使徒再び
ルシュファリアは相変わらず騒がしかった。
客を呼び込む商人の声。
荷車の車輪が石畳を叩く音。
復興工事の槌音。
路地から流れてくる焼いた肉と香辛料の匂い。
セレスティアはその雑踏の中を、レオヴァンと並んで歩いていた。
目的は宿を取ること。
その後、カールフォード行きの船を確保する。
アウグストゥス・ヴァーミリオンを追うためだ。
その腕で、通信魔法具が何度目かの着信音を鳴らしていた。
だが街の騒音に紛れ、セレスティアはまるで気づかない。
隣を歩いていたレオヴァンの耳だけがぴくりと動いた。
一度。
二度。
それから彼は横目でセレスティアの腕を見た。
セレスティアを見る。
また腕を見る。
「……なんでだ、その顔は」
レオヴァンは顎で腕輪を示した。
「さっきから鳴ってるぞ。俺が言わなかったら、そのままカールフォードまで鳴らし続けるつもりだったのか?」
「ちゃんと聞こえていた。まったく、レオヴァンは耳年まだな」
「嘘つけ。今、初めて腕見ただろ。あと、耳年増の使い方が間違ってるぞ」
セレスティアは答えず、腕輪へ魔力を通した。
通信が接続される。
聞こえてきたのは、気の抜けるほど気怠そうな男の声だった。
『よう。俺だ』
「その名乗り方で誰にでも通じると思っているところは、相変わらずですね、師匠」
『お前には通じただろ。それで十分だ。今どこだ?』
「ルシュファリアです。たった今、到着しました。これから宿を確保して、カールフォード行きの船を――」
『乗るな』
セレスティアの足が止まった。
隣でレオヴァンも目を細める。
通信の向こうでニュー・ハンプシャーは、相変わらず眠そうな声をしていた。
だが、その一言だけは冗談ではなかった。
「……理由を伺っても?」
『理由も何もない。カールフォードへ向かうのは、俺がお前たちと合流してからだ。お前一人ならまだしも、お前とレオヴァンを先に放り込んで、その後から俺が追いつくなんて馬鹿な真似はしない』
「私たちはザレイドで一度、アウグストゥスと交戦しています。能力の一端も把握しました。前回より警戒して――」
『そこだよ』
ニューが遮った。
気怠げな声から、わずかに眠気が消えた。
『一度戦った。生き残った。だから次はもう少し上手くやれる。人間ってのは、そう考え始めた時が一番危ないんだ。戦力の逐次投入は各個撃破されるのが落ちだし、相手がアウグストゥスなら尚更だ。あいつは強いから怖いんじゃない。何をしてくるか分からないくせに、自分が何をしているのかは理解している。それが厄介なんだよ』
セレスティアは何も言わなかった。
脳裏へ、ザレイドでの光景が蘇る。
詠唱もない。
魔法陣もない。
触媒すらない。
それなのに事象だけが発生した。
こちらの魔法へ触れもせず、消し去った。
そして何より――あの老人は、自分たちと戦っている最中でさえ、追い詰められた人間の目をしていなかった。
観察していた。
まるで戦闘そのものを、何かの実験として眺めているように。
セレスティアは知らず、奥歯を噛んでいた。
「確かに……私も、前回と同じ相手だと思って向かうべきではないと考えています。ですが、時間を与えれば逃げられる可能性もあります。私たちが追っていることは、すでに向こうも察しているはずです」
『それでも待て。逃げられるのと、お前が殺されるのを天秤に掛けたら、俺は逃がす方を選ぶ。勘違いするなよ、諦めろって意味じゃねぇ。逃げた先まで追えばいいだけだ。死んだ勇者は追跡できない』
「師匠がそこまで慎重になるのは珍しいですね」
『俺だって相手は選ぶさ。善悪だの罪悪感だので手を止める奴なら読みやすい。怒りで動く奴も、復讐で動く奴もな。けどアウグストゥスは違う。あいつは好奇心と利益が一致したら、多分どこまででも行く。そういう人間に、“ここまではやらないだろう”って期待するな』
セレスティアは黙った。
ニューは普段、必要以上のことを語らない。
それだけに、その警告は重かった。
「……分かりました。師匠の到着を待ちます。それで、ルシュファリアへはいつ頃?」
今度は通信の向こうで沈黙があった。
ニューが頭の中で道程を計算しているのだと、長い付き合いのセレスティアには分かった。
『まあ……一週間ってところだな』
「一週間ですか」
『嫌そうな声出すな。こっちだって一週間歩きたいわけじゃねぇよ』
「別に嫌とは言っていません。ただ、その一週間の間にアウグストゥスが何もしない保証はありません」
『保証なんか最初からない。だから、お前はルシュファリアで情報を集めろ。船の出入り、カールフォード方面の航路、あいつに関係しそうな話。追うなとは言ったが、止まってろとは言ってねぇ』
そこでニューは一拍置いた。
『それとセレスティア。アウグストゥスを見つけても、一人で英雄ごっこはするなよ』
「私は勇者です。英雄ごっこではありません」
『そういうところが心配なんだよ』
通信が切れた。
セレスティアはしばらく腕輪を見つめていた。
隣で最初から最後まで聞いていたレオヴァンが、両手を頭の後ろへ回す。
「ということは、一週間ここに缶詰か」
「情報収集だ。遊びに来たわけではない」
「昼間は情報収集。夕方から飯。空いた時間に街を見る。十分、観光だろ」
セレスティアは歩き出した。
「お前が遊んでいる間にアウグストゥスが逃げたら、師匠へそう報告してやる」
「待て。俺だけ遊んでたことにするな。だいたい、お前だって少しくらい街を見るだろ。四年前から一度も来てないんじゃないのか?」
セレスティアの足が、ほんのわずかに鈍った。
ルシュファリア。
この街には、まだ片づいていないものがある。
ザレイド。
四年前の魔物襲撃。
ビオランテ。
薄桃色の髪をした少女。
アウグストゥス・ヴァーミリオン。
点は増えている。
だが、まだ一本の線にはならない。
「……一週間だ」
セレスティアは前を向いたまま言った。
「師匠が来るまでに、ここで拾えるものを全部拾う。観光する暇が残るかどうかは、その後だ」
「はいはい。勇者様は仕事熱心で結構なことで」
軽口を叩きながら、レオヴァンも後を追った。
二人はまだ知らない。
その頃、同じ街の宿の一室で――。
ニンザ・フルハタを死へ追いやったものが、次の人間を選んでいた。
◇
アスイズミは夢を見ていた。
夢だと理解できたのは、そこに何もなかったからだ。
地面がない。
天井もない。
壁もない。
距離すら曖昧だった。
辺り一面を、白く光る霧だけが覆っている。
ニンザが最後まで手帳へ書き残そうとしていた、あの夢と同じ場所。
もちろん、アスイズミはそのことを知らない。
「……ここは?」
声を出した途端、自分の声まで霧へ吸い込まれた。
足元を見ても、自分が何の上に立っているのか分からない。
それなのに身体は沈まない。
歩こうとしても、進んでいる感覚がない。
「夢……か?」
答えはなかった。
代わりに、頭の中へ音が突き刺さった。
キイイイイイン――。
「ぐっ……!」
アスイズミは両手で頭を抱えた。
耳を塞いでも意味がない。
音は外から聞こえているのではない。
頭蓋骨の内側で直接鳴っている。
キイイイイイン――。
歯を食いしばる。
「なんだ……これ……耳鳴りじゃない……」
また鳴る。
いや。
今度は分かった。
これは音ではない。
何かを伝えようとしている。
意味になる前の言葉。
言葉になる前の命令。
無理やり頭へ押し込まれてくるものを、アスイズミの脳が必死に自分の知る言葉へ置き換えている。
「声……なのか?」
キイイイイイン――。
頭の奥で意味が形を取った。
アスイズミは顔をしかめた。
「……英雄が来るまで……」
息を止める。
「アウグストゥスを、足止めしろ……?」
返答を求める声ではなかった。
相談でもない。
命令だった。
「ふざけるな。僕は治安局の人間だ。誰かも分からない奴に命令されて動くつもりはない。アウグストゥスが犯罪者なら捕まえる。証拠があるなら調べる。ただ、殺せだの足止めしろだの、そんな話で僕を使えると思うな」
言い切った。
途端に耳鳴りが強くなった。
「ぐ、ぁ……!」
膝をつく。
頭の中を握り潰される。
痛みの中で、アスイズミはニンザの手帳を思い出した。
――反論すると痛みを与えてくる。
「まさか……」
あれは妄想ではなかった。
ニンザが壊れていたのではない。
本当に、何かがいた。
そして今。
それが自分の中にいる。
「ニンザさん……あんた、これと……ずっと……」
戦っていたのか。
最後まで。
一人で。
キイイイイイン――。
白い霧の向こうで光が集まり始めた。
無数の粒が一点へ吸い寄せられ、輪郭を作る。
柄。
鍔。
刃。
やがて一本の剣となったそれを見た瞬間、アスイズミは息を呑んだ。
アスイズミには見覚えがなかったが、それはニンザが持っていた剣。
あの光の剣だった。
空中に浮かぶ剣の切っ先が、ゆっくりとアスイズミへ向けられる。
そして頭の中へ、再び命令が響いた。
英雄が到着するまで。
アウグストゥス・ヴァーミリオンを、この街から出すな。
アスイズミは光の剣を睨み返した。
その手が――自分の意思とは無関係に、剣へ向かって伸び始めた。
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