新たな英雄
朝の住宅街に、焼きたてのパンの匂いが流れていた。
どこの国とも知れない、小さな街。
住宅の隙間へ押し込まれるように建ったパン屋では、竈の火が赤々と燃え、焼き上がったパンが次々と棚へ並べられている。
その窓際で、赤い髪を二つのお下げにした少女が、仕事の手を止めて外を見ていた。
「何をぼーっとしてるんだい、アルトピーノ。パンを焦がしたら給金から引くよ」
奥から女将の声が飛んでくる。
アルトピーノが振り返るより早く、女将はにやりと笑った。
「ああ、さては好きな男でも店の前を通ったのかい? あんたもそんな歳になったってことかねぇ」
「違うわよ、女将さん。そんな人いないもの」
アルトピーノは苦笑し、もう一度窓の外へ目を向けた。
「ただ……昔のことを思い出してたの。何で今さら思い出したのか、自分でも分からないけど」
「昔?」
「この街へ来る前。ルシュファリアに住んでた頃の話」
アルトピーノの指が、窓枠へ触れる。
「あの頃、父さんが借金を返せなくなってね。借金取りが家まで来て、父さんを殴ってたの。私、怖くなって外へ逃げたんだけど……そこで、変な巡察官のお兄さんに会った」
女将は手を止めず、パン生地をこねながら聞いている。
「変なって、どんな?」
「猫背で、喋り方も変で……何ていうか、やる気なさそうで。私が泣きながら説明しても、『んんー、それは困りましたねぇ』なんて言うのよ。子供心に、この人、本当に助けてくれるのかなって思った」
アルトピーノの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「でも、家まで来てくれた。借金取りに帰れって言っても聞かないから、玄関に座り込んでさ。父さんへ近づこうとするたび、『今のは見ましたよぉ。次に手を出したら、今度は言い逃れできませんからねぇ』って」
「変な奴だね」
「うん。本当に変な人だった」
笑みが少しずつ消えていく。
「結局、借金は返せなかった。私たちは夜逃げしたし、父さんとも……まあ、その後いろいろあった。でも、あの日だけは、その人がいたから父さんはそれ以上殴られなかった」
アルトピーノは目を細めた。
記憶の中の男の顔は、もう輪郭が曖昧だった。
名前も知らない。
あの後、一度も会っていない。
「そういえば私……ちゃんとお礼、言えてなかったかも」
「助けてもらった時に、言わなかったのかい?」
「言った気はする。でも、子供だったし、怖くて泣いてたし……何て言ったか覚えてないの」
アルトピーノは胸元へ手を置いた。
「だからかな。さっき急に、あの人に呼ばれた気がしたの。変でしょう? ずっと忘れてたのに、急に顔を思い出して……」
そこで言葉が止まった。
頬へ、温かいものが伝う。
アルトピーノは自分の指で触れ、それが涙だと知って驚いた。
「……何で?」
女将が眉を寄せる。
「アルトピーノ?」
「分からない。別に悲しいことを思い出したわけじゃないのに」
涙は止まらなかった。
アルトピーノは窓の外を見たまま、誰へともなく呟いた。
「もし、まだどこかで巡察官を続けてるなら……今度会えた時は、ちゃんと言いたいな」
少し笑う。
「ありがとうって」
◇
カールフォードから遠く離れた外洋。
人の目も、鳥の目も届かぬ高空に、白い光の球体が浮かんでいた。
それは、失敗を理解していた。
使役した男――ニンザ・フルハタは敗北した。
契約者を排除するには至らなかった。
球体に人間の感情はない。
悔しさも、怒りもない。
ただ、結果を評価し、修正する。
ニンザという素材は、英雄として不十分だった。
精神の執着は強い。
観察力もある。
しかし肉体の器が弱く、光剣による補正を続けても、契約者の異常性を完全には上回れなかった。
次は、もっと強い素材が必要になる。
世界の歪みを矯正する。
契約者を排除する。
その目的を果たすためなら、選ぶ人間に意味はない。
必要なのは、勝てる英雄。
球体の意識が、世界へ広がった。
海。
新大陸。
旧大陸。
無数の人間の可能性を、光が静かになぞっていく。
そして。
一つの存在へ、意識が止まった。
旧大陸の内陸部から、カールフォードを目指して移動している男。
擦り切れた革外套。
二丁の拳銃。
異世界の映像娯楽でいう、西部劇のガンマンを思わせる姿。
十三賢人会議、第七席。
ニュー・ハンプシャー。
球体は、次の英雄候補を見つけた。




