始まりの日
街を守る高い城壁。
その内側には、中世ヨーロッパを思わせる街並みが広がっていた。
石畳を馬車が走り、商人たちの声が飛び交う。
その喧騒から少し離れた貴族街の端に、一軒の屋敷がある。
美しく手入れされた庭。
豪奢な装飾を施された屋敷。
誰が見ても裕福な貴族の館だった。
――ただし、その地下を除けば。
地下室には、異様な光景が広がっていた。
棚という棚には薬品が並び、フラスコの中では液体が不気味な泡を立てている。
薬品臭。
焦げた金属臭。
普通の人間なら長居したいとは思わないだろう。
だが、この部屋の主にとっては違う。
こここそが、最も落ち着く場所だった。
部屋の中央。
モノクルを掛けた白髪の老紳士が、水晶へ向かって話しかける。
空中に浮かぶ魔法陣が、その声を記録していた。
「これは、この患者を治療するための記録である」
感情のない声だった。
まるで解剖記録でも読み上げるかのように。
「患者は四十代女性」
「桃色の長髪をツインテールに結っている」
「身長百五十五センチ。体重三十九キロ」
「重度のストレス症状あり」
「拒食症。切迫性尿失禁。不眠症を確認」
そこで記録を区切る。
治療記録。
そう名付けてはいる。
だが、アウグストゥス・ヴァーミリオン男爵を動かしているのは慈悲だけではない。
未知の症例。
常識から外れた肉体。
精神世界と肉体を結ぶ寄生現象。
それらは研究者としての知識欲を強く刺激していた。
「患者は精神世界アストラルサイドに生息すると思われる“影の茨”に寄生されている」
「寄生の影響により、外見年齢は十五、六歳で停止」
「目元には濃い隈を確認」
「以上――」
「旦那さま」
背後から声がした。
アウグストゥスは振り返る。
そこには黒髪ショートボブの女性が立っていた。
整った顔立ち。
一切変化しない表情。
人形のような佇まい。
だが問題はそこではない。
彼女の背後に扉がなかった。
あるのは冷たい石壁だけだ。
「……部屋に入る時は扉を使えと、いつも言っているだろう」
「アエーシュモー・ダエーワ」
「失礼いたしました」
「ですが、この方が速いので」
反省の色は皆無だった。
アウグストゥスは小さく溜息を吐く。
「それで?」
「お嬢様が、買い物へ出掛けたいので早く地下室から出てくるようにと」
「買い物?」
「一週間ほど前、お嬢様と約束されたかと」
その言葉で思い出した。
新しいドレスを作るため、仕立て屋へ連れて行く約束をしていた。
本来なら職人を屋敷へ呼べば済む話だ。
だがルーシュは街を歩きたいと言った。
研究より優先する理由はない。
だが約束を破れば面倒なことになる。
「……そうだったな」
アウグストゥスは水晶の光を消した。
「すぐに向かう」
「承知いたしました」
アエーシュモーが礼をする。
その身体が薄く揺らいだ。
消えようとしている。
「待て」
アウグストゥスが鋭く告げた。
「出入りは扉を使え」
アエーシュモーは数秒沈黙した。
「……承知しました」
彼女は入口へ向かって歩き出す。
そして、すれ違いざま。
「チッ」
小さな舌打ち。
さらに。
「面倒くせぇな」
アウグストゥスは聞かなかったことにした。
反応するだけ時間の無駄だった。
◇
日の光が差し込む部屋。
そこにルーシュは座っていた。
淡い桃色のツインテール。
華奢な身体。
化粧で隠していても分かる濃い隈。
膝の上で落ち着きなく動く指先。
「義父さま、まだかしら……」
沈んだ声だった。
「私との約束なんて、どうでも良かったのかな」
「どう思う? ギルエル」
怒っているのではない。
不安なのだ。
忘れられることが。
置いていかれることが。
ギルエルは真面目な顔で答えた。
「そんなことはありません」
「確かに旦那さまはサイコパスで、人の心というものがありませんが」
「慰める気あるの?」
「ございます」
ギルエルは即答した。
「旦那さまがお嬢さまを大切に思っていることは事実です」
「もっと信頼してもよろしいかと」
本音を言えば半信半疑だったが。
その予想は外れる。
カチャリ。
扉が開いた。
「遅れて済まない、ルーシュ」
アウグストゥスだった。
「約束を忘れていたわけではない」
「実験を切り上げる区切りが見つからなくてね」
申し訳なさそうに語る。
だが、その謝罪は計算だった。
こう言えば泣かれない。
機嫌を損ねずに済む。
ただ、それだけだ。
「いえ」
アエーシュモーが割り込んだ。
「旦那さまは完全に忘れておりました」
アウグストゥスは横目で睨む。
「今のは冗談だ」
「彼女はよく嘘をつくだろう?」
「事実ですが」
「黙れ」
ルーシュはじっと義父を見つめた。
疑っているのではない。
信じたいのだ。
忘れられていなかったと。
「……本当?」
「ああ」
アウグストゥスは即答した。
「それより出発の準備はできているか?」
話題を変えようとした、その時。
「旦那さま」
またアエーシュモーが口を開く。
「まずは真の謝罪をなさってはいかがでしょう」
「真の謝罪とは?」
「約束を忘れて申し訳ありません」
「お詫びとして全財産を私に相続させます」
「ミノムシですみません」
「この程度は当然かと」
「なぜお前に全財産を譲る必要がある」
「道徳に理由などございません」
「これだからサイコパスは」
アウグストゥスは会話を諦めた。
この女は会話をしているようで、会話をする気がない。
相手にするだけ無駄だった。
彼は改めてルーシュへ向き直る。
そして。
片膝をついた。
「失礼した、我が姫よ」
恭しく頭を下げる。
「確かに約束を忘れていた」
「詫びとして願いを一つ叶えよう」
ルーシュの瞳が大きく揺れた。
不安が消えていく。
義父が自分のために跪いている。
その事実だけで満たされていた。
「本当?」
「何でも?」
「我が信念にかけて」
ルーシュは喉を鳴らして笑った。
嬉しそうに。
そして少しだけ危うく。
「お嬢さまとナイトごっこをされるのも結構ですが」
ギルエルが口を挟む。
「午後からユーリッヒ男爵との会談があったのでは?」
アウグストゥスは眉をひそめた。
会談は明日に延期されたはずだ。
三日前。
アエーシュモーからそう聞いている。
ゆっくりと視線を向ける。
「アエーシュモー」
「何か言うことはあるか?」
「さて」
「何のことでしょう」
「ユーリッヒ男爵との会談はいつだ?」
「明日です」
「今日のはずよ?」
ルーシュが首を傾げた。
「前にユーリッヒさまがそう言っていたもの」
空気が凍る。
アウグストゥスの視線が鋭くなる。
だがアエーシュモーは無表情のままだ。
「では皆さま」
「仕立て屋へ参りましょう」
そう言うと彼女は踵を返した。
今度はちゃんと扉を使って。
アウグストゥスは深く息を吐く。
研究。
商談。
義娘の機嫌。
そして厄介なメイド。
本来なら全て計算できる。
だが、この屋敷では時々。
計算を狂わせる者がいる。
それが不快だった。
――少しだけ興味深くもあった。
こうして一行は屋敷を出る。
誰も知らない。
この日、ルーシュが一人の少年と出会うことを。
そして、その出会いが。
四十二人目の犠牲者へ続く最初の一歩になることを。




