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サイコパス皇帝とシリアルキラー姫~勇者に追われる家族の日常~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
麗しき災厄

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黒山羊と毒ヘビの経典

 セテスティアとレオヴァンが捜査に乗り出した頃。


 貴族街から少し離れた場所にある、ヴァーミリオン男爵邸。


 その地下研究室では、地上の朝とは違う時間が流れていた。


 窓はない。


 壁には無数の棚が並び、薬瓶、乾燥させた薬草、獣の骨、金属片、用途の分からない結晶体が所狭しと置かれている。


 机の上には研究資料が散乱し、いくつもの紙束が重なっていた。


 フラスコの中では淡い紫色の液体が静かに泡立ち、細い管を通って別の容器へと滴り落ちている。


 その隣で、紅茶の湯気だけが不自然なほど穏やかに立ち昇っていた。


 アウグストゥス・ヴァーミリオンは椅子に腰掛けたまま、一枚の報告書に目を通していた。


 白髪。


 整えられた口髭。


 片目に掛けられたモノクル。


 その姿は、昨日の誕生日会で見た穏やかな紳士そのものだった。


 ただし、この地下室においては、その穏やかさすら異質だった。


 研究器具。


 薬品の匂い。


 微かに漂う血と防腐剤の気配。


 そのすべてが、この男の本性を隠すためではなく、むしろ自然に受け入れているように見えた。


 向かいに立つのは、無表情のメイド。


 アエーシュモー・ダエーワ。


 黒髪のショートボブ。


 乱れのない姿勢。


 感情の読めない瞳。


 彼女は主人の言葉を待つように、静かに立っていた。


「勇者たちはどう動くでしょうね」


 アエーシュモーが尋ねた。


 声は淡々としている。


 興味があるようにも、ないようにも聞こえた。


「早ければ今日中に、遅ければ一週間後ぐらいに俺の屋敷を訪ねてくると踏んでいるが、どうだろうな」


 アウグストゥスは報告書を閉じた。


 紙の擦れる音が、地下室に小さく響く。


「彼女たちが慎重な性格なら、まず俺以外の可能性を潰してからここに来るだろう」


 彼は微笑んだ。


「俺は、今日来てくれる性格の方が好みだがな」


 机を指先で軽く叩く。


 こつ、こつ、こつ。


 規則正しい音。


 まるで時計の針のようだった。


 焦りはない。


 苛立ちもない。


 勇者が来る。


 それは本来、警戒すべき事態のはずだった。


 だが、アウグストゥスにとっては、予定より少し早く観察対象が増えた程度のことに過ぎなかった。


「下水道はどうなっている」


「既に痕跡は処理済みです」


「結構」


 アウグストゥスは満足そうに頷いた。


 ほんの少しだけ、モノクルの奥の瞳が細まる。


「では、次の段階へ移ろう」


 アエーシュモーの瞳がわずかに細まった。


「偽の犯人なら、既に用意してあります」


「うむ」


 アウグストゥスは微笑む。


 昨日の誕生日会で見せていた穏やかな笑み。


 だが、今はその奥に温度がない。


「勇者が予想外に早く来て、流石に困惑したが」


 彼はゆっくり立ち上がった。


「別にやることは変わらん。こちらで用意した犯人を捕まえさせる」


「それが治安局から勇者に変わっただけのことだ」


 椅子が床を擦る音。


 アウグストゥスは壁に備え付けられた机の前へ移動し、蒸留中のフラスコを眺めた。


 淡い紫色の液体が、管の中をゆっくりと流れている。


「それで事件は解決」


 彼は穏やかに言った。


「民衆も安心して夜、眠れるようになる」


 人々の恐怖。


 失われた命。


 壊された家族。


 そのすべてを語っているはずなのに、アウグストゥスの声には悲しみも怒りもない。


 ただ、問題を処理する者の声だった。


「めでたしめでたしだ」


 アエーシュモーは沈黙していた。


 アウグストゥスはフラスコから目を離さない。


「ならば、与えてあげればいい」


 彼の唇がわずかに動く。


「犯人を」


 紫色の雫が落ちる。


「成果を」


 また一滴。


「そして、解決を」


 地下室に静寂が戻った。


 薬品の匂い。


 小さな泡の弾ける音。


 紅茶の湯気。


 そのすべてが、異様なほど穏やかだった。


 アエーシュモーが尋ねる。


「彼らは引っかかるでしょうか?」


「引っ掛けるのだろ、そこは」


 アウグストゥスは振り返らずに答えた。


「善意の協力者として、彼女たちの捜査を支援する」


 数秒の沈黙。


 アエーシュモーは小さく頷いた。


「用意した偽の犯人は、スラム街西区画の廃墟群で野宿していた男性です」


「身元は」


「身寄りなし。職なし。住居なし」


 淡々とした声。


 まるで、食材の在庫でも報告しているかのようだった。


「失踪しても、誰も気付かない人間です」


「現在は?」


「洗脳処理は済んでいます。ついでに、深淵の処理も」


「黒山羊と毒蛇の教団の狂信者として行動するよう、人格を書き換えてあります」


「記憶は?」


「破壊済みです」


 アエーシュモーは表情を変えない。


「質問を受けても、支離滅裂な供述しかしません」


「廃人同然か」


「はい」


 アウグストゥスは少し考えた。


 指先を顎に添える。


 その仕草は、どこか学者めいていた。


 人間ひとりの人格が破壊されたという報告を受けているはずなのに、そこに罪悪感はない。


 むしろ、実験結果を検討しているかのようですらあった。


「悪くない」


 やがて、彼は満足そうに頷いた。


「では、彼を発見できる場所へ配置してくれ」


「証拠品も必要ですね」


「もちろん」


 アウグストゥスは静かに微笑む。


「黒山羊と毒蛇の教団を示す偽造品をいくつか。見つけた者が、そう思い込める程度でいい」


「承知しました」


 アエーシュモーが一礼する。


 そのまま退出しようとした瞬間。


「待て」


 呼び止められた。


 アエーシュモーは足を止める。


「何でしょう」


「勇者たちは優秀だ」


 アウグストゥスは振り返った。


 モノクルの奥の瞳が、静かに細められている。


 声は穏やかだった。


 だが、その穏やかさの奥に、冷たい刃のような圧がある。


「くれぐれも用心するのだ」


 アエーシュモーは目を伏せた。


「失敗は許されない」


「理解しています」


 そう答えた直後。


 アエーシュモーの口元が、わずかに歪んだ。


 冷たい笑みだった。


「ご安心を」


 彼女は顔を上げる。


「今度の人形は、なかなか出来が良いですのよ」



 一方。


 街の外れ。


 崩れかけたスラム街の廃墟。


 そこは、かつて人が暮らしていた場所だった。


 だが今は、壁は崩れ、屋根には穴が空き、石畳の隙間から雑草が伸びている。


 昼であるにもかかわらず、建物の奥には陽が差し込まない。


 湿った空気。


 腐った木材の匂い。


 古い煤と、黴の臭気。


 その暗がりの中に、ひとりの男がいた。


 男は膝を抱えて座っていた。


 痩せ細った身体。


 汚れた服。


 伸びきった髪。


 乾いた唇。


 焦点の合わない瞳。


 その目は、何も見ていなかった。


 目の前に誰かが立とうと。


 刃を突き付けられようと。


 泣き叫ぶ者がいようと。


 もう何も理解できない。


 壊されてしまったのだ。


 人格も。


 記憶も。


 人生も。


 残っているのは、与えられた言葉だけ。


 男の口元から、意味のない呟きが漏れる。


「黒山羊……」


 ひび割れた声。


「蛇を……」


 男は小さく身体を揺らす。


「捧げろ……」


 何度も。


 何度も。


「捧げろ……」


 まるで壊れた人形だった。


 暗闇の中に、男はいた。


 男の足元には、一冊の黒い経典が落ちていた。


 古びた革の表紙。


 見慣れない紋章。


 黒山羊と、毒蛇が絡み合う異様な印。


 誰かが用意したもの。


 誰かが置いたもの。


 誰かに見つけさせるためのもの。


 偽りの証拠。


 偽りの犯人。


 そして、偽りの真実。


 偽りの善意が、この場に勇者を誘おうとしていた。


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