管理者
百貨店の屋上へ、血の匂いを纏ったアウグストゥスが降り立った。
ルーシュたちと合流できた。
それ自体は幸運だった。
問題は、その身体だった。
「義父さま……」
ルーシュの声が掠れる。
アウグストゥスの上半身は裸だった。
白かったシャツは戦闘中に使い物にならなくなり、すでに捨てている。
胸から腹にかけて、光剣に裂かれた傷が深く残っていた。
肉は一部再生している。
だが、傷の中心だけが黒ずみ、何度治癒を掛けても完全に塞がらない。
アウグストゥスは指で傷口を押し、眉間へ皺を寄せた。
「妙だな。肉体そのものは再生できるのに、傷だけがこちらの治療を拒んでいる」
指先についた血を見てから、アエーシュモーへ目を向ける。
「あの光剣に呪いでも付与されていたか。アエーシュモー、お前なら治せるか?」
アエーシュモーは答えず、傷口へ顔を近づけた。
指で触れない。
僅かに目を細め、傷の周囲へ残る異質な力を読み取っている。
ルーシュはその横で立ち尽くしていた。
元々血色の悪い顔が、さらに青くなっている。
「義父さま、さっき……心臓まで斬られていたでしょう? 私、見えてたの。あれで何ともないなんて言わないで。義父さまはいつも、自分が死なないからって、身体を物みたいに使うんだから」
「物ではない。交換の利く部品に近い」
「そういうところを言ってるの!」
ルーシュの声が強くなった。
ギルエルが慌てて肩へ手を置く。
「ルーシュ様、旦那様はこういう人なのです。今さら普通の人間みたいに身体を大事にしろと言っても――」
「ギルエル、お前はどちらの味方なのだ」
「もちろん旦那様とルーシュ様の両方なのです!」
「便利な答えだな」
アウグストゥスが小さく息を吐いた。
アエーシュモーがようやく口を開く。
「治せるかと問われれば、治せます」
いつもの平坦な声だった。
「ただし、この傷は通常の治癒では剥がせない因果の痕跡を帯びています。私の力で上書きすることは可能ですが、その分、対価が発生します」
「どの程度だ」
「今回は軽い方でしょう」
アエーシュモーは傷から目を離さない。
「一か月ほど、旦那様から幸運が消えます。その間は、何をするにも僅かずつ不運へ傾く。命を失うほどではないでしょうが、気持ちよく過ごせる三日間ではないでしょうね」
アウグストゥスは露骨に嫌そうな顔をした。
「不運とは、具体的に何が起きる」
「そこまで私へ聞かれても困ります。歩いていて段差に躓き、頭を打つかもしれません。窓を開けた瞬間に鳥の糞が落ちてくるかもしれませんし、買った料理だけ妙に不味いという程度で済むかもしれません」
そこでアエーシュモーは僅かに口元を上げる。
「あるいは、逃亡中の旦那様が偶然、追跡者と同じ宿へ泊まる程度の不運もあり得ます」
「縁起でもない例を出すな」
「不運ですので」
「お前が楽しんでいるように聞こえるのだが?」
「お気のせいでしょう」
即答だった。
アウグストゥスは眉間を指で揉んだ。
アエーシュモーへ願いを頼む時、支払う対価を決めるのは彼女ではない。
複雑に絡み合う因果の結果。
交渉して値切れるものではない。
それを知っている以上、選択肢は二つしかない。
傷を抱えたまま逃げるか。
一か月分の幸運を捨てるか。
「……分かった。やってくれ。ただし、治療が終わった後で『実はもう一つ対価がありました』などと言い出したら、お前を先に鳥の下へ立たせるからな」
「その時は傘をご用意いたします」
アエーシュモーは恭しく礼をした。
「では、失礼いたします」
両手をアウグストゥスの傷へ向ける。
黒い魔力が指先から流れ出し、幾何学模様の魔法陣を形成した。
禍々しい気配が屋上を這う。
魔法陣から漏れた黒い光が傷口へ触れた瞬間、抉れていた肉が異常な速度で増殖を始めた。
筋肉が繋がる。
皮膚が這う。
黒ずんでいた傷痕が押し出されるように消えていく。
数秒。
それだけで、深かった傷は完全に塞がった。
アウグストゥスは胸へ指を当てた。
押す。
捻る。
呼吸を深くする。
異常がないことを確認してから、何もない空間へ指を差し入れた。
空間が僅かに歪む。
その中から新しいシャツと外套を引き出し、手早く身につける。
その瞬間、ルーシュが駆け寄った。
「義父さま、本当に大丈夫なの? 傷が消えたからって、それで全部元通りなんて信用できないわ。さっきまで心臓も止まってたんでしょう?」
「ああ。今は動いている」
「そういう答え方、嫌い」
ルーシュはアウグストゥスの胸元を掴んだ。
「私は義父さまみたいに、自分の身体を何回でも直せる道具だなんて思えない。義父さまが死なないことと、私が義父さまに死んでほしくないことは別なの」
アウグストゥスの目が、ほんの一瞬だけ止まった。
だが、すぐにいつもの調子へ戻る。
「分かった。少なくとも今日中は心臓を止めないよう努力しよう」
「今日だけなの?」
「冗談だ」
「義父さま!」
ギルエルが「まあまあ」と間へ入り、どうにかルーシュを宥める。
アウグストゥスは、その隙にアエーシュモーへ視線を戻した。
「それより、確認したいことがある」
声の温度が変わる。
「あの光剣についてだ。お前、何か知っているな」
アエーシュモーは表情を変えない。
「何を根拠に?」
「先ほどから、何か言いたそうにしているぞ」
アウグストゥスは正面から彼女を見る。
「俺が光剣の話を出した時、お前は驚かなかった。傷に残る異質な力を見ても、確認より先に納得していた。何より、あれほどの力を見て『何でしょうね』と首を傾げるお前ではない」
アエーシュモーの口元が僅かに上がった。
「旦那様は負傷していても、余計なところだけはよく見ておられますね」
「褒め言葉として受け取っておこう。さっさと話せ」
短い沈黙。
アエーシュモーは空へ目を向けた。
「あの光剣は、恐らくこの世界の管理者が捜査官へ授けたものです」
アウグストゥスの顔から笑みが消えた。
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