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異世界倒叙サスペンス~サイコパス男爵とシリアルキラー令嬢~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
2部

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新たな英雄

 朝の住宅街に、焼きたてのパンの匂いが流れていた。


 どこの国とも知れない、小さな街。


 住宅の隙間へ押し込まれるように建ったパン屋では、竈の火が赤々と燃え、焼き上がったパンが次々と棚へ並べられている。


 その窓際で、赤い髪を二つのお下げにした少女が、仕事の手を止めて外を見ていた。


「何をぼーっとしてるんだい、アルトピーノ。パンを焦がしたら給金から引くよ」


 奥から女将の声が飛んでくる。


 アルトピーノが振り返るより早く、女将はにやりと笑った。


「ああ、さては好きな男でも店の前を通ったのかい? あんたもそんな歳になったってことかねぇ」


「違うわよ、女将さん。そんな人いないもの」


 アルトピーノは苦笑し、もう一度窓の外へ目を向けた。


「ただ……昔のことを思い出してたの。何で今さら思い出したのか、自分でも分からないけど」


「昔?」


「この街へ来る前。ルシュファリアに住んでた頃の話」


 アルトピーノの指が、窓枠へ触れる。


「あの頃、父さんが借金を返せなくなってね。借金取りが家まで来て、父さんを殴ってたの。私、怖くなって外へ逃げたんだけど……そこで、変な巡察官のお兄さんに会った」


 女将は手を止めず、パン生地をこねながら聞いている。


「変なって、どんな?」


「猫背で、喋り方も変で……何ていうか、やる気なさそうで。私が泣きながら説明しても、『んんー、それは困りましたねぇ』なんて言うのよ。子供心に、この人、本当に助けてくれるのかなって思った」


 アルトピーノの口元に、小さな笑みが浮かんだ。


「でも、家まで来てくれた。借金取りに帰れって言っても聞かないから、玄関に座り込んでさ。父さんへ近づこうとするたび、『今のは見ましたよぉ。次に手を出したら、今度は言い逃れできませんからねぇ』って」


「変な奴だね」


「うん。本当に変な人だった」


 笑みが少しずつ消えていく。


「結局、借金は返せなかった。私たちは夜逃げしたし、父さんとも……まあ、その後いろいろあった。でも、あの日だけは、その人がいたから父さんはそれ以上殴られなかった」


 アルトピーノは目を細めた。


 記憶の中の男の顔は、もう輪郭が曖昧だった。


 名前も知らない。


 あの後、一度も会っていない。


「そういえば私……ちゃんとお礼、言えてなかったかも」


「助けてもらった時に、言わなかったのかい?」


「言った気はする。でも、子供だったし、怖くて泣いてたし……何て言ったか覚えてないの」


 アルトピーノは胸元へ手を置いた。


「だからかな。さっき急に、あの人に呼ばれた気がしたの。変でしょう? ずっと忘れてたのに、急に顔を思い出して……」


 そこで言葉が止まった。


 頬へ、温かいものが伝う。


 アルトピーノは自分の指で触れ、それが涙だと知って驚いた。


「……何で?」


 女将が眉を寄せる。


「アルトピーノ?」


「分からない。別に悲しいことを思い出したわけじゃないのに」


 涙は止まらなかった。


 アルトピーノは窓の外を見たまま、誰へともなく呟いた。


「もし、まだどこかで巡察官を続けてるなら……今度会えた時は、ちゃんと言いたいな」


 少し笑う。


「ありがとうって」


          ◇


 カールフォードから遠く離れた外洋。


 人の目も、鳥の目も届かぬ高空に、白い光の球体が浮かんでいた。


 それは、失敗を理解していた。


 使役した男――ニンザ・フルハタは敗北した。


 契約者を排除するには至らなかった。


 球体に人間の感情はない。


 悔しさも、怒りもない。


 ただ、結果を評価し、修正する。


 ニンザという素材は、英雄として不十分だった。


 精神の執着は強い。


 観察力もある。


 しかし肉体の器が弱く、光剣による補正を続けても、契約者の異常性を完全には上回れなかった。


 次は、もっと強い素材が必要になる。


 世界の歪みを矯正する。


 契約者を排除する。


 その目的を果たすためなら、選ぶ人間に意味はない。


 必要なのは、勝てる英雄。


 球体の意識が、世界へ広がった。


 海。


 新大陸。


 旧大陸。


 無数の人間の可能性を、光が静かになぞっていく。


 そして。


 一つの存在へ、意識が止まった。


 旧大陸の内陸部から、カールフォードを目指して移動している男。


 擦り切れた革外套。


 二丁の拳銃。


 異世界の映像娯楽でいう、西部劇のガンマンを思わせる姿。


 十三賢人会議、第七席。


 ニュー・ハンプシャー。


 球体は、次の英雄候補を見つけた。


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