黒い追跡者
一等客室が並ぶ区画は、同じ船内とは思えないほど静かだった。
客室番号一〇一〇五。
富裕層しか立ち入れないその階には、上下の階へ通じる階段ごとに警備員が配置されている。乗客だけでなく使用人の出入りまで確認され、素性の知れない者が紛れ込める余地はほとんどない。
一〇一〇五号室も、料金に見合う贅を尽くしていた。
金細工の施された照明。深紅の絨毯。磨き上げられた飾り棚。広いリビングとは別に寝室があり、そこには大人が三人並んでも余裕のあるキングサイズのベッドが据えられている。
リビングのテーブルには、籠いっぱいの果物と菓子、酒瓶が並んでいた。その傍らには、果物の皮を剥くための小ぶりなナイフが置かれている。
その豪奢な部屋に似つかわしくない怒鳴り声が響いた。
「あなたが別れると言ったから、私は今まで黙っていたのよ!」
黒いドレスを着た女が、喉を震わせて叫んだ。
一般人と呼ぶには美しすぎる。
身体の線を見せるドレスを着こなす姿からも、他人の視線を浴びることに慣れているのが分かる。歌手か、舞台女優か。少なくとも、美貌を商売にしている女だった。
「まあ待て、マリーゼ。今は時期が悪いだけだ」
女と向かい合っていたのは、三十代前半ほどの身なりの良い男だった。鼻の下に整えられた口髭を生やし、仕立てのいい上着を着ている。
「必ず近いうちに離婚する。だから、滅多なことはするな」
「近いうち?」
マリーゼの声が低くなった。
「あなた、いつもそう言うじゃない。それで何年経ったと思ってるのよ」
「だから、事情が――」
「もう待てないの!」
マリーゼはテーブルの上に置かれていたグラスを乱暴に押し退けた。
「今から、あなたの奥さんに会いに行くわ。全部話す。あなたが何年も私に何を言って、どうやって待たせてきたのか、最初から最後までね」
「待て!」
部屋を出ようとしたマリーゼの腕を、男が掴んだ。
「頼むから、俺の言うことを聞いてくれ。今ここで妻に話したら、全部台無しになる」
「離して!」
「マリーゼ!」
「私に触らないで!」
マリーゼは掴まれた腕を振り払い、その勢いのまま男の胸を突き飛ばした。
男は二歩よろめき、果物籠の置かれたテーブルへ腰を打ちつける。酒瓶とグラスが揺れ、硬い音を立てた。
男の手が、テーブルの縁を掴む。
その目が、果物の横に置かれたナイフで止まった。
マリーゼは気づいていない。
「分かったよ」
男の声から、先ほどまでの焦りが消えた。
「分かった、マリーゼ。お前がそこまで言うなら、妻に会わせてやる」
「……本当?」
「ああ。だから、こっちへ来てくれ」
男はナイフを手に取り、身体の陰へ隠した。
マリーゼは疑うように男を見つめていたが、やがて張り詰めていた肩から力を抜いた。
「本当なのね、セギル」
「ああ、本当だ。嘘なんて言うものか」
マリーゼが歩み寄る。
セギルの胸へ腕を回し、顔を埋めた。
「こんなにも、お前を愛しているんだからな」
最後の一音だけが、異様に強かった。
セギルの腕が動く。
刃が黒いドレスを裂き、マリーゼの腹へ深く沈んだ。
「――っ」
声になる前に、セギルの掌が彼女の口を塞いだ。
マリーゼの目が大きく開かれる。指がセギルの上着を掴み、爪が布地を引っ掻いた。
腹部から溢れ出した血が黒いドレスを濡らし、セギルの服へ染み込んでいく。
「暴れるな」
セギルは耳元で囁いた。
「大人しくしろ。余計に苦しくなるだけだ」
マリーゼの喉が上下する。
塞がれた口の奥で、湿った音が鳴った。喉までこみ上げた血が唇の端から溢れ、セギルの指を濡らす。
膝が折れた。
セギルは彼女の身体を支えながら、床へ横たえていく。転倒させれば余計な音が出る。頭を打ち、傷が増えれば話も面倒になる。
「あっ……あ……」
小さな息が漏れた。
それを最後に、マリーゼの指がセギルの服から離れた。
瞳は開いたまま、何も映していない。
セギルはしばらく、その顔を見下ろしていた。
「お前が悪いんだからな」
返事のない女へ言い聞かせる。
それから自分の服に付いた血を見下ろし、扉へ向かった。
廊下には誰もいない。
階段の前には警備員が立っている。
この区画へ出入りするには、必ずあの男の前を通らなくてはならない。
セギルは一度息を吸い、表情を作った。
「誰か! 誰か来てくれ!」
声を張り上げ、廊下を走る。
階段を見張っていた警備員が振り返り、血まみれのセギルを見て目を剥いた。
「どうしました――それ、血ですか!?」
「ああ!」
セギルは荒い息を繰り返しながら、一〇一〇五号室を指差した。
「今、あの部屋から男が飛び出してきたんだ。様子がおかしいと思って中を覗いたら、女の人が血まみれで倒れていた」
「男が?」
「ああ。顔はよく見えなかった。それで、彼女を助け起こそうとしたら……こんなことになった」
セギルは両腕を広げ、血の付いた服を見せた。
「女性は生きていますか?」
「息をしていない。多分、死んでいる」
警備員は一〇一〇五号室へ駆け込み、床に横たわるマリーゼを確認した。
「大変だ……船医と船長に知らせないと!」
警備員は部屋を飛び出すと、階段脇に備え付けられた船内電話を取った。魔力を動力とした内線装置で、最上階の操舵室へ連絡を入れる。
「カーマイン船長! すぐに来てください! 事件です! 船医もお願いします!」
電話の向こうから、老齢の男の落ち着いた声が返ってきた。
『何があった。順番に説明しなさい』
「女性が腹を刺されて倒れています。恐らく亡くなっていますが、まだ助かるかもしれません」
『分かった。すぐに向かう』
短い沈黙のあと、カーマイン船長が続けた。
『部屋には誰も入れるな。そこには君以外、誰かいるのか?』
「はい。第一発見者の……ええと」
「セギルだ」
警備員の背後から、セギルが口を挟んだ。
「セギル・ガンフォール」
「第一発見者のセギル・ガンフォールさんがいます」
『分かった。その人物にも、そこから動かないでもらえ』
通話が切れた。
警備員は受話器を戻し、セギルへ向き直った。
「大変なことになりましたね、セギルさん。船長から、ここにいてもらうよう指示が出ています」
「いや、しかし……」
セギルは血に濡れた上着を摘まんだ。
「この格好では気持ちが悪くて仕方ない。せめて手を洗って、服を着替えさせてもらえないか」
「ですが、船長が――」
「すぐに戻る。そもそも、ここは海の上だ」
セギルは両手を広げた。
「何処にも逃げられやしない。そうだろう?」
警備員の視線が、血に濡れたセギルの服へ落ちる。
事件へ巻き込まれ、助けようとして血まみれになった男。そう見れば、気の毒に思うのも当然だった。
「それなら、着替えだけ――」
「いや、駄目だ」
階段の下から、低い声が届いた。
警備員とセギルが同時に振り返る。
階段を上ってきたのは、白髪交じりの髪を整えた老紳士と、三人の女だった。
警備員が眉を寄せる。
「あなたは?」
老紳士は足を止め、丁寧に頭を下げた。
「アウグストゥス・オクタヴィアヌス。この階の客です」
アウグストゥスの視線が、セギルの顔から袖口、指先、靴へと移っていく。
ほんの一瞬だった。
だが、セギルは反射的に血の付いた手を身体の脇へ隠した。
「その服を見る限り、何か事件が起きたと察しますが……違いましたかな。事故で負傷されたのであれば、余計な口を挟んだことを謝罪しましょう」
「あっ、いえ……」
警備員は戸惑いながら答えた。
「こちらの方が不審な男を見たらしくて、その……女性が刺されているんです」
「不審な男?」
アウグストゥスは微笑んだ。
「この警備の厳しい階で、それは実に興味深い」
その背後では、ルーシュとアエーシュモーが小声で何かを話していた。
「何があったのですか」
「男が女を刺したそうですよ」
「まあ」
「もっとも、刺した男が誰なのかは、まだ分かりませんが」
アエーシュモーの口元が、薄く吊り上がる。
ギルエルだけは血まみれのセギルを見たまま、青ざめていた。
「アンタ、一体何なんだ!」
セギルが声を荒らげた。
「俺のこの格好を見れば分かるだろう。気持ち悪くて仕方がないんだ! 何の権利があって着替えを止める!」
アウグストゥスは怒鳴り声を浴びても、表情を変えない。
「権利などありませんよ」
「なら――」
「ただ、洗い流されて困るものが付いているかもしれない。それだけです」
セギルの口が止まった。
アウグストゥスは笑みを崩さず、彼の服へもう一度視線を落とした。
その時、階段の下から間延びした声が響いた。
「んんうー、私もアウグストゥスさんの意見に賛成ですぅ」
全員が階段を覗き込む。
「第一発見者さんが着替えたり、身体を洗ったりするとぉ、重要な証拠まで消えてしまうかもしれませんからねぇ」
黒いスーツを着た長身の男が、猫背のまま階段を上ってくる。
その後ろには、見覚えのある巡察官が続いていた。
ルシュファリア治安局第一課の上級捜査官、ニンザ・フルハタ。
そして第二課巡察官、エー・アスイズミ。
アウグストゥスは二人の姿を認めても、笑みを絶やさなかった。
追跡者はまだ遠くにいる。
そう考えていたのは、つい先ほどまでだった。
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