それぞれの役割
この街へ来て、すぐのことだったと思う。
露店でパンを売っていたおじさんが、私のことを可愛いと言ってくれた。
おまけだよ、と。
パンをもう一つ、ただでくれた。
だから私は、ちゃんとお礼を言った。
ありがとう。
そうしたら、おじさんは笑って言った。
またおいで。
だから私は行ったの。
おじさんの家に。
でも、おじさんはひどく慌てて。
顔を真っ赤にして、出ていってくれと言った。
どうして?
またおいでって言ったのに。
私は悲しくなった。
胸の奥で、あの子が暴れた。
駄目。
大変なことになる。
そう思ったから、私はおじさんの首を優しく撫でてあげた。
そうしたら、おじさんは口をぱくぱくさせた。
声は出なかった。
足元に、赤い水たまりが広がった。
おじさんは倒れた。
動かなくなった。
でも、私はまだおじさんとお喋りがしたかった。
だから。
おじさんの首だけ、持って帰ることにした。
――ルーシュの記憶より抜粋
◇
パーラメント男爵邸。
煌びやかな調度品を取り払われた一室は、臨時の会議室と化していた。
その中心で、アウグストゥスは一瞬だけ沈黙した。
誰にも拾われない程度の沈黙。
だが、本人には十分すぎる間だった。
エンバーミング。
ルーシュのためとはいえ、あれは危うすぎた。
本来なら、死体など残すべきではなかった。
それでルーシュが一晩でも眠れるなら、安い手間だった。
愚かだとは思わない。
後悔もない。
だが――。
その優しさが、今、首に縄をかけている。
「薬剤の流通」
目の前では、セレスティアが今後の調査事項をまとめていた。
「遺体を保管できる人物、または施設の洗い出し。葬儀屋、医師、薬師、錬金術師」
「魔術ギルドの文献閲覧記録」
「治安局の行方不明者リスト」
「そして、四十二名の被害者の接点の再調査」
声に迷いがない。
先ほどまで考察していた仮説を、即座に調査項目へ落とし込んでいる。
有能だ。
実に面倒なほどに。
ローレンが口を挟んだ。
「薬剤の流通と、治安局の行方不明者リストはこちらで引き受けます」
「街門では積み荷の検疫を行っています。エンバーミングに使える薬剤が、いつ、誰の手で運び込まれたのか調べてみましょう」
そこで、彼は少しだけ顔を曇らせた。
「行方不明者リストについても、治安局の知り合いに作り直させます」
「今のままでは使い物になりません」
「少し時間をください」
「では、私は薬剤を扱っている商人と、魔術ギルドを当たりますわ」
ロゼが続いた。
「異世界技術に関する文献を誰が閲覧したのか。魔術ギルドなら記録が残っている可能性があります」
それから、彼女は少し考えて言葉を足す。
「星十字教会にも確認しましょう」
「黒山羊と毒蛇の教団に関係する者を知らないか」
「死霊魔法、儀式、遺体の加工……その手の異端に詳しい者がいるかもしれません」
アウグストゥスは静かに頷いた。
「では、私はスラムを調べてみましょう」
セレスティアの視線が動く。
「スラムを?」
「ええ」
アウグストゥスは柔らかく微笑んだ。
「黒山羊と毒蛇の教団が犯人だと仮定するなら、実行犯や協力者をこの街へ潜り込ませている可能性がありますので」
「そうした者が隠れるには、スラムは非常に都合がよいかと」
「貴族がスラムへ立ち入って平気なのですか?」
セレスティアの声は穏やかだった。
だが、目は笑っていない。
「慈善事業の関係で、何人か顔見知りがおりましてね」
「そう滅多なことは起きないでしょう」
「随分と顔が広いのだな」
「狭いよりは便利です」
アウグストゥスの返答に、セレスティアとレオヴァンが一瞬だけ目を合わせた。
言葉はない。
だが、十分だった。
――罠か?
――だろうな。
――乗るか?
――乗らねぇと見えねぇ。
ローレンは、その沈黙をあえて見ないふりをした。
「では、各自が示した調査に移ってください」
「報告は一日三回」
「明けの刻」
午前10時。
「昇りの国」
真昼。
「暮れの刻」
午後4時。
「些細な情報でも共有します。推測であっても構いません」
「犯人は、こちらが一つ見落とすだけでも逃亡の確率が上がってしまいます」
部屋の温度が下がった。
ローレンはただの事務役ではない。
そう場に刻む声だった。
レオヴァンが椅子にもたれたまま、口の端を上げる。
「それはいいがな、ローレン隊長」
「俺たちが何するか、まだ決まってねぇぜ」
「私は貴族たちを調べる」
セレスティアが即答した。
「黒山羊と毒蛇の教団に協力している貴族がいるかもしれない」
半分は本当だった。
だが、核心ではない。
本当に知りたいのは、アウグストゥスの評判。
交友関係。
資金の流れ。
そして、どの貴族が彼を恐れ、どの貴族が彼に近づいているか。
それを、この場で口に出す必要はない。
セレスティアは視線だけを横へ流した。
レオヴァンがそれを拾う。
――アシュハート。
――ヴァーミリオンに付け。
――目を離すな。
レオヴァンは鼻で笑った。
「なら、俺はヴァーミリオン男爵についていく」
アウグストゥスを見る。
「スラムで何かあっちゃ困るからな」
「私に護衛は必要ないと思いますが」
アウグストゥスは穏やかに返した。
「念のため、ということでしたらお願いしましょう」
「おう。任せとけ」
レオヴァンが豪快に笑った。
部屋に響く、獣じみた笑い声。
馬鹿に見える。
いや、馬鹿に見せている。
アウグストゥスは紅茶の縁に指を添えながら、思考を整理した。
(セレスティアが来ると思っていたが、獣人の方か)
(嗅覚。聴覚。足跡。呼吸。汗。嘘の気配)
(なるほど、こちらの方が厄介な場面もある)
だが、予定は変えない。
勇者のどちらかが貴族街を調べる。
それは想定内。
ローレンが治安局と薬剤の流通を追う。
これも想定内。
ロゼが魔術ギルドと教会へ向かう。
予想通り。
問題は、アエーシュモーだ。
彼女には別行動をさせている。
勇者たちがこの会議室で推理を積み上げている間に、別の場所で別の糸を引かせている。
上手くいけば、彼らは真相へ近づく。
近づいたと思い込む。
そして、こちらが用意した答えを掴む。
(あとは、あの女の首尾次第だな)
アウグストゥスは、レオヴァンの笑い声を聞きながら、静かに目を細めた。
狩人は勇者たちだ。
そう見える。
だが、この場で獲物の位置を決めているのは誰か。
道を示し、役割を分け、嗅がせる匂いまで選んでいるのは誰か。
その答えに気づく者は、まだいない。
「では、参りましょうか。アシュハート殿」
アウグストゥスは立ち上がった。
「スラムは足元が悪い。どうかお気をつけください」
「心配すんな」
レオヴァンも立ち上がる。
その巨体が、椅子を軋ませた。
「足元を見るのは得意だ」
二人の視線がぶつかる。
一瞬。
アウグストゥスは笑った。
レオヴァンも笑った。
どちらも、少しも笑っていなかった。
そしてその頃。
屋敷の外では、黒いローブを被ったアエーシュモー・ダエーワがスラムでチンピラに絡まれていた。
「あなた達に仕事があります」
「引き受けてくださいませんか?」
ローブの人物が女だと気づいたチンピラたちは、下品な笑みを浮かべていたが。
黒いローブを被った女はもっと邪悪な笑みを浮かべていた。
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