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異世界倒叙サスペンス~サイコパス男爵とシリアルキラー姫~  作者: 諏訪 富二一(ふじいち)
2部

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現場検証

最上階の廊下には、階下の騒ぎがほとんど届いていなかった。


厚い絨毯が足音を吸い、壁際に置かれた魔石灯が淡い光を落としている。高級宿らしい静けさだったが、割れた窓から吹き込む風の音だけが、その静けさを乱していた。


仕事部屋の前で、ニンザが立ち止まる。


懐から白い手袋を取り出し、一本ずつ丁寧に指を通した。


「触ったものは、元へ戻さない。踏んだものは、踏む前には戻せない。ですのでぇ、足元にもお気をつけください」


先ほどまでのふざけた調子を残しながら、目は笑っていなかった。


ニンザはもう一組の手袋をアウグストゥスへ差し出す。


「貴方もどうぞ」


「私まで入る必要がありますかな?」


「ここまで来ておいて、今さら遠慮なさらずに」


「遠慮ではなく、面倒なのだがね」


「知っていますよぉ」


即答だった。


アウグストゥスはニンザの顔を見た後、手袋を受け取った。


ナーベルが扉を開ける。


室内へ入った瞬間、潮を含んだ風が三人の服を揺らした。


壁一面の大窓は中央部分が割れ、鋭い硝子の縁が外光を反射している。室内には重厚な机、絵画、大きな振り子時計、鹿の首の剥製が並んでいた。


豪華ではある。


だが、物が多すぎる。


客へ自分の財力を見せつけるために、高価な品を片端から詰め込んだ部屋だった。


ニンザは、まず窓へ近づかなかった。


入口付近に立ち、室内全体をゆっくり見回す。


床。


机。


壁。


絨毯。


時計。


剥製。


次に、窓から入る風で動くものを確認する。


アウグストゥスも同じように部屋を眺めた。


窓硝子の破片は、室内にはほとんど落ちていない。


破片の大半が外へ飛び散っている。


つまり、この窓は外側からではなく、室内側から強い力を加えられて割られた。


人間が走って衝突した可能性は残る。


だが、割れ方に対して室内が整いすぎていた。


窓へ向かって走ったのなら、進路上にある椅子や小卓が邪魔になる。避けて走ったにしても、なぜアレンは窓へ向かって全力で走ったのか。


事故と考えるには、理由が足りない。


ニンザは窓ではなく、鹿の剥製の前へ歩いた。


剥製の頬と、その後ろの壁を覗き込む。


「んふっ」


小さく喉を鳴らした。


「ここ、これは……もしかして、血ですかねぇ?」


壁に薄い赤色の染みが残っていた。


一度布で拭ったらしく、液体は横へ引き延ばされている。それでも完全には消えず、掠れた斑点が白い壁紙へ食い込んでいた。


鹿の毛にも、赤黒い粒が数滴こびりついている。


ニンザは顔を近づけたが、触れなかった。


「オーナー。こちらに心当たりは?」


「さあ……どうでしょう」


ナーベルの返答が、わずかに遅れた。


「私は何も知りません。この部屋を掃除したメイドに聞いてみてください」


先ほどまで滑らかだった言葉が、急に途切れ始めている。


アウグストゥスはニンザの隣へ立ち、染みを観察した。


血液の持ち主を特定できれば早い。


だが、この世界にはDNA鑑定がない。


魔法が便利すぎるせいで、精霊に尋ねれば済む、過去視を使えば済む、術式で探れば済むと考える者が多い。その結果、魔法が使えない状況へ放り込まれた途端、捜査能力は何世代も後退する。


便利なものに頼り切った文明は、それを奪われると幼児になる。


「確かに、何かを拭き取った跡がありますな」


アウグストゥスが言うと、ナーベルが急に目を見開いた。


「ああ!」


大声に、ニンザがゆっくり振り返る。


「思い出しました。私です。私の血ですよ」


「オーナーの?」


「ええ。少し前に、この辺りで転びましてね。鼻をぶつけて、鼻血を出したんです」


ナーベルは鹿の剥製を指さす。


「この鹿を見ながら考え事をしていたら、うっかり足が絡まりまして。こう、右足と左足が……」


自分の説明を補強するため、両足を不自然に交差させる。


危うく本当に転びかけ、慌てて壁へ手をついた。


「こういう具合です」


沈黙が落ちた。


ニンザは笑わなかった。


アウグストゥスも笑わない。


ナーベルだけが、乾いた笑い声を漏らした。


やがてニンザが何度も頷く。


「んふっふっふ。分かります、分かります。わたくしも中年になってから、どうも足が重くなりましてねぇ。何もないところで躓くことがあります」


「そうでしょう?」


ナーベルの顔に安堵が浮かぶ。


「ええ、ええ。怪我をしては大変ですから、今後はお気をつけください」


ニンザはにこやかに答えた。


追及しない。


血の染みについても、それ以上聞かなかった。


だが、アウグストゥスには分かっていた。


信じたのではない。


泳がせたのだ。


鼻血なら、血は床や衣服にも落ちる。


顔を剥製へぶつけたなら、剥製の角度や高さと傷の位置が合うか確認できる。何より、自分の仕事部屋の壁についた血を、最初は「知らない」「メイドに聞け」と答えた。


本当に自分の鼻血なら、忘れていたとしても、知らないと断定する前に考える。


ニンザは、その矛盾をわざと口にしなかった。


ナーベルへ、言い訳が通用したと思わせるために。


「ところでぇ」


ニンザがアウグストゥスへ顔を向ける。


「そこの貴方。お名前を伺っても?」


「アウグストゥス……オクタウィアヌスです」


ニンザの眉が上がった。


驚いたように見える。


だが、先ほどまでの仕草を見た後では、それすら演技に思えた。


「おんやぁ? 稀人《まれびと》の世界に、同じ名前の偉人がいたと聞いたことがありますねぇ」


「博学ですな、捜査官殿」


「もしかして、その方の子孫で?」


「残念ながら、まったくの他人です」


「そうですかぁ」


ニンザは目を細める。


名前そのものより、アウグストゥスがどう答えるかを見ていた。


「ちなみに、わたくしは稀人の子孫なんですよぉ。父方の祖父が稀人でしてねぇ。幼い頃から、向こうの世界の話をよく聞かされました」


「それで現場保全という考え方を?」


「それもあります。祖父は、見えない精霊より、残された汚れや傷の方が嘘をつかないと言っていました」


ニンザは、薄く残った赤い染みを見た。


ナーベルの指が、ズボンの縫い目を掴む。


「まあ、それはともかく。こちらへ」


ニンザは手招きし、割れた窓の前へアウグストゥスを呼んだ。


二人は硝子を踏まない位置に並ぶ。


眼下には、封鎖された玄関前と、アレンの死体を覆う布が見えた。


「ここから彼は落ちた」


ニンザが窓枠を覗く。


「どう思います?」


「先ほども申しましたが、ここから落ちたこと自体は事実でしょう」


「ほうほう」


「問題は、なぜ彼が窓硝子を突き破る必要があったのかです。自分で割ったのか。ぶつかって割れたのか。誰かが先に割ったのか。その順序が分かれば、事故か自殺か殺人か、かなり絞れるでしょうな」


「んっふ」


ニンザは窓の外ではなく、アウグストゥスを見た。


「事故かもしれませんよぉ」


試している。


事故の可能性を主張しているのではない。


アウグストゥスが、どこまで見えているのかを測っている。


アウグストゥスは窓枠に視線を落とした。


そこには、硝子だけでは説明できない、細い傷が残っていた。


だが、指摘はしなかった。


ニンザも指摘しない。


二人とも同じものを見つけている。


そして、互いに相手が口を開くのを待っていた。


犯人のナーベルを挟んだまま。


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