英雄アスイズミ
その夜。
ニンザの襲撃を受けたアウグストゥスはホテルを変えていた。
ただし、ホテルを変えても部屋の格まで落とすつもりはなかったらしい。
新しい宿の最上階近く。
街の夜景を一望できるスイートルームである。
ベッドルームでは、すでにルーシュとギルエルが眠っていた。
リビングに残っているのは、アウグストゥスとアエーシュモーだけ。
窓の外では、カールフォードの街灯が地上の星のように散らばっている。
アウグストゥスはソファに深く腰掛け、眉間へ寄った皺を指先で押さえていた。
「それで、魔王領へ向かうまでの今後の予定だが……お前ならどうする?」
向かいに立つアエーシュモーは、わずかに首を傾げた。
「旦那様がお望みになる道を選ばれてはいかがでしょう。私どもは、それに従うだけでございますので」
従順そのものの返答だった。
アウグストゥスは露骨に顔をしかめた。
「そういう話をしているのではない。旅行先を決めているわけではないのだぞ。俺が聞きたいのは、魔王領までの道中で管理者の追撃をどう躱すかだ。ニンザの一件を考えれば、こちらの位置を知られている可能性は高い。ならば次を予測しておきたい」
「それでしたら――管理者そのものを警戒なさっている限り、経路を変えることに大きな意味はないかと存じます」
アエーシュモーは、窓の外へ目を向けた。
そこに何かを見ているわけではない。
遠い昔を見ている時の目だった。
「旦那様がどの街を通り、どの宿を選び、どの交通手段を利用なさろうとも、人間がいる場所であれば同じことでしょう。あの捜査官のような者を、その都度使徒へ変えて差し向ければよい。管理者にとっては、自ら手を下す必要すらございません」
アウグストゥスの指が、眉間から離れた。
「つまり、逃げ道ではなく人間そのものが罠になると?」
「可能性としては」
「面倒だな」
吐き捨てるように言ったものの、声には苛立ちより興味の方が混じっていた。
アウグストゥスはソファの肘掛けを指先で軽く叩く。
「では、その使徒とやらを作る数に制限はないのか? 一人ずつしか作れない、距離に限界がある、対象に適性が必要、何らかの対価を消費する……普通なら何かしら条件がある。無制限に人間を操れるなら、最初から街中の人間すべてを俺へ差し向ければ済む話だ」
アエーシュモーはすぐには答えなかった。
遥か昔。
旧文明。
現在とは比較にならぬほど発達した魔法文明。
巨大な城が空に浮かび、鉄で作られた途方もない質量の飛行物が雲の上を横切っていた時代。
その記憶を、暗い水底から拾い上げるように彼女は目を細める。
「私の知る限りでは、使徒の作製そのものに大きな制限はなかったはずでございます。ただし、管理者が常に無制限に力を振るえたかとなりますと……そこまでは断言できません。旧文明の時代にも、管理者は何にでも直接介入していたわけではありませんでしたから」
「ほう」
アウグストゥスの目がわずかに細くなる。
「それは重要だな。何でもできる存在と、何でもできるように見える存在では、対処法がまるで違う」
アエーシュモーは答えない。
アウグストゥスは立ち上がり、窓辺へ向かった。
三十階から見下ろす街は小さい。
人間も馬車も、ほとんど点にしか見えなかった。
「管理者が俺をこの世界から排除したがっている。それはもう疑いようがない。問題は、理由だ」
ガラスへ片手を触れる。
「俺が人を殺したからか? ならばこの世界の王や軍人はどうなる。魂へ触れたからか? 禁術を使う魔術師など俺以外にもいるだろう。異世界の知識を持ち込んだからだというなら、それこそ妙な話だ。稀人は本来、この世界に変革をもたらす技術と思想の伝来者だったはずだ」
そこでアウグストゥスは振り返った。
口元には、かすかな笑みすら浮かんでいた。
「俺以外の稀人も、世界を変えた。価値観を壊し、技術を持ち込み、権力構造を変えた者もいただろう。それなのに、なぜ俺だ? なぜ管理者は、わざわざ人間を使徒にしてまで俺を追う?」
アエーシュモーは沈黙した。
アウグストゥスは急かさない。
沈黙もまた、回答の一種だからだ。
数秒。
十数秒。
室内に時計の音だけが残る。
「アエーシュモー」
「はい」
「知らないのか。それとも、知っていて俺に言わないのか?」
その問いにも、彼女はすぐには答えなかった。
相変わらず端正な顔。
乱れない姿勢。
従者として非の打ち所のない静けさ。
だからこそ、アウグストゥスには判断できなかった。
本当に答えを持たないのか。
あるいは――持っているから沈黙しているのか。
やがてアエーシュモーは、いつもと変わらぬ声で口を開いた。
「少なくとも、今の私から申し上げられることはございません」
「実に便利な答えだ」
「恐れ入ります」
アウグストゥスは鼻で笑った。
怒ってはいなかった。
むしろ目が楽しそうだった。
分からないものがある。
自分へ何かを隠しているかもしれない者が、すぐそばにいる。
それは彼にとって、不快である以上に魅力的な問題だった。
「まあいい。分からないなら調べればいい。管理者にも規則がある。規則があるものには必ず境界がある。境界があるなら、その外側へ出ればいい」
「旦那様らしいお考えでございます」
「褒めているのか?」
「さて」
そこで会話は途切れた。
結論が出たわけではない。
むしろ問題は増えていた。
魔王領までの経路。
使徒の生成条件。
管理者が直接介入しない理由。
そして、なぜアウグストゥスだけがこれほど執拗に狙われるのか。
二人の会議は、終わったのではない。
答えが出ないまま、夜の中へ持ち越されただけだった。
◇
三十階建てのホテルが放つ光は、夜のカールフォードでも一際目立っていた。
その最上部。
巨大な窓の向こうに、スイートルームの灯りが見える。
道路を一本挟んだ建物の影に、一人の男が立っていた。
エー・アスイズミ。
顔色はひどく悪い。
額には脂汗が浮かび、鼻の下には乾ききらない血の跡が残っている。
右手には、光の剣。
ニンザ・フルハタがアウグストゥスを襲った夜と、まったく同じものだった。
アスイズミの腕は震えていた。
剣先も小刻みに揺れている。
それでも視線だけは、三十階の窓から外れない。
――行け。
頭の中で命令が響く。
白目を剝き意識が混濁しているアスイズミだったが、足は動かなかった。
キイイイイイン――。
アスイズミの顔が苦痛に歪む。
右手が剣を強く握った。
「ぐがっががががうっ」
抵抗らしき言葉にならないうめき声が口から洩れる。
子供の頃。
自分を助けてくれた、名前も知らない男の背中が浮かんだ。
その記憶へしがみつくように、アスイズミは光の剣を握る手へ力を込めた。
そして――。
本人の意思に反して。
右足が、一歩だけ前へ出た。
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