ラローレの実家
職人街の裏路地には、昼だというのに陽が届いていなかった。
高い建物に挟まれた狭い道は湿り、石畳の隙間には黒い苔がこびりついている。軒先から落ちた雫が、一定の間隔で水溜まりを叩いていた。
タヌーサ・ナザロから教えられた住所は、その路地の最奥にあった。
壁の漆喰は剥がれ、窓は内側から板で塞がれている。人が暮らしている家というより、捨てられた建物が辛うじて形を保っているだけに見えた。
「ここか」
レオヴァンが住所を書いた紙と、扉の上に打ちつけられた番号を見比べる。
「間違いないな」
セレスティアは返事を待たず、扉を叩いた。
「ラローレの父君。おられるか」
反応はない。
もう一度、先ほどより強く叩く。
家の奥から人が動く音も、返事も聞こえなかった。
「留守じゃねえのか?」
「窓が閉じられている。中にいるかもしれん」
「だからって勝手に入るなよ」
レオヴァンが言い終える前に、セレスティアはドアノブへ手を掛けていた。
捻る。
鍵は掛かっていなかった。
二人は顔を見合わせる。
「入るぞ」
「待て。お前が言うな」
レオヴァンが先に扉を押し開いた。
「入るぜ。誰かいるなら返事してくれ」
湿った空気と、酒と埃が混じった臭いが流れ出してくる。
レオヴァンが中へ入り、セレスティアも後へ続いた。
玄関を入ると、すぐに狭いダイニングキッチンがあった。
流しには洗われていない皿が積まれ、卓上には固くなったパンの欠片が残されている。棚の戸は半分開き、床には空の酒瓶が何本も転がっていた。
人が暮らしてはいる。
ただし、暮らそうとしてはいない。
部屋の奥には、もう一つ扉があった。
「親父さん」
レオヴァンが声を掛けながら開ける。
そこに男がいた。
小さな卓と、それに対になる椅子が一脚。
男は椅子へ腰掛け、酒瓶を片腕で抱えたまま、卓へ顔を伏せていた。
髪も髭も伸び放題で、着ている服には酒と食べ物の染みが幾重にも重なっている。左腕は力なく身体の横へ垂れ、右手だけが酒瓶の首を掴んでいた。
寝ているのかと思ったが、セレスティアが一歩近づくと、男の口が動いた。
「……誰だ、お前ら」
顔は上げない。
酒で焼けた低い声だけが、卓の上を這った。
「ラローレの父君ですね」
セレスティアが尋ねる。
その名を聞いた瞬間、酒瓶を握る指が動いた。
だが、男はすぐに吐き捨てる。
「知らねえな」
「俺たちは勇者だ」
レオヴァンが答えた。
「四年前に起きた魔物の襲撃事件を調べている。事件の前、娘さんが広場で旅の行商人の子供と親しくなったと聞いた」
「知らねえって言ってんだろ」
男はようやく顔を上げた。
目は赤く濁り、頬はこけている。酒に溺れている人間の顔だったが、それ以上に、生きることへ飽ききった顔だった。
「俺に娘なんていねえ」
「ラローレという娘がいたはずだ」
「いねえよ」
男の声が低くなる。
「もう、どこにもいねえ。だったら最初からいなかったのと同じだろうが」
右手の酒瓶を持ち上げる。
底に残っていた僅かな酒を口へ流し込んだが、その顔に美味そうな色は一つも浮かばなかった。
「分かったら帰れ。勇者様が何を調べてるのか知らねえが、もうどうでもいいことだ」
セレスティアは男の左腕を見た。
肩から先が、身体に付属しているだけで、まるで動いていない。
「娘さんが亡くなられてから、ずっとそのように?」
男の眉が歪んだ。
「だったら何だ」
「酒を飲み続け、食事も取らず、この家で死ぬのを待っているのですか」
「説教しに来たのか?」
男は卓を殴ろうとした。
だが酒で力が入らないのか、拳は鈍い音を立てただけだった。
「娘が悲しむとでも言いてえのか。馬鹿を言うな」
左腕へ視線を落とす。
「俺は職人だった。家具を作ってた。腕一本で、女房と娘を食わせてたんだ」
唇が歪んだ。
「十年前、この左腕が動かなくなった。急にな。医者に診せても治らねえ。職人が腕を失えば、ただの穀潰しだ」
「それからラローレが?」
「あいつが働いた」
酒瓶を握る指へ力が入る。
「まだ小さかったのに、広場でホットドッグを売って、家賃を払って、俺に飯を食わせた。女房が死んでからは、あいつ一人に全部背負わせた」
笑った。
声だけが笑い、顔は崩れていた。
「今頃、天国で喜んでるさ。役立たずの親父の世話から、やっと解放されたんだからな」
「気持ちは分かるが、親父さんよ」
レオヴァンが口を挟んだ。
「娘のことを思うなら、もう少しまともに生きてやったらどうだ」
男の目がレオヴァンへ向いた。
「今のあんたを見たら、亡くなった娘さんだって――」
「うるせえ!」
男が酒瓶を卓へ叩きつけた。
瓶は割れなかったが、底に残っていた酒が飛び散った。
「お前らに何が分かる!」
椅子を蹴るように立ち上がろうとし、足をもつれさせる。卓へ右手をつき、どうにか身体を支えた。
「女房が死ぬ前に約束したんだ。ラローレだけは幸せにするって。俺が何とかするって!」
唾を飛ばし、喉を震わせる。
「何が何とかするだ。あいつに食わせてもらって、あいつに世話されて、最後はあいつまで死なせた!」
「貴方が殺したわけではない」
「同じだ!」
男の拳が、自分の胸を何度も叩いた。
「役立たずじゃなきゃ、あの日も広場に行かせなかった! 俺が働けてりゃ、あいつはあんな所で屋台なんか出してなかった!」
身体から力が抜け、椅子へ崩れ落ちた。
「死んで詫びてえよ」
声が急に小さくなる。
「地獄に落ちても構わねえ。女房と娘に、土下座の一つでもしてえ」
両目から涙が落ちた。
「なのに、死ぬのが怖えんだ」
酒瓶を抱え、卓へ額を押しつける。
「死ぬ勇気もねえ。生き直す根性もねえ。毎日飲んで、眠って、起きたらまた娘がいないことを思い出す」
男は声を殺せず、その場で泣き崩れた。
レオヴァンは何も言えなくなった。
先ほどの説教を悔いたのか、僅かに視線を伏せる。
セレスティアは、泣く男の前へ進んだ。
「ラローレを事件に巻き込んだ者を、捕まえられるかもしれません」
男の泣き声が止まった。
顔がゆっくりと上がる。
「……今、何て言った?」
「あの事件は、ただ魔物が偶然現れた災害ではない可能性があります」
「犯人が……いるのか?」
男の瞳に、僅かな光が戻る。
「魔物の襲撃に、犯人がいるって言うのか」
「まだ断定はできません」
セレスティアは曖昧に濁さなかった。
「だが、事件の前に広場へいた者の中に、事件へ関与した可能性がある男がいる。私たちは、その男を追っています」
男の胸が大きく上下する。
四年間、彼は怒りを向ける相手すら持てなかった。
魔物へ怒鳴っても返事はない。
街を責めても娘は戻らない。
自分を責め続けるしかなく、酒で意識を潰しながら、同じ場所を彷徨ってきた。
そこへ初めて、追うべき人間がいるかもしれないと告げられた。
「協力してください」
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