背後に迫る黒い影
アレン転落事件が解決した後も、アウグストゥスたちはすぐには新大陸行きの船へ乗らなかった。
乗らなかったというより、乗れなかった。
「せっかく大きな街へ来たのです。観光もしないで船に乗るなんて、あまりにもったいないのですよ」
ギルエルがそう主張し、ルーシュが目を輝かせて賛成したためだ。
アウグストゥスとしては、一刻も早く魔王領へ入りたかった。
ザレイドからの追跡が、いつ始まってもおかしくない。
勇者ギルドの影響が薄い魔王領まで移動してしまえば、セレスティアたちも容易には手を出せなくなる。
ルシュファリアで余計な殺人事件へ関わった時点で、予定はすでに遅れている。観光などせず、その日の船へ乗り込むのが最善だった。
だが、長い船旅を終えたばかりのルーシュには疲れが残っていた。
休ませずに再び船へ押し込めば、拒食や不眠が悪化する恐れがある。
ルーシュの精神が不安定になれば、影の茨にも影響する。
安全に旅を続けるためにも、機嫌と体調を整える時間は必要だった。
「今日一日だけだ」
アウグストゥスが条件をつけると、ルーシュとギルエルは顔を見合わせ、何かの勝負に勝ったように笑った。
観光を始めて間もなく、ギルエルは通り沿いの屋台へ吸い寄せられた。
串焼き、魚介を煮込んだスープ、香辛料を練り込んだ揚げパン、果汁を凍らせた菓子。
目についた料理を片端から買い込み、広場の長椅子へ並べ始める。
「全部食べるつもりかね?」
「何を言っているのですか、旦那様。これは実食調査なのですよ」
「何のための調査だ」
「新大陸へ持ち込むべき料理を選ぶためです」
「屋台の料理を、どうやって持ち込むつもりなのだね」
「細かいことを気にすると禿げるのですよ」
「誰の頭を見て言った?」
ルーシュは二人の会話を聞きながら、小さく笑った。
初日に見せていた顔色の悪さは薄れている。
食事を口へ運ぶ量も、僅かではあるが増えていた。眠れているのか、瞼の下に残っていた影も幾分ましになっている。
アウグストゥスは表情には出さず、その一つ一つを記憶した。
屋台を回った後、ギルエルに手を引かれたルーシュは、通りに面した洋服店へ入った。
店内には新大陸へ向かう旅行客向けの商品が並び、帽子や薄手の外套に混じって、水着を扱う一角も設けられていた。
「義父様、見て」
ルーシュが桃色のワンピース型水着を胸元へ当て、鏡の前で身体を左右に動かす。
「これ、似合うかしら?」
「ああ。よく似合っているとも」
アウグストゥスは穏やかに微笑んだ。
同時に、目の動き、声の張り、頬の色を確認する。
無理にはしゃいでいる気配はない。
街へ到着した初日のような消耗も見えなかった。
この調子なら、明日か明後日には再び船へ乗せても問題ないだろう。
横から、抑揚の乏しい声が割り込んだ。
「まあ、旦那様」
アエーシュモーが、いつもの無表情で立っている。
「義理の娘とはいえ、あまりに真剣な目で見つめるのはいかがなものでしょう」
「体調を見ていただけだ」
「言い訳は不要でございます」
アエーシュモーは胸へ片手を当てた。
「ご安心ください。このアエーシュモー、口は堅うございます。お二人がどのような関係へ至ろうとも、決して口外いたしません」
「存在しない関係を秘密にするな」
「そちらの店員の方」
アエーシュモーが、わざわざ店の奥にいる店員へ声を張った。
「今の話は、どうか御内密にお願いいたします」
呼ばれた店員が、自分に用事があると思ったのか、困惑しながら近づいてくる。
「やめろ。なぜ毎回、話をそちらへ持っていく」
「わたくしは、旦那様とお嬢様の関係を応援しているだけで――」
アエーシュモーは言葉を切った。
「失礼いたしました。旦那様ほどの財力とカリスマをお持ちの方が、一人の女性で満足できるはずがありませんね」
「訂正して悪化させるな」
「仕方ありません。今夜はわたくしとギルエルも、お供いたしましょう」
冗談なのか、本気なのか。
声にも顔にも、判断できるものは何一つ浮かんでいない。
「ギルエルを勝手に巻き込むな」
「では、わたくしだけで我慢なさいますか?」
「店員が来る前に黙れ」
会話が聞こえる距離まで店員が近づいてきたため、アウグストゥスはアエーシュモーを無視し、ルーシュへ向き直った。
「新大陸行きの船は、稀人の技術を参考に設計されたらしくてね。甲板に水浴びのできる大きなプールがあるそうだ」
「船にプールがあるの?」
「ああ。水着を着たいのなら、気に入ったものを買っていくといい」
ルーシュの瞳が一段明るくなる。
「本当? なら、私、これにするわ」
水着を抱えたまま、ギルエルの腕を掴んだ。
「ギルエルのも選んであげる。こっちへ来て」
「あ、待つのです、お嬢様。店の中で走ると危ないのですよ」
ルーシュは構わず、ギルエルを水着が並ぶ棚へ引っ張っていく。
その足取りは軽い。
アウグストゥスは、口元を僅かに緩めた。
「仕方ありません」
アエーシュモーが二人の後を追う。
「そこまでわたくしの水着姿を御覧になりたいのでしたら、文字どおり一肌脱いで差し上げましょう」
「誰も頼んでいない」
「照れる旦那様も愛らしゅうございます」
「早く行け」
アエーシュモーは静かに一礼し、ルーシュたちの後を追っていった。
残された店員が、アウグストゥスと三人の女たちを交互に見ている。
「先ほどの話はすべて忘れたまえ」
「は、はい」
アウグストゥスは深く息を吐いた。
◇
翌日。
港に並ぶ切符売場には、新大陸へ渡る商人や旅行者が列を作っていた。
頭上の掲示板には、船名、出港時刻、客室の等級が記されている。
アウグストゥスはルーシュたちを少し離れた待合所へ残し、窓口で四人分の乗船券を購入した。
出港は翌朝。
行き先は新大陸。
その先には、勇者ギルドの目が届きにくい魔王領がある。
乗船券を受け取り、内容を確かめる。
予定どおり出港すれば、ルシュファリアでの足止めも終わる。
セレスティアたちが追跡を始める前に、海へ出られるはずだった。
アウグストゥスは乗船券を内ポケットへしまい、待合所へ戻ろうとした。
その背後。
切符売場の柱へ背を預けた黒衣の男が、新聞を広げていた。
新聞へ目を落としてはいる。
だが、一頁もめくられていない。
紙面の端から覗く細い目は、乗船券をしまうアウグストゥスの手と、待合所にいる三人の女を順番に追っていた。
義娘が一人。
女性の使用人が二人。
報告書の記載と一致している。
男は新聞の陰で、音もなく笑った。
アウグストゥスはまだ、その視線に気づいていない。
少なくとも、黒衣の捜査官にはそう見えた。
「新大陸行き、ですかぁ」
汽笛に紛れ、誰にも届かない声が落ちる。
アウグストゥスたちが港を離れるより先に、ニンザ・フルハタは行き先を突き止めていた。
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