ナニレスク・クスープ
録音水晶の中心で、淡い光が脈打っていた。
ナニレスク・クスープは机の上へ水晶を置き、羽根ペンを走らせながら、向かいに座る少女の返事を待っている。
「この旅が終わったら、どうするつもりですか?」
「え?」
ルーシュは瞬きをした。
質問の意味が分からなかったのではない。考えたことがなかったのだ。
「どうするって……?」
「新大陸へ着いた後のことです。貴女は、その先をどう生きたいと思っているのですか?」
「さあ……分からないわ」
ルーシュは膝の上で指を重ねた。
「でも、義父さまや皆と、ずっと楽しく暮らしたいとは思っているの」
そこで言葉が途切れる。
重なっていた指先へ、少しずつ力が入った。爪が白くなり、片方の親指がもう片方の指を強く押さえ込む。
「ただね」
伏せた瞳が、机の上の録音水晶へ向いた。
「私が、それを望んでいいのかは分からない」
「なぜです?」
「だって、私はたくさん殺したもの」
ルーシュは微笑もうとした。
口元は持ち上がったが、頬は動かなかった。
「こんなにたくさんの人を殺して、私だけ幸せになっても……世界は許してくれるのかな?」
ナニレスクのペンが止まった。
録音水晶だけが、少女の声を逃さず記録し続けていた。
――ルーシュ・オクタヴィアヌス取材記録より抜粋。
◇
一〇一四九号室のリビングには、朝の陽光が差し込んでいた。
磨かれた家具も、壁に掛けられた絵画も、一等客室に相応しい品で揃えられている。だが、部屋の空気は冷えていた。
アウグストゥスの正面に座っているのは、セギル・ガンフォールの妻、ジーナ・ガンフォール。
その隣には十歳の娘ニーナが座り、母親の袖を掴んでいる。二人の背後には、使用人のベガ・スタントンが姿勢を正して控えていた。
この部屋の主であるセギルは、ニンザに連れられ、事件現場となった一〇一〇五号室へ向かっている。
夫と家族を引き離す。
それがニンザの役目。
その隙に家族の口を開かせるのが、アウグストゥスの役目だった。
「差し支えなければ、ご主人の職業を伺っても?」
アウグストゥスは穏やかな声で尋ねた。
「投資をしていると聞いています」
ジーナは警戒を隠さず答えた。
「夫が、何かしたのですか?」
「いいえ。昨夜、とある事件へ居合わせたそうでしてね。その確認をしているだけです」
アウグストゥスは軽く手を振った。
「あまり身構えず、気楽にお答えください」
気楽になれるはずもなかった。
昨夜、ジーナたちがディナーを終えて部屋へ戻ると、床には血まみれの白いシャツが無造作に投げ捨てられていた。
セギルはシャワーを浴びていた。
何があったのか尋ねても、「少し事件へ巻き込まれただけだ」「心配することではない」と繰り返すばかりで、詳しい説明を避けた。
そして今朝、見知らぬ上級捜査官が現れ、セギルを部屋から連れ出した。
その直後、今度は医者を名乗る老紳士が現れ、夫の仕事について質問している。
ジーナの指は、膝の上で何度もスカートの皺を伸ばしていた。
「ご主人が、具体的にどのような投資をしているかはご存じですかな?」
「詳しいことは知りません」
ジーナは小さく首を振った。
「私へ説明しても、どうせ理解できないと言って……教えてもらえませんので」
「では、ご主人は何も?」
「新大陸との貿易に関心があるとは言っていました」
考えながら、ジーナは続ける。
「新大陸では今、開発が急速に進んでいるから、あらゆる物が足りていない。向こうへ持っていけば、何でも売れると……」
「なるほど」
アウグストゥスは微笑んだまま、ジーナを観察した。
妻には事業の詳細を知らせていない。
家の財産がどこへ流れ、夫が誰と取引をし、どれほど儲けているのかも分からないのだろう。
美しい妻を着飾らせ、社交の場へ連れ歩く。仲間に見せびらかすための妻――トロフィーとして扱われている可能性は高い。
顔立ちは整っている。教養は深くなさそうだが、頭の回転が鈍いわけでもない。
問いの意味を理解し、自分の知っている範囲と知らない範囲を分けて答えている。
愚かではない。
ただ、夫から何も与えられていないだけだ。
「ところで、お嬢さんはおいくつですかな?」
アウグストゥスは唐突に話題を変えた。
「え……この子ですか?」
ジーナは隣に座る娘を抱き寄せる。
「十歳になります」
「それは可愛らしい。よく貴女に似ておられる」
ニーナはアウグストゥスから顔を背け、母親の腕へ頬を寄せた。
それを見て、ジーナの肩からわずかに力が抜ける。
緊張が緩んだ。
今なら、本題を置ける。
「では話を戻しますが」
アウグストゥスは何気ない調子で尋ねた。
「ご主人は、女優のマリーゼ・モンロー嬢とお知り合いでしたかな?」
「マリーゼ・モンロー……?」
ジーナは目を瞬かせた。
すぐには、質問の意図を理解できていない。
一〇一〇五号室の前には警備員が立ち、乗客が中へ入れないよう封鎖している。乗客の混乱を避けるため、船内で殺人事件が起きた事実も公表されていなかった。
大女優マリー・モンローが死んだと知っている者は、ごく一部だけである。
「いいえ。知り合いではないと思います」
ジーナは答えた。
「ただ、彼女の舞台なら、セギルと一緒に何度か観に行ったことがあります」
「ほう」
「それが、何か?」
ジーナの視線がアウグストゥスの顔を探る。
「夫は、彼女と知り合いなのですか?」
嘘は言っていない。
少なくとも、セギルとマリーゼが親しいと知っている女の反応ではなかった。
だが、最後の問いだけが引っかかった。
なぜ、夫とマリーゼが知り合いなのかと聞き返した。
単なる質問なら、「どうして彼女の名前が出るのか」と尋ねる方が自然だ。
ジーナには心当たりがある。
相手がマリーゼだとは知らない。
しかし、夫に別の女がいるのではないかと、以前から疑っているのだ。
マリーゼ・モンローは、セギルの愛人。
今のところ、それが最も妥当だった。
アウグストゥスはジーナから視線を外し、その背後に立つメイドへ向けた。
ベガ・スタントン。
マリーゼの名を出した瞬間、彼女の眉間がほんのわずかに寄った。
ジーナは知らない。
だが、このメイドは何か知っている。
セギルの浮気を疑っているのではなく、疑いを事実へ変える何かを見たか、聞いたかしている。
今ここで問い詰めても話さない。
主人の前で使用人が家庭の秘密を語ることはない。まして、十歳の娘が聞いている前で、父親の不貞を口にするはずもなかった。
話を聞くなら、ベガ一人を切り離す必要がある。
「急に押しかけ、不躾な質問を重ねて申し訳ありませんでしたな」
アウグストゥスは席を立った。
「聞きたいことは以上です。これで失礼いたします」
胸へ手を当て、軽く会釈する。
そのまま扉へ向かいかけ、思い出したように足を止めた。
「ああ、最後に一つだけ」
「まだ何か?」
「昼食は、どちらで取られるおつもりですかな?」
ジーナは困惑しながら答えた。
「メインダイニングで、ゆっくり食べるつもりですけれど……それが何か?」
「いえいえ。私も昼をどこで取るか迷っていたもので、参考までに伺っただけです」
アウグストゥスは愛想よく笑った。
「それでは、今度こそ失礼いたします」
一〇一四九号室を出る。
扉が閉じるまで笑顔を保ち、廊下へ出たところで表情を消した。
ジーナとニーナは、昼にはメインダイニングへ向かう。
問題は、その時ベガが二人へ同行するかどうか。
同行したとしても、引き離す方法はいくらでもある。
聞くべき相手は、妻ではない。
夫婦の秘密を、夫婦より近い場所で見てきた使用人だった。
◇
一〇一〇五号室では、白いシーツの下に死体が横たわっていた。
大女優マリー・モンロー。
現場は可能な限り、昨夜の状態を保たれている。床の血も、転がっていた果物ナイフも、室内の家具も動かされていない。
部屋にいるのは、ニンザとセギル。
そして、捜査とは何の関係もない一人の男だった。
ナニレスク・クスープ。
背は低く、顔立ちも幼い。少年と言われても疑わない外見をしているが、実際には三十代前半だという。
ニンザがセギルを連れて一〇一〇五号室へ向かっていた途中、背後から二人を呼び止めたのがナニレスクだった。
彼は、マリー・モンローが殺されたことを知っていた。
誰から聞いたのか。
どこまで知っているのか。
それを問い返すより先に、ナニレスクは条件を突きつけてきた。
事件の取材を認めろ。
断るなら、船内の乗客へ大女優殺害の事実を知らせる。
一般人が一人殺されただけなら、噂が広まっても騒ぎは限られる。
だが、死んだのは有名女優だ。
乗客が真相を求めて現場へ押しかければ、捜査どころではなくなる。ニンザの周りにも、事件について聞き出そうとする者が群がるだろう。
報道を止める権限もない。
口を塞げないなら、近くへ置いて見張るしかなかった。
「それで、ナニレスク君」
ニンザは額へ手を当て、深く息を吐いた。
「捜査へ立ち会わせてあげるのですから、この件は黙っていてくださいよぉ」
「大丈夫ですよ」
ナニレスクはにこやかに答えた。
「記者が独占スクープを他人へ喋るわけがないじゃないですか」
「記事へ書くのは、喋るうちに入らない――などと言い出しませんよねぇ?」
「さて、どうでしょう」
「殴って船室へ閉じ込めた方が早かった気がしてきましたぁ」
「それをしたら、記者失踪事件という、さらに大きな記事になりますよ」
ナニレスクは悪びれず、持っていた鞄を開いた。
取り出したのは、小型の録音水晶と手帳だった。
水晶をテーブルへ置き、魔力を通す。
中心に淡い光が灯った。
「では、取材を始めても?」
「これは取材ではなく捜査ですぅ」
「呼び方が違うだけで、やることは似たようなものでしょう」
ナニレスクは椅子へ座り、手帳を開いた。
次に、部屋の入口付近で落ち着かなく立っているセギルへ視線を向ける。
「セギル・ガンフォールさん」
「……何だ」
「貴方が、この部屋の第一発見者だそうですね」
「ああ」
「それでは、最初から詳しく聞かせてください」
羽根ペンの先が、白い紙の上へ触れた。
「貴方がマリー・モンローの死体を発見するまでの話を」
セギルはニンザを見た。
ニンザは止めなかった。
ナニレスクは笑顔を崩さず、録音水晶をセギルの方へ向ける。
「嘘をつくなら、途中で話を変えないことをお勧めします」
「何だと?」
「記録は記憶と違って、貴方に都合よく忘れてはくれませんから」
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