣を食い破るための移動術。
次の瞬間、レオヴァンの姿は通りから消えた。
通行人の髪が風で乱れる。
少し遅れて。
アウグストゥスも動いた。
踏み込んだ様子はなかった。
詠唱もない。
ただ、そこに立っていたはずの老紳士の輪郭が、すっと薄れる。
次の瞬間、彼の姿も消えた。
残ったのは、遅れて巻き上がる小さな風だけだった。
レオヴァンは大通りを数十歩走ったところで、すぐに道を捨てた。
人が邪魔だ。
荷車が邪魔だ。
悲鳴を上げて逃げる連中が邪魔だ。
屋根へ跳ぶ。
瓦が軋む。
そのまま屋根から屋根へ。
煙の方角へ一直線に駆ける。
街並みが後ろへ流れていく。
視界が開けた。
そして見えた。
火事の規模は、予想より遥かに大きい。
(……ひでぇな)
炎は一軒ではない。
二軒でもない。
一区画が燃えている。
火の粉が風に乗り、隣の屋根へ移る。
逃げ遅れた人間の声が、煙の奥から聞こえた気がした。
レオヴァンの奥歯が鳴る。
(何人死んだ)
(本当に教団の仕業か)
セレスティアはアウグストゥスを疑っている。
だが。
個人がここまでやるか。
普通はやらない。
普通なら。
(じゃあヴァーミリオンは教団と繋がってるのか)
(だが、それなら何で診療所に案内した)
(教団の経典を俺に見つけさせて、こいつに何の得がある)
(それとも、そう疑わせること自体が狙いか)
分からない。
考えるほど、足元が沈む。
「クソが」
今は火事だ。
レオヴァンは思考を切り捨て、さらに速度を上げた。
火事現場近くの屋根に着地する。
しゃがみ込み、全体を見渡した。
地上では消防隊が怒鳴り合っている。
水桶が飛ぶ。
人が走る。
泣き叫ぶ女を、誰かが引きずって下がらせている。
「早く水を回せ!」
「違う! そっちはもう駄目だ!」
「隣を守れ! 延焼を止めろ!」
「鎮火の魔法が効かない!」
その一言を、レオヴァンの耳は拾った。
「……鎮火の魔法が効かない?」
声が低くなる。
「魔法火災で確定じゃねぇか」
横で風が巻いた。
少し遅れて、アウグストゥスが屋根の上に現れる。
呼吸は乱れていない。
服も乱れていない。
まるで舞踏会の廊下を歩いてきた後みたいに、静かだった。
「お早いですな、レオヴァン殿」
「結局、追いつけませんでした」
「その割に余裕そうだな」
「年寄りの見栄ですよ」
アウグストゥスは燃える区画を見下ろす。
その顔から、笑みが消えた。
「酷い」
短い一言だった。
レオヴァンは横顔を見る。
眉の角度。
目の奥。
口元。
嘘くさい。
だが、悪意を隠している顔にも見えない。
腹が立つほど曖昧だった。
「何とかできねぇのか、男爵殿」
「残念ながら」
「火を消す術は専門外です」
「俺もだ」
レオヴァンは舌打ちした。
「属性耐性なら張れる」
「だが鎮火は無理だ」
「では、私たちにできることは少ないですね」
「見物する趣味はねぇ」
「同感です」
レオヴァンは屋根の上で鼻を鳴らす。
血。
煤。
焼けた木材。
油。
人間の汗。
泣き声。
怒声。
レオヴァンが怪しい人物が居ないか辺りを観察していると——その時。
空気が変わった。
肌の毛が逆立つ。
巨大な魔力が、街のどこかで動いた。
炎とは別の冷たい気配。
レオヴァンは振り返る。
アウグストゥスも同じ方角を見ていた。
黒煙の向こう。
何かが来る。
街を焼く炎ごと、空気を断ち切る何かが。
レオヴァンは低く呟いた。
「……セレスティアか」
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