善悪と言うもの
「正義? 何の話だ?」
アウグストゥスは、本気で意味が分からないという顔をした。
それからティーカップを指先で弄びながら、向かいに座るナニレスクを眺める。
「俺にとって正義も悪も、この世に存在する物事の分類に過ぎんよ。人間は随分とありがたそうにその二つを口にするが、実際には自分の立ち位置が変われば、驚くほど簡単に呼び名も変わる」
ナニレスクのペンが紙面を走った。
アウグストゥスは構わず続ける。
「昨日まで職務質問をしてくる巡察官を『ポリ公』と罵っていた人間が、翌日に強盗へ襲われれば『お巡りさん、助けてください』と泣きつく。巡察官が昨日だけ悪人で、今日は突然善人になったわけではない。変わったのは、その人間にとって巡察官が邪魔な存在か、守ってくれる存在かという一点だけだ」
少しだけ笑う。
嘲笑というより、面白い標本を眺める研究者の笑いだった。
「人は自分を責め立てる正しさを悪と呼び、自分を守ってくれる正しさを正義と呼ぶ。だから俺は、正義という言葉をあまり信用していない。もっとも、それ自体を非難する気もないがね。生き物が自分の都合を優先するのは当然だ。俺だってそうしている」
そこで言葉を切り、紅茶を一口飲んだ。
ナニレスクは顔を上げない。
「では、何が気に入らないんです?」
その問いに、アウグストゥスはカップをソーサーへ戻した。
「自分の都合で世界を量ることは当然の権利だと思っているくせに、俺が俺の都合で世界を量ると、それを罪だ悪だと騒ぎ立てるところだよ。自分は都合で動く。だが俺には都合で動くなと言う。随分と一方的な話ではないか?」
声音は穏やかなままだった。
「俺は誰かが自分の都合で何を決めようと、それだけを理由に非難したことはない。俺に不利益を与えようとするなら話は別だがね。その場合は説得するか、罠にはめるか、蹴落とすか、それでも駄目なら力ずくで粉砕する。それだけだ」
ナニレスクの手が一瞬止まった。
アウグストゥスはそれを見て、薄く笑った。
「どうした。今のところは書かないのか?」
ナニレスクは無言で再びペンを走らせた。
――アウグストゥス・オクタヴィアヌス取材記録より抜粋。
◇
アウグストゥスは戦いながら観察していた。
姿を隠し、リマが作った僅かな隙を狙ってアスイズミへ斬撃を加える。
最初の数度は通じた。
だが、それも長くは続かなかった。
アスイズミ――いや、正確にはその手に握られた光の剣が、こちらの攻撃へ適応し始めている。
(ふむ……今ので三度目か)
先ほどまでなら届いていた角度へ刀を振るう。
アスイズミが背中を向けたまま身体を捻り、紙一重でかわした。
(やはり対応され始めたな。いや、それだけではない)
アウグストゥスは隠密を維持したまま距離を取った。
(学習速度そのものが上がっている)
敵は、戦闘経験を蓄積している。
それだけなら珍しくない。
問題は、その蓄積を利用して次の学習まで速くなっていることだった。
一度覚えた型を基礎に、次の情報をより短時間で処理する。
そしてその能力は、アスイズミ本人のものではない。
(インテリジェンス・ウェポン……意思を持つ遺物の類か)
遺物の中でも極めて希少な存在。
武器でありながら所有者とは別個の判断能力を持ち、場合によっては主人を選び、拒み、あるいは食い潰す。
目の前の光の剣は、その中でも相当に質が悪い。
(そして――)
アウグストゥスの目が僅かに細くなった。
アスイズミの身体を見ても、もはや以前感じていた違和感がない。
苦痛。
抵抗。
一瞬だけ表へ滲んでいた本人の気配。
それらが消えている。
(完全に食われたか)
もう、アスイズミ自身はどこにもいない。
肉体だけが残され、その中身を別の意思が動かしている。
少なくとも、アウグストゥスの観察ではそう判断するしかなかった。
(管理者にとって使徒とは、結局のところ替えの利く駒らしい)
哀れだとは思う。
だが腹は立たない。
(まあ、人間を使い捨てにするという意味では、俺も他人のことを言えんがな)
むしろ感情より先に、興味が湧く。
何人作れるのか。
一人死ねば、次も同じように用意するのか。
この光の剣に蓄積された経験は、次の宿主へまで引き継がれるのか。
もしそうなら。
(早々に壊しておかんと面倒なことになる)
その結論へ達した時。
リマが動いた。
「単発が駄目なら、数でどうですかねぇ!」
緑色の光の弓が強く引き絞られる。
放たれた矢は一本。
だが射出された瞬間、空中で分裂した。
十。
二十。
さらに増える。
無数の緑光が扇状に広がり、上下左右からアスイズミへ殺到した。
逃げ道はない。
「これなら――」
ガガガガガガガキィン――!
言葉の途中で、リマの顔から笑みが消えた。
光の剣が動く。
速い。
振ったというより、白い線が連続して生まれた。
迫る矢を切り。
弾き。
軌道を逸らし。
一歩も下がらないまま、すべてを処理する。
最後の一本が消えた瞬間には、もうアスイズミは動いていた。
「いや、ちょっと待てって!」
一気に距離を詰める。
リマの目の前へ光の剣が迫った。
弓では受けられない。
「くそっ!」
バチン!
緑色の光が弾けた。
リマの持っていた弓が形を変える。
弦が消え、湾曲していた光が一直線へ伸びた。
緑色の光剣。
それを両手で握り、白い剣を受け止める。
ギィン――!
カールフォードの空へ、魔力同士がぶつかる甲高い音が響いた。
衝撃でリマの身体が後方へ押される。
「こりゃ、本気でヤバいな……陛下と剣で渡り合う相手だから、懐に入られないよう弓で削るつもりだったんですけど。遠距離そのものを対策されたら、俺の長所が全部死ぬじゃないですか!」
アスイズミは答えない。
「がぅッ!」
二撃目。
リマが身体を反らす。
三撃目。
剣で受け流す。
四撃目。
横へ跳ぶ。
五撃目。
切っ先が頬を掠めた。
「速っ……!」
六撃目。
防いだ。
七撃目。
間に合わない。
白い刃がリマの胴へ走った。
その瞬間。
アスイズミの右脇腹へ黒い球体が飛来した。
アウグストゥス。
アスイズミの視線が変わる。
一拍にも満たない時間で攻撃対象を切り替え、光の剣が黒球を真っ二つにした。
爆発。
黒煙。
その一瞬をリマは逃さない。
「もらった!」
緑の剣を突き出した。
だが。
アスイズミはそれすら見ていた。
床を蹴り、大きく後方へ跳ぶ。
切っ先が僅かに届かない。
距離が開いた。
リマは深く息を吐いた。
「危っぶねぇ……今の陛下の援護がなかったら、本当に腹から上下に分かれるところだったんですけど」
額を拭う。
手の甲へ汗がついた。
「陛下。もう無理っすわ、これ。俺の矢も剣も、完全に読まれ始めてますって。このまま同じこと続けても俺が先に潰れます。何か別の手があるなら、そろそろ出してもらわないと洒落になりませんよ」
軽口ではある。
だが先ほどまでとは違う。
声の奥へ、明確な警戒が混じっていた。
返事はすぐ近くから聞こえた。
「同感だ」
空間が揺らぐ。
隠密魔法が解除され、リマの隣へアウグストゥスが姿を現した。
血に濡れた衣服。
浅い呼吸。
それでも顔は妙に落ち着いている。
「学習速度がここへ来てさらに上がっている。恐らく、単なる蓄積ではない。戦闘を通じて構造そのものが変化しているのだろう。平たく言えば――進化している」
リマが嫌そうに眉を寄せた。
「そんな他人事みたいに言われても困るんですよねぇ。進化してるのは分かりました。問題は、あれをどうやって止めるかでしょう。まさか『頑張れ』の一言で俺に全部投げるつもりじゃないですよね?」
アウグストゥスは少し考えた。
「やること自体は、そう大きく変わらん」
「嫌な予感がする」
「何とかして隙を作れ。次で俺が決める」
リマがしばらくアウグストゥスを見つめた。
「……それだけ?」
「それだけだ」
「俺がどうやって隙を作るかという、一番重要な部分について何も言ってないですよね?」
「そこまで俺が考えてやったら、お前がいる意味がないだろう」
「そういうところだけ急に部下を信頼しないでくださいよ!」
文句を言いながらも、リマは逃げなかった。
アウグストゥスという男を長く知っている。
この老人が根拠もなく「次で決める」と言うことは少ない。
少なくともリマは、そういう経験を何度もしてきた。
だから不満は言う。
悪態も吐く。
それでも従う。
アウグストゥスは横目でリマを見る。
「安心しろ。死ぬほど危険というだけで、死ぬと決まったわけではない」
「その励まし方、人生で一度も人を安心させたことないでしょう?」
アウグストゥスは笑った。
だがその内心は、口調ほど余裕があるわけではなかった。
(次で決めねばならんな)
戦闘が長引くほど、こちらの手札が減る。
隠密。
遠距離射撃。
連携。
フェイント。
今まで見せた手段を一つずつ、敵が自分のものにしていく。
(これ以上経験を与えれば、本格的に手がつけられなくなる)
ここが限界だった。




