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サイコパス男爵とシリアルキラー姫~42人殺した娘を、父は今日も隠し続ける~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
第一部

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33/94

暁に染まる空、煉獄に染まる街

肝を冷やしたことがある。


新月の夜だった。


ルーシュが屋敷を抜け出し、酒場通りの路地裏で酔っ払いと話していた。


相手は女なら誰でもよかったのだろう。


薄暗い路地。


酒臭い息。


壁際へ追い詰められたルーシュ。


そして、男は手を伸ばした。


運が悪かった。


その夜、ルーシュの機嫌が悪かった。


いや。


機嫌が悪かったのは、あの寄生虫の方か。


ともかく、殺人衝動は抑えられなかった。


まだ通りに人の気配があった。


酒場から笑い声も聞こえていた。


それでもルーシュは、男の喉を裂いた。


悲鳴は出なかった。


出る前に潰した。


幸い、アエーシュモーがすぐに見つけた。


ルーシュを回収し、死体を魔法で隠し、血の臭いを誤魔化した。


誰にも見つからなかった。


本当に、運がよかった。


なに?


言うべきことはそれだけか、だと?


他に何を聞きたい。


謝罪か?


――アウグストゥスの回想より抜粋



治安局への通報を終え、パーラメント邸へ戻る頃には夕暮れになっていた。


時間を食った理由は単純だ。


治安局の連中がしつこかった。


路地のチンピラ。


死んで動いた医者。


診療所から出てきた教団の経典。


説明しているこちらが馬鹿馬鹿しくなるほど、話が悪趣味だった。


ザレイドの空は赤い。


石畳には長い影が伸びている。


露店商は野菜を木箱に戻し、荷運び人は樽を転がし、仕事帰りの職人たちが酒場へ流れていく。


いつもの夕暮れ。


いつもの街。


その中で、レオヴァンだけが顔をしかめていた。


脇には黒い本。


黒山羊と毒ヘビの教団の経典。


隣ではアウグストゥスが、散歩でもしているみたいな顔で歩いている。


「男爵殿」


「はい」


「一つ聞く」


「どうぞ」


レオヴァンは前を向いたまま言った。


「教団ってのは何だ」


アウグストゥスは少しだけ間を置いた。


「どの程度ご存じで?」


「噂程度だ」


「人攫い」


「生贄」


「怪しい儀式」


「その手の与太話しか知らねぇ」


「概ね正しいですね」


「正しいのかよ」


「ええ」


アウグストゥスは静かに頷いた。


「むしろ、噂の方がまだ上品です」


風が吹いた。


軒先の洗濯物が揺れる。


アウグストゥスは何でもないことのように続ける。


「人身売買」


「違法薬物」


「誘拐」


「死体売買」


「禁術研究」


「臓器の売買もあります」


「当然、子供も使う」


レオヴァンの牙がわずかに覗いた。


「腐ってんな」


「ええ」


「王国中で何度も潰されていますが、その度に名前を変え、教義を変え、看板を変えて戻ってくる」


「ゴキブリみてぇな連中だな」


「否定はいたしません」


その時だった。


ゴーン。


鐘が鳴った。


中央広場の方角。


レオヴァンとアウグストゥスは同時に足を止める。


ゴーン。


ゴーン。


一度では終わらない。


通行人の足が止まる。


市場のざわめきが変わった。


笑い声が消える。


誰かが空を指差した。


「火事だ!」


最初は、どこかの家が燃えた程度の声だった。


だが西の空へ黒い煙が伸びるにつれて、空気が変わった。


「おい、煙が濃すぎるぞ」


「一軒じゃねぇだろ、あれ」


「何が燃えてるんだ?」


「西口の方だ!」


黒煙が夕焼けを汚していく。


赤い空に、墨をぶちまけたような黒。


レオヴァンは目を細めた。


「男爵殿」


「はい」


「あれ、ただの火事だと思うか」


「そうであってほしいものです」


「希望的観測だな」


「ええ」


「状況が悪すぎる」


洗脳されたチンピラ。


死んで動いた医者。


診療所から出た教団の経典。


その直後に、街の一角で大火災。


偶然で済ませるには、並びが汚すぎた。


レオヴァンは舌打ちした。


「行くぞ」


「私もですか?」


「ぜひとも来てほしいね」


レオヴァンはアウグストゥスを横目で見る。


「火事を見た時の顔が見たい」


アウグストゥスは口元だけで笑った。


「隠しませんね」


「隠す必要がねぇ、あんたが容疑者候補なのは知ってるだろ?」


「よろしい」


「私も気になります。ご一緒しましょう」


「走るが、世話は焼いてやれないぞ」


「構いません」


言い終える前に、レオヴァンの足元で魔力が弾けた。


石畳が鳴る。


身体が前へ飛ぶ。


疾走の魔法。


戦場で敵陣を食い破るための移動術。


次の瞬間、レオヴァンの姿は通りから消えた。


通行人の髪が風で乱れる。


少し遅れて。


アウグストゥスも動いた。


踏み込んだ様子はなかった。


詠唱もない。


ただ、そこに立っていたはずの老紳士の輪郭が、すっと薄れる。


次の瞬間、彼の姿も消えた。


残ったのは、遅れて巻き上がる小さな風だけだった。


レオヴァンは大通りを数十歩走ったところで、すぐに道を捨てた。


人が邪魔だ。


荷車が邪魔だ。


悲鳴を上げて逃げる連中が邪魔だ。


屋根へ跳ぶ。


瓦が軋む。


そのまま屋根から屋根へ。


煙の方角へ一直線に駆ける。


街並みが後ろへ流れていく。


視界が開けた。


そして見えた。


火事の規模は、予想より遥かに大きい。


(……ひでぇな)


炎は一軒ではない。


二軒でもない。


一区画が燃えている。


火の粉が風に乗り、隣の屋根へ移る。


逃げ遅れた人間の声が、煙の奥から聞こえた気がした。


レオヴァンの奥歯が鳴る。


(何人死んだ)


(本当に教団の仕業か)


セレスティアはアウグストゥスを疑っている。


だが。


個人がここまでやるか。


普通はやらない。


普通なら。


(じゃあヴァーミリオンは教団と繋がってるのか)


(だが、それなら何で診療所に案内した)


(教団の経典を俺に見つけさせて、こいつに何の得がある)


(それとも、そう疑わせること自体が狙いか)


分からない。


考えるほど、足元が沈む。


「クソが」


今は火事だ。


レオヴァンは思考を切り捨て、さらに速度を上げた。


火事現場近くの屋根に着地する。


しゃがみ込み、全体を見渡した。


地上では消防隊が怒鳴り合っている。


水桶が飛ぶ。


人が走る。


泣き叫ぶ女を、誰かが引きずって下がらせている。


「早く水を回せ!」


「違う! そっちはもう駄目だ!」


「隣を守れ! 延焼を止めろ!」


「鎮火の魔法が効かない!」


その一言を、レオヴァンの耳は拾った。


「……鎮火の魔法が効かない?」


声が低くなる。


「魔法火災で確定じゃねぇか」


横で風が巻いた。


少し遅れて、アウグストゥスが屋根の上に現れる。


呼吸は乱れていない。


服も乱れていない。


まるで舞踏会の廊下を歩いてきた後みたいに、静かだった。


「お早いですな、レオヴァン殿」


「結局、追いつけませんでした」


「その割に余裕そうだな」


「年寄りの見栄ですよ」


アウグストゥスは燃える区画を見下ろす。


その顔から、笑みが消えた。


「酷い」


短い一言だった。


レオヴァンは横顔を見る。


眉の角度。


目の奥。


口元。


嘘くさい。


だが、悪意を隠している顔にも見えない。


腹が立つほど曖昧だった。


「何とかできねぇのか、男爵殿」


「残念ながら」


「火を消す術は専門外です」


「俺もだ」


レオヴァンは舌打ちした。


「属性耐性なら張れる」


「だが鎮火は無理だ」


「では、私たちにできることは少ないですね」


「見物する趣味はねぇ」


「同感です」


レオヴァンは屋根の上で鼻を鳴らす。


血。


煤。


焼けた木材。


油。


人間の汗。


泣き声。


怒声。


レオヴァンが怪しい人物が居ないか辺りを観察していると——その時。


空気が変わった。


肌の毛が逆立つ。


巨大な魔力が、街のどこかで動いた。


炎とは別の冷たい気配。


レオヴァンは振り返る。


アウグストゥスも同じ方角を見ていた。


黒煙の向こう。


何かが来る。


街を焼く炎ごと、空気を断ち切る何かが。


レオヴァンは低く呟いた。


「……セレスティアか」


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