ニンザ・レポート
ナーベルも部屋から追い出し、扉を封鎖した後。
ニンザは一人、割れた窓の前へ戻った。
眼下の死体には、まだ白い布が被せられている。
犯人はナーベルだろう。
少し揺さぶれば肩が動く。
質問を重ねれば説明が変わる。
煙草を減らしていたと言った直後に、メイドが灰皿を片づけたと言い出した。血痕の説明も、事故の決めつけも、何一つとして自然ではない。
明日一日あれば、口を割らせられる。
それは難しくない。
問題は、あの男だ。
アウグストゥス・オクタヴィアヌス。
死体を見ても動揺しない人間なら、これまでにも大勢見てきた。
犯罪者。
兵士。
治療師。
死に慣れた者の反応には、それぞれ理由がある。
だが、アウグストゥスは違った。
死に慣れているのではない。
他人の死を、人間一人が失われた出来事として見ていない。
傷の位置。
嘘をつく時の呼吸。
犯人の反応。
捜査官の話術。
すべてを同じ重さで観察していた。
罪悪感もない。
嫌悪もない。
殺人に惹かれている様子すらない。
悪意も死も、自分の目的に使えるかどうかで測っている。
そんな目だった。
(ナーベルに関しては、明日中に自白させられるでしょう)
ニンザは頭の中で、報告書を読み上げるように思考を整理する。
(それよりも、あの男は何者でしょうかぁ)
(いろいろな犯罪者を見てきましたが、あそこまで無機質に悪意を扱える人間は、初めて見ました)
(放置すれば、さらに誰かが死ぬ)
勘だった。
物証はない。
だが、長年捜査を続けてきた感覚が、耳元で警鐘を鳴らしている。
ナーベルは、追い詰めれば崩れる。
アウグストゥスは、追い詰められても笑う。
恐らく、その違いは致命的だった。
(これまでに犯した罪を暴き、必ず捕らえる必要があります)
(アウグストゥス・オクタヴィアヌス)
ニンザは割れた窓越しに、灰色の海を見た。
(貴方とは、長い付き合いになりそうですねぇ)
一拍置く。
(以上、ニンザ・フルハタでした)
頭の中で報告を締めくくる。
思考を整理するため、昔から続けている彼の癖だった。
その報告書にはまだ、事件名も、被疑者の本名も記されていない。
同じ頃。
四年前の死者を追うセレスティアは、雨の中をビオランテへ向かっていた。
そしてルシュファリアでは、ニンザ・フルハタがアウグストゥスを追い始めた。
二人はまだ知らない。
それぞれが掴んだ糸の先に、同じ男が立っていることを。
◇
一階へ降りると、玄関広間にルーシュたちの姿はなかった。
長椅子にも、受付付近にもいない。
もっとも、アウグストゥスは心配しなかった。アエーシュモーが先に宿泊手続きを済ませ、ルーシュを部屋へ連れていったのだろう。
受付カウンターへ向かい、帳簿を整理していた受付嬢に声をかける。
「失礼。先ほど、私の連れが部屋を取ったはずなのだが」
「少々お待ちください」
受付嬢が宿泊者名簿を開き、指先で記載を追う。
「三名様でスイートルームを一室、ご予約されていますね。それとは別に、シングルルームも一室取られています」
「シングルルーム?」
「はい。アウグストゥス・オクタウィアヌス様のお部屋として承っております。こちらのことでしょうか?」
帳簿には、ルーシュ、ギルエル、アエーシュモーの三人がスイートルーム。
アウグストゥスだけが、廊下の端にある狭いシングルルームとなっていた。
また、あの悪魔の悪ふざけか。
アエーシュモーは時折、何の利益にもならない嫌がらせを、呼吸するのと同じ気軽さで差し込んでくる。
「使用人の手違いですな。私もスイートルームへ泊まるので、シングルルームの方は取り消していただきたい」
「承知いたしました。差額の確認をいたしますので――」
受付嬢と二、三言やり取りしていると、背後から抑揚の乏しい声が割り込んだ。
「お嬢様との旅の最中に、若い女性を口説くのはお勧めいたしません」
アウグストゥスは振り返らず、目だけを閉じた。
「欲望の捨て場所をお探しでしたら、わたくしで我慢なさいませ」
受付嬢の手が止まる。
明らかに、アウグストゥスへ恥をかかせることだけを目的にした出鱈目だった。
「失礼、お嬢さん」
アウグストゥスは受付嬢へ向き直り、静かな声で告げた。
「あの使用人は、いつもこのような妄言を吐く。人間の言葉に似ているが、内容まで理解する必要はない」
「は、はい……」
「手続きが済んだのなら、私はこれで失礼する」
帳簿が修正されたことを確認してから、背後に立つアエーシュモーへ顔を向けた。
相変わらず、感情の抜け落ちた顔で立っている。
「それで、アエーシュモー。なぜ俺だけシングルルームなのかね?」
「旦那様と同じ部屋では、わたくしの貞操に危険が及ぶと判断いたしました」
「貞操の危機を訴える女が、欲望の捨て場所に自分を使えと言うのか」
「若い女性が旦那様の毒牙にかかるくらいなら、わたくしが犠牲になるほかありません」
「受付の娘を巻き込む必要はなかっただろう」
「目撃者がいなければ、旦那様が欲情した事実を証明できませんので」
「存在しない事実を証明しようとするな」
「では、これから存在させますか?」
アウグストゥスは小さく息を吐いた。
この悪魔との会話は、続けるほどこちらの品性だけが削れていく。
「もういい」
杖を突き、スイートルームへ向かって歩き出す。
アエーシュモーは一礼すると、その後ろを足音も立てずについてきた。




