存在しない男の逃げ場
窓の外では、砕けた月明かりが黒い海へ沈んでいた。
一〇一〇五号室には、逃げ場のない沈黙が満ちている。
大女優マリー・モンロー――本名、マリーゼ・モンローは、腹を刺されて死んでいた。
第一発見者を名乗るセギル・ガンフォールの話では、彼が一〇一〇五号室の前を通りかかった時、見知らぬ男が部屋から慌てて飛び出してきたという。
不審に思って室内を覗くと、血まみれのマリーゼが倒れていた。助け起こそうとして、セギル自身も血まみれになった。
それが、彼の説明だった。
だが、その説明には一人足りない。
「セギルさん。あなたが見たという男は、一〇一〇五号室から出たあと、どちらへ逃げたんですぅ?」
ニンザの問いに、セギルの唇が止まった。
猫背の上級捜査官は、開け放たれた客室の扉を指差す。
「この階段は、事件が起きる前からファーガソンさんが見張っていたそうです」
続いて、室内の窓へ視線を滑らせた。
窓の向こうにあるのは、夜の海だけだ。人が飛び降りれば逃走ではなく投身になる。
「その男、一体どこへ消えたんでしょうねぇ」
「おっ、俺が知るか!」
セギルは噛みつくように答えた。
「男より、部屋の中の方が気になったんだ。女が倒れていたんだぞ! そっちを優先したんだから、男がそのあとどうしたかなんて見ていない!」
「男を追わなかった理由は聞いていませんよぉ」
ニンザは笑みを崩さなかった。
「どちらへ走ったのか。それだけです」
「だから、見ていないと――」
「私はまだ、右とも左とも言っていません」
ニンザの細い目が、まっすぐセギルを捉えた。
「慌てて部屋から出てきた男は、右へ走ったのですか。それとも左へ?」
「……左だ」
セギルは上着の裾を握り、血で濡れた布を指の中で捩った。
「この部屋を出て、左へ走っていった」
「あなたは、なぜ一〇一〇五号室の前に?」
「俺は、この先の展望ラウンジへ行こうとしていたんだ。それで、たまたまここを通りかかった」
「んんー。セギルさんのお部屋は何号室でしょうかぁ?」
「一〇一四九号室だ」
セギルの眉間へ皺が寄る。
「何でそんなことまで聞く」
「特に深い意味はありません。あなたの歩いた道順を確認しているだけですぅ」
深い意味はない。
そう言われて安心できる者など、この部屋には一人もいなかった。
アウグストゥスが会話へ入る。
「この船には、お一人で乗っておられるのですか?」
「いや。妻と娘、それに使用人のメイドが一人だ」
「ご家族は、今どちらへ?」
今度はニンザが訊いた。
交互に質問を投げられ、セギルの呼吸が荒くなる。
「ビュッフェだよ。夕食を食べに行っている。さっきから何なんだ!」
血の付いた拳が強く握られた。
「まさか、俺を疑っているのか?」
「失礼、セギルさん」
アウグストゥスは穏やかな笑顔を作った。
「事件が起きれば、居場所と同行者を確認するのは形式的な手順です。そう怒らないでいただきたい」
口調は柔らかい。
だが、その目はセギルの指先から一度も離れていなかった。
妻子と使用人をビュッフェへ行かせ、自分だけ展望ラウンジへ向かっていた。
それだけなら不自然とは言い切れない。家族と別行動を取る男など、いくらでもいる。
しかし、突けば何かが出る。
問題は、今どこまで突くかだった。
アウグストゥスは横目でニンザを見た。
ニンザもまた、セギルの返答ではなく、返答するまでの間を見ていた。
犯行は計画的ではない。
女と二人きりで争い、手近にあったナイフを掴んだ。そんな衝動の臭いがする。
問題は、殺されたマリーゼとセギルがどのような関係だったのか。
そこさえ暴けば、第一発見者という薄皮を剥がせる。
セギルが第一発見者を装った理由も、おおよその見当はついていた。
この一等客室区画から別の階へ移動するには、中央階段か、その脇に設置された魔力式エレベーターを使うしかない。
どちらを使っても、階段前を警備していたファーガソンの視界へ入る。
人を刺したあと、血まみれの服で警備員の前を通れば止められる。
ならば逃げるのではなく、助けを求めればいい。
犯人ではなく、哀れな第一発見者として。
即興にしては悪くない。
もっとも、その即興がセギル自身の首へ巻きつき始めていることを、本人だけが理解していなかった。
ニンザは部屋を出ると、廊下の壁に掲げられた船内案内図の前に立った。
この船では、船首から船尾へ向かって客室番号が大きくなる。奇数番号の客室は左舷側に並び、一〇一〇五号室は船首に近い位置にあった。
この階は乗客が利用できる最上階であり、さらに上にあるのは、船長たちが詰めるブリッジだけだ。
廊下の中央には階段とエレベーターがある。
一〇一〇五号室を出て左へ走れば、中央階段へ向かうことになる。
しかし、ファーガソンは逃げる男を見ていない。
「ということはぁ」
ニンザは案内図の上で指を動かした。
「セギルさんが見た男は、一〇一〇五号室から左へ走り、中央階段へ到達する前に消えたことになります」
指が、一〇一〇七号室で止まる。
そこから一つずつ、奇数番号の部屋を辿った。
一〇一〇九、一〇一一一、一〇一一三。
最後に、一〇一二九号室で指が止まった。
「階段より手前にあるのは、一〇一〇七号室から一〇一二九号室まで」
ニンザが振り返る。
「つまり、その男が本当にいたのなら、この範囲にある部屋のどれかへ逃げ込んだことになりますぅ」
セギルは何も答えなかった。
「犯人がいる可能性のある部屋は、数え切れないほど多くありません。しらみ潰しに調べられます」
ニンザはカーマイン船長へ顔を向けた。
「今から一〇一〇七号室から一〇一二九号室まで、すべての部屋を開けましょう」
「すべてですか」
「ええ。船長、マスターキーはどちらにありますぅ?」
カーマイン船長が答えようとした、その時だった。
廊下の奥が騒がしくなった。
複数の話し声と足音が重なり、静かだった一等客室区画へ押し寄せてくる。
ニンザたちが廊下へ出ると、中央階段とエレベーターの前に、大勢の乗客が溢れていた。
礼装を着た男女が通路を塞ぎ、苛立った声を上げている。その前で、アスイズミが両腕を広げ、必死に人の流れを止めていた。
「ああ、ニンザさん!」
アスイズミが助けを求める。
「助けてください。この人たち、勝手に部屋へ戻ろうとするんです!」
「勝手にとは何だ!」
「ここは私たちの客室だぞ!」
「いつまで廊下で待たせるつもりだ!」
事情を説明されないまま足止めされた乗客たちから、抗議の声が次々と上がる。
その中から、一人の男が人垣を押し分けて前へ出た。
「何があったか知らないが、私は部屋へ戻らせてもらうよ」
「待ってください。今、この階では――」
「知るか。金を払って借りている部屋だ」
男はアスイズミの横を通り抜けると、廊下に立っていたセギルへ目を留めた。
「それと、そこのあんた。その格好は何かの催しか?」
血まみれのセギルを頭から足まで眺め、鼻で笑う。
「酷い格好だ。さっさと着替えた方がいい」
セギルの頬が引きつった。
男が歩き出したのを皮切りに、足止めされていた乗客たちも一斉に動いた。
「私も戻らせてもらう!」
「こんな夜中に何の騒ぎだ!」
「船長、あとで説明してもらいますからね!」
不満を口にしながら、それぞれの客室へ散っていく。
廊下は瞬く間に人で埋まり、いくつもの扉が開閉した。誰がどの部屋へ入ったのか、今から完全に把握するのは難しい。
カーマイン船長が苦々しい顔で口を開く。
「ディナータイムが終わったのでしょうな。皆、部屋へ戻ってきたようです」
アウグストゥスは、廊下を行き交う乗客を眺めた。
「予定どおり、部屋をしらみ潰しに調べますか?」
ニンザは答えなかった。
廊下の奥へ消えていく乗客たちを眺め、次に一〇一〇五号室の扉へ視線を戻す。
最後に、セギルを見た。
「……いいえ」
ニンザはゆっくり首を振った。
「皆さん、今夜はお疲れのようですぅ。無理に部屋へ押し入れば、余計な反発を招くでしょう」
「では、どうします?」
「事件のあった一〇一〇五号室は、このまま立入禁止にします」
ニンザは軽い調子で続けた。
「逃げた男の捜索は、また明日にしましょう」
セギルの肩から、わずかに力が抜けた。
閉じていた唇の隙間から、細い息が漏れる。
取りあえず、今夜はやり過ごした。
部屋を調べられなければ、存在しない男が見つからないことも不自然ではない。朝まで時間を稼げれば、次の言い訳も考えられる。
セギルは俯き、緩みかけた口元を血の付いた袖で隠した。
アウグストゥスは、その変化を見逃さなかった。
そして、ニンザも乗客たちを見てはいなかった。
彼が見ていたのは初めから一人だけ。
捜索が延期されたと聞いた瞬間、安堵の息を吐いた男だった。
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