空中演舞
豪華客船の二等船室では、昼間だというのに薄いカーテンが引かれていた。
ルシュファリアを発ち、カールフォードへ向かう船旅も数日目。船内には劇場も賭場も食堂もあるが、毎日同じ顔ぶれ、同じ海、同じ娯楽となれば、さすがに飽きてくる。
ニンザ・フルハタは窓際の椅子へ猫背の身体を沈め、向かいに座る男を見ていた。
「また貴方ですかぁ」
机の上では、録音水晶が青白く明滅している。
その横でナニレスク・クスープが、当然の顔をして手帳を開いていた。
「まあ、船内も娯楽が豊富とはいえ、何日も同じことをしていれば飽きますからねぇ。貴方の相手も、それなりに気晴らしにはなりますが」
「それは光栄です」
「褒めてはいませんよぉ」
ニンザは頬杖をつく。
本人としては世間話のつもりだった。
だが、ナニレスクの方は一字一句を記録する気満々である。
「それで……何でしたっけ」
「ニンザさんには、捜査官としての正義感があるのか、です」
「ああ、それでしたねぇ」
ニンザは少し考え、天井へ目を向けた。
「正義感……というと、少し違いますねぇ」
「違う?」
「ええ。私は正義という言葉を、あまり信用していませんので」
ナニレスクのペンが動く。
「ですが、治安局で働き始めた頃の話なら、一つ覚えていますよぉ」
ニンザは椅子の背へ身体を預けた。
「まだ捜査官ではなく、巡察官だった頃です。街を歩いていたら、小さな女の子が道端で泣いていましてねぇ」
「迷子ですか?」
「最初はそう思いました」
ニンザは口元を緩める。
「ですが、話を聞いてみると違った。家で父親が借金取りに殴られている、と言うんです」
「借金の取り立て?」
「ええ。父親が金を返せず、借金取りが家に押しかけていたらしい。女の子は怖くなって外へ逃げてきたそうですぅ」
その時の情景を探すように、ニンザの目が少し細くなる。
「まあ、巡察官として見つけた以上、放っておくわけにもいきません。家まで行きましてねぇ」
「どうなりました?」
「借金取りは三人いました。父親は床へ転がされて、鼻から血を流していた」
「逮捕したのですか?」
「いいえ」
ニンザは即答した。
「当時の私はただの巡察官ですし、殴った現場も見ていない。それに、相手も『転んだだけだ』と言い張りましてねぇ」
「それでは?」
「今日は帰れ、と言いました」
「それだけで帰ったんですか?」
「帰りませんでしたよぉ」
ニンザは笑う。
「ですので、私がその家の玄関へ座り込みました」
ナニレスクが顔を上げる。
「玄関に?」
「ええ。借金取りが父親へ近づくたび、『それ以上やったら私が見ましたからねぇ』と声を掛ける。殴ろうとすれば止める。私がいる限り、好きにはできません」
「随分と面倒なやり方ですね」
「新人でしたからぁ」
ニンザは肩をすくめた。
「結局、三人とも散々悪態をついて帰りました」
「それで終わりですか?」
「いいえ」
ニンザは少しだけ視線を落とした。
「帰り際、女の子が私の袖を掴みましてねぇ」
声の調子が、ほんの少し柔らかくなる。
「『ありがとう、お兄ちゃん』って」
ナニレスクのペン先が、一瞬止まった。
「それが嬉しかった?」
「ええ」
ニンザは素直に答えた。
「私の捜査官人生でも数少ない、いい思い出ですぅ」
そこで、ふふ、と小さく笑う。
「まあ、その一家は結局借金を返せず、その数日後には夜逃げしましたけどねぇ」
「……台無しですね」
「現実なんて、そんなものでしょう」
ニンザは机の上の録音水晶を指で軽く叩いた。
「借金そのものが消えるわけではない。私が一晩守ったところで、その家族の人生を救えたわけでもありません」
「それでも覚えている?」
「覚えていますよぉ」
ニンザは窓の外へ目を向けた。
「たった一晩です。問題も解決していない。女の子がその後どうなったかも知らない」
海面へ白い光が散っている。
「ですが、あの子が私へ言った『ありがとう』だけは、まだ残っています」
「それを、正義感とは呼ばない?」
「呼びません」
ニンザは笑った。
「正義なんて大層なものではありませんよぉ」
「では?」
「小さな誇りです」
猫背の男は、録音水晶へ向き直る。
「誰か一人くらい、私がいて助かったと思ってくれた。捜査官を続ける理由なんて、その程度で十分でしょう?」
――ニンザ・フルハタ取材記録より抜粋。
◇
カールフォードの空には、まだ昼と呼ぶには少し早い青が広がっていた。
その空を、二つの影が切り裂いている。
ガキィン!
甲高い金属音。
刃と刃がぶつかり、火花にも似た光が空へ散った。
直後、二つの影は弾かれるように距離を取る。
だが、離れたのは一瞬だけだった。
片方が軌道を変えれば、もう片方も食らいつく。
上へ。
下へ。
横へ。
互いの死角へ回り込みながら、螺旋を描いてホテル・ルクゼソルの上空を飛び交っていた。
「いや……どうするべきかねぇ」
その戦いを地上から眺める男がいた。
浅黒く焼けた肌。
金色の髪。
鍛え上げられた上半身には、相変わらずろくな服も着ていない。
例の新聞を見てホテルまで来た青年だった。
「ナーガリアの婆さんならともかく、俺は空飛ぶの苦手なんだよなぁ」
青年は首を鳴らしながら、空を見上げた。
助太刀するべき相手は分かっている。
白髪の老人。
アウグストゥス。
だが、二人の空中戦は速すぎた。
無理に割り込めば、援護どころかアウグストゥスの邪魔になる。
「下手に撃って陛下に当てたら、俺の首が飛ぶし」
青年は両手を腰へ当てた。
「いや、物理的に」
仕方なく観戦を決め込む。
もっとも、いつでも飛び出せるよう、目だけは一瞬たりとも戦場から外していなかった。
◇
アウグストゥスは、ニンザの扱いに困っていた。
殺すだけなら難しくない。
問題は、殺した後だ。
白目を剥き、泡を吹き、明らかに正常ではない。
本人の意思で襲っているとは考えにくかった。
精神支配。
洗脳。
憑依。
術式の種類は判別できていない。
だが、そこは本質ではない。
問題は、誰がニンザを操っているかだった。
情報がない。
攻撃者の目的だけなら、ほぼ間違いなく自分だ。
しかし術者が誰なのかは、候補が多すぎる。
過去に敵へ回した相手。
勇者ギルド。
星十字教会。
名前すら思い出せない連中まで含めれば、数える気にもならない。
ニンザを殺せば、術者へ繋がる唯一の糸を自分から切ることになる。
「厄介ですな!」
光剣が横薙ぎに振るわれる。
アウグストゥスは刀を斜めに立て、その軌道を逸らした。
刃が空を裂き、離れた建物の屋根が一部吹き飛ぶ。
威力も異常。
剣技も異常。
本人は「腕力にも剣にも自信がない」と言っていた。
少なくとも、以前のニンザ本人にこれほどの身体能力はない。
今の体捌きは、達人と呼んで差し支えなかった。
(光の剣が能力を補強しているのか)
(あるいは、操っている側が身体の使い方そのものを上書きしている)
ニンザが空中で身体を捻る。
片足を軸に、さらに一閃。
アウグストゥスは刀の鍔で受け、互いの身体が再び弾かれた。
(生け捕りにしたい)
(だが、多少傷つけずに済ませるのは難しいか)
アウグストゥスの視線が、ニンザの右手へ向く。
光剣。
まずはあれを封じる必要がある。




