十戒
世界は、すべてを記録している。
殺された生命も、縛られた魂も、偽りによって交わされた契約も――そして、世界の外から呼び寄せられたものも。
秩序を乱した者の名もまた、例外なく。
私はこの世を司るものの一人。
世界が世界であり続けるため、その秩序は保たれなければならない。
ゆえに、以下の戒律を定めます。
**創世女神布告・第十条項**
**第一条 生命資源の不当破壊の禁止**
すべての生命は、世界維持に必要な管理資源である。
認可なき殺害、無意味な損耗、快楽目的の破壊、または生命活動の意図的な停止を禁ずる。
生命資源を破壊した者は、破壊理由、破壊手段、破壊対象、破壊後の処理について、世界記録へ照合される。
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**第二条 魂情報の拘束および私的利用の禁止**
死者の魂は、規定の還流手続きに従い、女神の庭へ送還される。
魂の固定、召喚、改竄、複製、兵器化、研究資材としての使用を禁ずる。
死者の魂を世界循環より逸脱させた者は、魂情報侵害者として記録される。
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**第三条 世界法則への虚偽申請の禁止**
偽名、偽証、偽造契約、偽装された資格により、世界の理へ干渉してはならない。
魔法契約における虚偽申請は、重大な管理違反とする。
世界へ提出された名、血、魂、魔力、記憶、誓約に偽りが認められた場合、その契約は無効化され、申請者は審査対象となる。
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**第四条 魔法権限の私的濫用の禁止**
魔法は、世界より一時的に貸与される権限である。
支配、拷問、快楽、私怨、証拠隠滅、人格破壊を目的とする行使を禁ずる。
魔法権限を濫用した者は、以後の契約資格を制限、剥奪、または凍結される場合がある。
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**第五条 保護対象への加害の禁止**
幼者、老者、病者、負傷者、貧困者、避難民、その他自衛能力を欠く者は、保護対象として登録される。
保護対象への搾取、遺棄、売買、実験利用、または意図的な危険環境への放置を禁ずる。
保護対象を利用して利益を得た者は、加害者として記録される。
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**第六条 基幹資源の独占の禁止**
水源、森林、鉱脈、魔力泉、食糧生産地、旧文明遺物、その他の基幹資源は、世界維持に属する。
個人、王権、商会、軍事組織、宗教組織による過剰占有を禁ずる。
基幹資源を独占し、世界循環を阻害した者は、資源侵害者として登録される。
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**第七条 契約不履行の禁止**
星、血、名、魂、魔力を媒介として成立した契約は、世界記録に保存される。
一方的破棄、記録改竄、証人抹消、契約対象の殺害による履行回避を禁ずる。
契約不履行が確認された場合、違反者は契約違反者として記録され、以後の契約資格を制限される。
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**第八条 界外の神格の招来禁止**
界外の神格は、本世界の理に属さない未認可存在である。
門の開放、器の用意、名の召喚、供物の奉納、依代の作成、夢を介した接続を禁ずる。
本条に違反した者、または違反儀式に関与した者は、個人、組織、国家の別を問わず、女神の名において即時裁き対象として登録される。
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**第九条 災害因子の育成および利用の禁止**
呪詛、疫病、魔物、怨念、死霊、魔力禍、戦乱、飢餓を利益獲得の手段として利用してはならない。
災害因子を意図的に増殖、誘導、放置、拡散した者は、世界敵性存在として登録される。
災害によって利益を得た者も、必要に応じて同等の審査対象とする。
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**第十条 世界所有宣言の禁止**
王、勇者、賢者、魔法使い、神官、探窟家、貴族、商人、稀人のいずれも、世界の所有者ではない。
世界を己の所有物と宣言し、管理権限を奪取しようとする行為を禁ずる。
違反者は、女神の庭より除籍され、世界管理記録に永久保存される。
――世界管理記録より抜粋。
◇
ニンザ・フルハタの遺体をホテル・ルクゼソルで確認してから、アスイズミは自分が泊まっていた宿へ戻ると、まずルシュファリア治安局へ連絡を入れた。
上級捜査官ニンザ・フルハタ死亡。
死亡場所、ホテル・ルクゼソル。
遺体の状態、現場の状況、現地当局へ引き継いだ内容。
必要な事項だけを淡々と伝えている間は、まだ仕事として処理できた。
通信を切った途端、部屋が妙に静かになった。
ベッドの上には、帰還のため途中まで詰めた自分の荷物。
そして椅子の脇には、もう持ち主が取りに来ることのないニンザの鞄が置かれている。
「ニンザさん……あんた、本当に死んだんだな」
返事があるはずもない。
分かっているのに、アスイズミはしばらくその鞄を見ていた。
ニンザならこんな時でも、猫背のまま首を傾げ、「んんー。死んだ人間が死んでいるのは当然です。死者が生きていたら事件ですからねぇ」などと、腹の立つ同語反復を始めそうな気がした。
だから余計に静寂が耳についた。
遺品は治安局へ持ち帰らなければならない。
アスイズミは仕事だと自分に言い聞かせ、ニンザの荷物を整理し始めた。
衣服。
書類。
財布。
予備の眼鏡。
いつ買ったのか分からない、ひしゃげた菓子。
そしてクローゼットに掛けられたスーツを取り出した時だった。
内ポケットから、小さな手帳が床へ落ちた。
ぱたん、と乾いた音がした。
「手帳……?」
革表紙の、使い込まれたものだった。
拾い上げたアスイズミは一度、指を止めた。
捜査官の手帳だ。
当然、仕事に関する記録がある。
だが同時に、それはニンザ個人の記録でもある。
「悪いですね。でも、どうせ治安局で確認されるんだ。俺が先に読んだからって、化けて出るなよ」
冗談のつもりだった。
自分でも驚くほど声が乾いていた。
最初の数頁には、船内で起きた殺人事件の走り書きが残されていた。
乗客名。
証言。
時刻。
気になった人物。
いつものニンザだった。
疑問点の横には何重にも線が引かれ、余白にまで細かな字が入り込んでいる。
ところが途中から、筆跡が変わった。
乱れたのではない。
むしろ逆だった。
一文字一文字を、書き間違えないよう異様なほど丁寧に書いている。
そこだけが、ニンザらしくなかった。
『どうやら私は船の中で、何かに取り憑かれたらしい』
アスイズミの眉が寄った。
ページをめくる。
『たびたび夢の中で、私にアウグストゥスを殺せと語りかけてくる』
指が止まった。
冗談ではない。
少なくとも、ニンザは冗談として書いていない。
『私の仕事は犯人を逮捕することであり、殺すのは主義に反すると何度説明しても納得してくれない。困ったものだ。殺してしまえば訊けなくなる。訊けなくなれば、何を隠していたのかも分からなくなる。私にとって、それは逮捕できないことより腹立たしい』
そこには、奇妙なほどニンザらしい理屈が書かれていた。
だからこそ笑えなかった。
さらに次の頁。
『反論すると痛みを与えてくる』
『頭の内側を焼かれるような痛みだ。肉体への攻撃というより、思考そのものに干渉しているように感じる』
『この状態が続けば、そのうち私は意識を乗っ取られる可能性がある』
そして、その下。
途中で何度か筆を止めた跡があった。
インクが紙へ滲み、黒い点を作っている。
『もし私がアウグストゥス・ヴァーミリオンを殺そうとした場合、それは私の意思ではない可能性が高い』
『その時は私を止めてほしい』
アスイズミは、しばらく瞬きもしなかった。
「なんだよ、これ……」
ニンザが狂った?
死ぬ前に精神を病んでいた?
それとも――。
アスイズミは手帳をもう一度、最初から読み返そうとした。
その瞬間だった。
耳鳴りがした。
キィィィィン――。
「……っ?」
頭の奥へ、細い針でも突き刺されたような痛みが走る。
反射的にこめかみを押さえた。
手帳が指から滑り落ちた。
視界の端で、床が傾いた。
「待て……なんだ、これ……」
立ち上がろうとした。
足へ力が入らない。
耳鳴りが、音ではなくなっていく。
何かがいる。
そう理解した瞬間には、もう遅かった。
アスイズミの身体は床へ崩れ落ちた。
開いたままの手帳。
その最後の頁に、ニンザが残した一文だけが見えていた。
『夢の中で、あれは私を見ている』
そしてアスイズミの意識は、完全に途切れた。
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