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異世界倒叙サスペンス~サイコパス男爵とシリアルキラー令嬢~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
2部

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110/183

犯人はどこへ消えた

一〇一〇五号室の扉は開け放たれていた。


 豪奢な客室の中には、甘い果物と酒の香りに混じり、生温かい血の臭いが漂っている。


 床には黒いドレスを着た女が倒れていた。


 腹部を中心にドレスが濡れ、絨毯へ黒ずんだ血が広がっている。女の傍らには、小ぶりな果物ナイフが転がっていた。


 部屋へ入ったのは、アウグストゥス、ニンザ、カーマイン船長、警備員のファーガソン。そして第一発見者を名乗るセギル。


 セギルは部屋の入口付近で足を止め、死体から顔を背けた。


 カーマイン船長は手にしていた乗客名簿を開き、部屋番号と宿泊客の名前を照合する。


「一〇一〇五号室……マリーゼ・モンロー」


 指が途中で止まった。


「まさか、あのマリー・モンローか?」


 終始落ち着いていた船長の声が、わずかに上ずった。


「すみません」


 ニンザは死体を見たまま尋ねる。


「彼女、有名な方なんですかぁ? 私はそういうものに疎くてぇ」


「有名も何も、大女優のマリー・モンローですよ!」


 ファーガソンが興奮気味に口を挟んだ。


「マリーゼ・モンローは本名で、舞台ではマリー・モンローと名乗っているんです。彼女が出演した『大滝の背徳』を知らないんですか?」


「知りませんねぇ」


 ニンザは肩をすくめたあと、アウグストゥスへ目を向けた。


 説明を求めているというより、反応を確認している目だった。


「名前だけなら知っています」


 アウグストゥスは答えた。


「随分と色気のある女優だと評判だったそうです。残念ながら、劇を観たことはありませんがね」


「それはそれは。さぞ演技が上手かったのでしょうねぇ」


 ニンザは床に横たわる女へ目を戻した。


「私も一度、観てみたかったですぅ」


 死体を前にして口にするには、妙に軽い声だった。


「それにしても、そんな有名な女優が、なぜ新大陸行きの船へ乗っていたのでしょう」


 セギルの肩が、また動いた。


 今度はアウグストゥスだけでなく、ニンザも露骨にそちらへ目を向ける。


 セギルは気づいていない。


 カーマイン船長が乗客名簿を閉じながら答えた。


「単なる旅行か、そうでなければ仕事でしょう。スター&ストライプの舞台は、出演料がいいと聞きますからな」


「そうかもしれませんねぇ」


 ニンザはそれ以上追及せず、死体の傍らへしゃがみ込んだ。


 すぐに答えを求めない。


 問いだけを置き、反応した者の顔を覚えておく。


 厄介な男だ。


「ところで、アウグストゥスさん」


 ニンザは死体から目を離さずに呼びかけた。


「彼女をどう見ますぅ?」


 アウグストゥスは死体の傍らへ歩み寄った。


 床へ膝をつき、首筋へ指を当てる。脈はない。瞳孔と皮膚の状態を確認し、腹部の傷と血の広がりへ視線を移した。


「現時点では、失血死と考えるのが妥当でしょう。最終的な判断は船医へ任せますがね」


 床に転がるナイフを指し示す。


「凶器は、彼女の傍にある果物ナイフと思われます」


「やはり、あれですかぁ」


「恐らくは」


 アウグストゥスは立ち上がらず、そのままセギルを見た。


「そこで一つ、伺いたいことがあります」


「……何ですか」


「床に転がっているナイフは、セギル殿が彼女の身体から抜いたのですかな?」


 セギルの眉が動いた。


「なぜ、そんなことを聞く」


「あなたが、あまりにも多くの血を浴びているからです」


 アウグストゥスは、セギルの上着へ視線を這わせた。


 胸、腹、袖。


 広い範囲へ血が染みている。


「血液は、心臓が動いている間ほど勢いよく流れます。まして腹部の傷から刃物が抜かれていれば、出血はさらに激しくなる」


 セギルは黙っている。


「逆に、心臓が止まり、刃物が傷口へ残っていれば、血の流れは弱くなる。無論、傷の深さや刺された場所によって差はありますが」


 アウグストゥスは、床の血溜まりへ目を落とした。


「あなたの服に付着した量を見る限り、マリーゼさんがまだ生きている間に身体へ触れたか、死亡して間もない時点で傷口からナイフを抜いた可能性が高い」


「俺が刺したと言いたいのか!」


「いいえ」


 アウグストゥスは即座に否定した。


「あなたが、いつ、どのように彼女へ触れたのかを知りたいだけです」


 否定しながら逃げ道を塞ぐ。


 ニンザが、愉快そうに二人のやり取りを見ていた。


「あなたは先ほど、倒れていた彼女を助け起こそうとして血が付いたと話していましたね」


 アウグストゥスは続ける。


「抱き起こしただけなのか。それとも、身体へ刺さっていたナイフまで抜いたのか。どちらです?」


「それは……」


 セギルは死体を見た。


 次にナイフを見て、アウグストゥスへ視線を戻す。


「あ、いや……血溜まりに倒れている彼女を見て、慌てて駆け寄ったんだ」


 舌が乾いているのか、唇を何度も舐めた。


「抱き起こして……助けようとした。だから、その時に何をどうしたかは、よく覚えていない」


「覚えていない?」


「ああ。もしかしたら、彼女の腹に刺さっていたナイフを、俺が抜いたのかもしれない」


 部屋の中が静かになった。


 遠くで波が船体へぶつかり、低い音を響かせている。


 ニンザとアウグストゥスは、セギルから目を離さなかった。


 先ほどまで存在しなかった話が、一つ増えた。


 抱き起こした。


 今度は、ナイフを抜いたかもしれない。


 血まみれである理由を問われるたびに、セギルの記憶は都合よく曖昧になり、その曖昧な場所から新しい行動が生えてくる。


「んんー、なるほどぉ」


 ニンザがゆっくりと立ち上がった。


「では、次は別のことを確認しましょうか」


 笑っている。


 だが、その目には笑みがなかった。


「セギルさん。あなたが見たという男は、一〇一〇五号室から出たあと、どちらへ逃げたんですぅ?」


 セギルの唇が止まった。


 ニンザは入口を指差す。


「この階段は、事件が起きる前からファーガソンさんが見張っていたそうです」


 次に、室内の窓へ視線を向ける。


 窓の外にあるのは、夜の海だけだった。


「その男、一体どこへ消えたんでしょうねぇ」


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