犯罪の予兆
ビオランテの城門をくぐった時、東の空にはまだ夜の青さが残っていた。
石造りの建物が連なる大通りには、荷車を引く商人と朝市の準備を始めた露店商がひしめき、異国から来た二人へ遠慮のない視線を向けている。その雑踏の中で、レオヴァンは隣を歩く女の横顔を見ていた。
呆れる以外、どうしようもなかった。
ここはイグナティア小王国から見れば、東の隣国ナサレイトを越え、さらに東に位置するゴルディア王国。その地方都市ビオランテである。
セレスティアがクドゥの宿で突然、「ビオランテへ行くぞ」と言い出し、そのまま夜中に宿を飛び出したまではいい。
街道へ出てから、彼女は平然とレオヴァンへ尋ねたのだ。
『それで、ビオランテはどちらだ?』
目的地の場所すら知らず、夜中に出発したのである。
行動力と呼ぶには乱暴すぎる。考えるより先に足が動き、足が止まってから周囲へ事情を聞く。セレスティアという女は、昔からそうだった。
「さて、レオヴァン」
当の本人は、旅の疲れなど微塵も感じさせない足取りで振り返った。
「私はビオランテ事件と、ラローレという人物について調べねばならん。お前は宿を手配しておけ」
何をどう調べるつもりなのか。誰に話を聞くのか。そもそもビオランテ事件について、どこまで知っているのか。
質問はいくらでも浮かんだが、レオヴァンは全部飲み込んだ。
「分かったよ、お姫様」
返事には隠しようのないうんざりが混じった。
「うむ。任せたぞ、爺や」
「誰が爺やだよ」
しかし、セレスティアは聞いていない。
肩を怒らせ、意気揚々と人混みへ突っ込んでいく。行き交う商人たちが驚いて道を空け、その金髪が雑踏の奥へ消えた。
レオヴァンはしばらく、その方向を見つめていた。
「……宿を見つける前に、あいつが厄介事を見つけなきゃいいけどな」
口にしてから、自分で無理だと悟る。
セレスティアは厄介事を見つけるのではない。
厄介事の方から、彼女を見つけるのだ。
◇
海面から跳ね返った陽光が、豪華客船の白い船体を眩しく照らしていた。
ルシュファリアを出港した船は、新大陸にあるカールフォードの街を目指し、穏やかな海を進んでいる。
昼間の最上甲板では、青く澄んだプールに乗客たちの歓声が絶えなかった。水着のルーシュとギルエルと水を掛け合い、その傍らではアエーシュモーが、濡れたくないのか日傘の下から一歩も動かずに二人を眺めている。
アエーシュモーの横にあるデッキチェアには、ギリエルが読んでいた芸能雑誌が置いてあり、雑誌の表紙の見出しに『大女優マリーゼ・モンローのランジェリーはシャネレの5番』と書かれていた。
アウグストゥスはデッキチェアへ腰を下ろし、その光景を静かに見守っていた。
夜になれば、船内は昼とは別の顔を見せる。
劇場ではミュージカルや歌劇、奇術、喜劇、ダンスショーが上演され、ピアノバーやジャズラウンジでは夜更けまで生演奏が続く。弦楽四重奏を聴きながら酒を楽しむ客もいれば、社交ダンスの会場で相手を替えながら踊り続ける者もいる。
航海中には、乗客がドレスや礼装に身を包むガラ・ナイトも予定されていた。特別料理、記念撮影、船長主催の歓迎パーティー。天候が良ければ、照明で飾られた最上甲板でデッキ・パーティーも開かれるという。
船へ乗り込んでからというもの、ルーシュの瞳は忙しなく輝き続けていた。
食事を必要とせず、眠ることさえ許されない彼女にとって、船内の催しは夜を埋める格好の玩具だった。
とはいえ、すべてを一晩で回ることはできない。
今夜は広間のテーブルで食事を取りながら、舞台で披露される奇術と生演奏を楽しむことになった。
「義父さま、見てください。あの方、帽子の中から鳥を出しました」
ルーシュが目を輝かせて舞台を指差す。
「見えているとも。だが、あれは帽子から出したのではない。袖の内側に――」
「旦那様」
ギルエルが慌てて口を挟んだ。
「仕掛けを説明してしまっては、面白くありません」
「そうかね」
「そうです」
ルーシュはアウグストゥスとギルエルを交互に見たあと、くすくすと笑った。
その向かいでは、アエーシュモーがグラスの縁へ指を這わせている。
「平和ですねえ」
歌声と拍手に包まれた会場で、彼女は場違いなほど冷めた声を落とした。
「海の上では、死体の捨て場所に困りませんから」
「食事中だぞ、アエーシュモー」
「失礼いたしました。では、食後にいたしましょう」
ギルエルが青ざめ、ルーシュは楽しそうに笑った。
アウグストゥスも口元を緩めたが、意識の一部は常に別の場所へ向けられている。
勇者たちが、いつ追跡を始めるか。
ルシュファリアに残した痕跡から、何を掘り起こすか。
自分が新大陸へ向かったと気づくまで、どれほどの時間があるか。
船の上に彼らの姿はない。今すぐ背後から肩を掴まれる心配もない。
それでも、追跡者が消えたわけではなかった。
ただ距離が開いただけだ。
だが今夜、その距離とは関係なく、この船では別の事件が始まろうとしていた。
アウグストゥスたちが拍手を送っていた頃、一等客室の一室では、男が果物ナイフへ手を伸ばしていた。
そして船の上空では光り輝く謎の発行体が、不気味な沈黙を保っていたが、気づく者は誰も居なかった。
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