血まみれの第一発見者
月が砕け、黒い水面を白く濡らしていた。
豪華客船は夜の海を切り裂き、ルシュファリアから新大陸の港町カールフォードを目指している。いずれ始まる勇者ギルドの追跡から距離を稼ぐため、アウグストゥスが選んだ逃走路だった。
だが、追跡者が追いつくより先に、船内で人が死んだ。
一等客室、一〇一〇五号室。
女が腹を刺され、血の中に倒れていた。
第一発見者を名乗ったのは、セギル・ガンフォール。助けを求める彼の声を聞き、階段を警備していたファーガソンが駆けつけた。
その二人が話している場へ、偶然通りかかったアウグストゥスたちが足を止める。
そして今、階段の下から、黒いスーツを着た男がゆっくりと上がってきていた。
「んんうー。私もアウグストゥスさんの意見に賛成ですぅ」
間延びした声に、全員が階段を覗き込む。
猫背の男の後ろには、見覚えのある若い巡察官がついていた。
「第一発見者さんが着替えたり、身体を洗ったりするとぉ、重要な証拠まで一緒に消えてしまうかもしれませんからねぇ」
男は一段ずつ、時間をかけて階段を上がってくる。
セギルは船長が到着する前に、血まみれになった服を着替えたいと言い出していた。アウグストゥスがそれを止め、黒いスーツの男も同意したのである。
「誰だか知らないが、部外者が何も知らずに口を挟むのはやめてくれ!」
セギルが声を荒らげた。
黒いスーツの男は怒鳴り声を浴びても歩みを止めない。むしろ口元を吊り上げ、楽しそうにセギルとの距離を詰めていく。
「んんー。確かに今の私は部外者ですぅ。ですが、私の意見は聞いておいた方がよろしいかと」
最後の一段を上がり、セギルの正面に立つ。
背を伸ばせばかなりの長身だろうが、深く曲がった背中のせいで、その顔はセギルを下から覗き込む位置にあった。
「アンタ、何者なんだ」
先ほどまでの勢いが、セギルの声からわずかに抜ける。
「これは失礼いたしました」
男は片手を胸へ添え、芝居がかった礼をした。
「ルシュファリア治安局第一課、上級捜査官のニンザ・フルハタと申しますぅ」
「上級……捜査官……」
セギルの肩が一度だけ動いた。
ほんのわずかな反応だった。
だが、アウグストゥスとニンザは同時にそれを拾っている。
アウグストゥスはセギルの喉へ視線を向けた。唾を飲み込んだ拍子に、喉仏が大きく上下している。
捜査官という肩書を聞いただけで、身体が先に反応した。
この事件に関係しているのか。
あるいは、この事件とは別に、法へ知られて困るものを抱えているのか。
どちらにせよ、無傷の男ではない。
向かいに立つニンザも、細めた目でセギルを観察していた。
今の動揺はいただけない。
これでは自分を疑ってくれと、捜査官へ頭を下げて頼んでいるも同然だ。
もっとも、動揺しようがしまいが関係ない。
密室に近い客室で女が殺され、全身に血を付けた第一発見者が、証拠を洗い流したがっている。
現時点で、セギルが容疑者の筆頭に立つのは当然だった。
「あの、捜査官がいるなら話が早い」
警備員のファーガソンが、二人の間へ声を挟んだ。
「セギルさんの話では、女の人を刺した男がこの階にいるらしいんです。見つけて捕まえてください」
「んんー、私は構いませんがぁ」
ニンザは人差し指で頬を掻いた。
「ここはルシュファリアの外、それも海の上です。私には逮捕権どころか、勝手に客室を調べる権限もありません」
「ですが、他に適任もいませんし……」
「海上の事件は治安局ではなく、船長と海上警備隊の管轄になりますぅ。私が好き勝手に調べれば、それはそれで面倒になるんですよぉ」
「それなら、私が許可を出しましょう」
上方の踊り場から声が落ちてきた。
全員が振り返る。
年老いた船長が乗客名簿を片手に、階段を下りてくるところだった。背筋は伸び、白い制服には乱れ一つない。
「船長!」
ファーガソンの顔が目に見えて明るくなった。
内線電話で事件を報告してから、責任を一人で背負わされていると思っていたのだろう。カーマイン船長の姿を見ただけで、強張っていた肩が下がった。
「船長権限で、ニンザ上級捜査官へ事件の調査協力を要請します。犯人が船内にいるのなら、港へ着くまで放置するわけにはいかない」
カーマイン船長はニンザを見据えた。
「引き受けていただけますかな」
「正式なご依頼でしたらぁ、喜んで」
ニンザは歯を見せて笑った。
カーマイン船長はファーガソンへ向き直る。
「それで、事件があった部屋まで案内してくれるかね。ファーガソン」
「はい!」
ファーガソンは敬礼し、一〇一〇五号室へ向けて歩き出した。
「捜査官殿もこちらへ」
カーマイン船長がニンザを促す。
ニンザはすぐには続かなかった。
右手を水平に滑らせ、舞台へ役者を招き入れる仕草で、アウグストゥスへ先へ進むよう促した。
「さあ、アウグストゥスさんもぉ」
カーマイン船長が足を止めた。
「その方も捜査官なのですか?」
「いいえ」
ニンザは即答した。
「ただの旅のお医者様だそうです。きっと役に立つでしょう。私が保証いたしますぅ」
ニンザの笑みが深くなる。
アウグストゥスは黙って、その顔を見返した。
医者が必要だから呼んだ。
表向きは、それで通る。
だが、ニンザはアウグストゥスを現場へ入れたがっている。医師として意見を求めたいのか、それとも、現場でどう振る舞うのか観察するつもりなのか。
どちらもあり得る。
ニンザ・フルハタは、意味もなく他人へ餌を与える男ではない。
「医者がいるのなら助かります」
カーマイン船長は頷いた。
「船医のタマスも呼びましたが、彼は高齢です。ここへ来るまで、もうしばらく時間がかかるでしょう。どうか一緒に来てください」
「承知しました」
アウグストゥスは穏やかに答えた。
ニンザが一行に加わろうとしたところで、後ろにいたアスイズミも当然の顔でついてくる。
「アスイズミ君」
ニンザが振り返った。
「君はここへ残りなさい。この階段を見張って、誰かが一等客室の区画から出ようとしたら引き留めるように」
「ええー、僕も犯行現場へ行きたいですよ」
アスイズミは露骨に唇を尖らせた。
「ニンザさんだけで解決したら、僕の手柄がなくなるじゃないですか」
「安心しなさい」
ニンザは飄々と答えた。
「君がついてきても、大した手柄は挙げられません」
「酷くないですか、それ」
「それにぃ」
ニンザの声が一段低くなる。
猫背をさらに深くし、アスイズミと目の高さを合わせた。長い人差し指が、若い巡察官の鼻先へ向けられる。
「犯人がまだこの階にいるのなら、現場より階段の方が大事です。私たちが部屋を調べている隙に逃げられたら、君の手柄どころか失態になりますよぉ」
アスイズミの口が閉じた。
「誰が上がってきたか。誰が下りようとしたか。顔と時刻を覚えておきなさい。船員だから、金持ちだからと通してはいけません。いいですね?」
「……分かりましたよ」
不服は残っている。
それでもアスイズミは階段の前に立ち、通路の両側へ視線を走らせた。
やるべきことを理解すれば、動きは早い。
アウグストゥスはその様子を一瞥すると、今度は背後にいる三人へ向き直った。
「お前たちは部屋へ戻って休みなさい。ここは私一人で十分だ」
「承知いたしました」
アエーシュモーは何の不満も見せず、静かに頭を下げた。
「何ですと!」
ギルエルだけが声を上げる。
「せっかく劇の一幕みたいな事件が起こっているというのに、私は立ち会えないのですか!」
「ギルエル」
ルーシュが微笑んだ。
その手がギルエルの腕へ絡みつく。細い指が服の上から食い込み、ギルエルの抗議を止めた。
「義父さまの邪魔をしては駄目よ」
「しかし、ルーシュ様――」
「駄目よ」
声は優しい。
だが、指は緩まない。
「さあ、行きましょう。シュモー」
「ええ。ギルエル様には、部屋で大人しくしていただきましょう」
アエーシュモーが反対側からギルエルの肩を掴む。
「義父さまも、お気をつけて」
「心配ない」
アウグストゥスは短く答え、三人へ背を向けた。
心配されるべきは、自分ではない。
部屋の中で死んでいる女でもない。
血まみれの服を着たまま、捜査官と同じ現場へ入ることになった男だった。
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