シャネレの五番
リビングへ通されても、ベガの口は重かった。
三人が座っても、彼女だけは立ったままでいる。
「先に申し上げておきます」
ベガは膝の前で両手を重ねた。
「私が知っていることは、皆様が考えているほど多くはございません」
「ええ。知っている範囲だけで構いませんよぉ」
ニンザが頷いた。
ベガは一度、寝室の扉へ目を向けた。
誰もいないと分かっていても、主人が聞いていないか確かめずにはいられないらしい。
「旦那様は時折、仕事だと言って夜に外出なさることがありました」
「頻度は?」
「月に二度か、三度ほどです。多い時は、それ以上」
「帰宅は?」
「日付が変わってからです」
ベガは言葉を選びながら続けた。
「ただ……お帰りになると、服から香水の匂いがしました」
「奥様が使っているものではない?」
「はい。ジーナ様は香りの強いものを好まれませんので」
「銘柄は分かりますかな?」
アウグストゥスが尋ねた。
ベガの唇が開きかけ、止まる。
「シャネレの五番だった、とか?」
その名を聞いた瞬間、ベガが顔を上げた。
ニンザはアウグストゥスへ目を向ける。
「シャネレの五番?」
「有名な香水ですよ」
シャネレとは、異世界から現れた稀人が興した服飾ブランドである。
衣服だけでなく、装飾品や化粧品、香水まで手広く扱い、貴族や富裕層の間では知らぬ者がいない。
「マリーゼ・モンロー嬢が以前、記者から『眠る時には何を身につけているのか』と尋ねられましてね」
アウグストゥスはナニレスクを一瞥した。
「彼女は、シャネレの五番を数滴。それ以外は何も身につけずに眠る、と答えたそうです」
「随分と記憶に残る答えですねぇ」
「だからこそ、宣伝になる」
ニンザがベガへ向き直った。
「旦那様の服からした香りは、シャネレの五番でしたかぁ?」
ベガはしばらく俯いていた。
やがて、ほんのわずかに頷く。
「……はい」
ナニレスクのペンが、紙の上を勢いよく走った。
「それを、ジーナ夫人は?」
「ご存じありません」
「話さなかった?」
「話せませんでした」
ベガの声が掠れた。
「ニーナ様もおられます。家を壊すかもしれないことを、私の口から奥様へ申し上げることは……」
「主人の服へ移った香水だけなら、断定はできませんからな」
アウグストゥスは言った。
「ですが、マリーゼ嬢が死んだ今となっては別です」
その時、玄関側から鍵の回る音がした。
ベガの顔から血の気が引く。
扉が開き、セギルが妻子を連れて戻ってきた。
「何をしている」
リビングにいる三人を見た瞬間、セギルの足が止まった。
次に、青ざめたベガを見る。
テーブルの上にはナニレスクの手帳と録音水晶。
隠しようがなかった。
「どういうことだ!」
セギルの怒声に、ニーナが身を竦めた。
「人の部屋で、勝手に何をしている! ベガ、お前は何を話した!」
「旦那様、私は……」
「黙れ!」
セギルがベガへ詰め寄ろうとする。
ニンザがその前へ滑り込んだ。
「セギルさん」
「何だ!」
「少し、別室でお話をしましょうかぁ」
「もう話すことなどない! 朝から何度同じことを聞けば気が済む!」
セギルはニンザの肩を押し退けようとした。
だが、ニンザは動かない。
背伸びするように顔を寄せ、セギルの耳元へ口を近づけた。
「シャネレの五番ですぅ」
セギルの手が止まった。
ニンザは声を潜めたまま続ける。
「奥様とお嬢さんの前で、続きを聞きましょうか?」
セギルの顔から、怒りだけが抜け落ちた。
口を開いても声が出ない。
「それとも、私と二人で静かに話しますぅ?」
セギルの肩が下がった。
握っていた拳がほどける。
「……分かった」
「では、こちらへ」
ニンザが扉を示す。
セギルは妻の顔を見なかった。
ニーナにも、ベガにも目を向けず、肩を落としたまま部屋を出る。
ジーナは何かを察した。
夫を呼び止めることも、追いかけることもしなかった。
ただ娘を強く抱き寄せ、その髪へ顔を埋めた。
「お母様……?」
ニーナの声へ返事はない。
ジーナの肩が震え始める。
アウグストゥスはその姿を静かに見ていた。
殺人の真相より先に、この家族は終わった。
◇
別室へ移されたセギルは、間もなく自白した。
マリーゼ・モンローと知り合ったのは、彼女が主演を務める舞台へ出資した時だった。
出資者と主演女優。
最初は、ただの仕事上の付き合いだった。
だが、公演後の食事、贈り物、密会を重ねるうちに、二人は関係を持つようになった。
それが一年ほど前から変わり始めた。
マリーゼは、妻と別れて自分と結婚するようセギルへ迫った。
セギルは離婚すると約束し続けた。
もう少し待て。
今は時期が悪い。
仕事が落ち着いたら話す。
そう言って先延ばしにした。
マリーゼは華やかな女だった。
同時に、金遣いが荒いことでも有名だった。
衣装、宝石、酒、賭け事。
女優として稼いではいたが、使う額も大きい。
愛人として抱える分にはいい。
だが妻にするとなれば話は別だった。
セギルはジーナを捨てる気などなかった。
少なくとも、マリーゼのために家も娘も失うつもりはなかった。
豪華客船で新大陸へ向かうことを、マリーゼはどこからか知った。
妻子と共に船へ乗る。
逃げ場のない海の上で、ジーナへすべてを暴露する。
離婚を拒めない状況へ追い込む。
それが、マリーゼの計画だった。
彼女はセギルへ知らせず、同じ船へ乗り込んだ。
一〇一〇五号室へセギルを呼び出し、今から妻へ話すと告げた。
言い争いになった。
マリーゼが部屋を出ようとした。
止めるために腕を掴み、突き飛ばされ、テーブルへ腰を打ちつけた。
その手元に、果物ナイフがあった。
セギルは妻を守ろうとしたのではない。
娘を守ろうとしたのでもない。
自分の家と財産と体面を守るため、マリーゼの腹へ刃を突き立てた。
そして血まみれになった後で、存在しない男を作り上げた。
第一発見者を装い、逃走犯がいると叫べば、自分は助けようとした善良な乗客になれる。
そう考えた。
だが、血の付き方も、逃走経路も、香水の匂いも、彼の嘘を守ってはくれなかった。
こうして、大女優マリー・モンロー殺害事件は決着した。
◇
豪華客船が新大陸の港町カールフォードへ到着すると、アウグストゥスとニンザを待っていたのは、海上警備隊ではなかった。
記者たちだった。
下船用の桟橋を降りた瞬間、何十もの撮影用魔道具が一斉に光る。
白い閃光が視界を埋め、怒鳴り声に近い質問が四方から飛んできた。
「マリー・モンロー殺害事件の犯人が捕まったというのは事実ですか!」
「犯人は彼女の愛人だったのですか!」
「セギル・ガンフォールはどのように犯行を認めたのです!」
「アウグストゥスさん、貴方が血痕から犯人を見抜いたという話は!」
「ニンザ上級捜査官、海上での捜査権がない中、どのように捜査を進めたのですか!」
アウグストゥスは眩しそうに目を細めた。
隣でニンザが、ゆっくりナニレスクを振り返る。
人混みの中で、ナニレスクは満面の笑みを浮かべていた。
「君ぃ」
ニンザの声が低くなる。
「港へ着くまでは口外しない、という約束でしたよねぇ」
「はい」
「では、この記者たちは何ですかぁ?」
「港へ着いてから知らせました」
ナニレスクは胸を張った。
「約束は守りましたよ」
ニンザの額に青筋が浮かぶ。
「やはり、船室へ閉じ込めておくべきでしたねぇ」
再び閃光が弾けた。
◇
その夜。
記者たちの質問攻めからようやく解放されたニンザは、カールフォードの安宿で眠っていた。
一等客室とは比べるべくもない、薄い壁。
身体を動かすたび、軋む寝台。
隣のベッドではアスイズミが横向きになり、腹へ毛布を巻きつけて眠っている。
ニンザも硬い枕へ頭を押しつけ、盛大ないびきをかいていた。
そして再び、白い霧の中へ落ちた。
「また貴方ですかぁ」
ニンザは霧の中へ横たわったまま、目を開けようともしなかった。
「何度も言っているでしょう。私は喧嘩が弱いんですぅ」
返事はない。
ただ、頭の内側へ命令だけが押し込まれてくる。
アウグストゥスを討て。
「肉体労働を期待しているなら、アスイズミ君に頼みなさい。あの子なら多少斬られても死にはしませんよぉ」
ニンザは背を向け、そのまま眠り直そうとした。
直後、頭蓋の中心で甲高い音が炸裂する。
キイイイイイン――。
「イタタタタ……」
頭を押さえ、霧の中で身体を丸めた。
「分かりました。分かりましたから、音を止めなさいぃ」
音が少しだけ弱まる。
ニンザは片目を開けた。
「ただし、戦うとは言いません」
霧の奥へ向けて、ゆっくり人差し指を立てる。
「アウグストゥスを捕まえる。それだけなら約束しましょう」
白い霧が揺れた。
承諾なのか、拒絶なのか。
ニンザには分からない。
「殺すのは私の仕事ではありません」
口元へ、いつもの笑みが浮かぶ。
「罪を暴き、人前へ引きずり出し、自分の口で喋らせる。私がやるのは、そこまでですぅ」
霧の中で、光の剣が姿を現した。
前よりも近い。
ニンザの喉元へ届く距離で、その切っ先が静かに止まる。
キイイイイイン――。
「——っつ!」
ニンザは剣を見上げ、深く息を吐いた。
「困りましたねぇ。私、こう見えて命令されるのが大嫌いなんですよぉ」
そんな軽口とは裏腹に、その表情には余裕がなかった。
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