現場検証
最上階の廊下には、階下の騒ぎがほとんど届いていなかった。
厚い絨毯が足音を吸い、壁際に置かれた魔石灯が淡い光を落としている。高級宿らしい静けさだったが、割れた窓から吹き込む風の音だけが、その静けさを乱していた。
仕事部屋の前で、ニンザが立ち止まる。
懐から白い手袋を取り出し、一本ずつ丁寧に指を通した。
「触ったものは、元へ戻さない。踏んだものは、踏む前には戻せない。ですのでぇ、足元にもお気をつけください」
先ほどまでのふざけた調子を残しながら、目は笑っていなかった。
ニンザはもう一組の手袋をアウグストゥスへ差し出す。
「貴方もどうぞ」
「私まで入る必要がありますかな?」
「ここまで来ておいて、今さら遠慮なさらずに」
「遠慮ではなく、面倒なのだがね」
「知っていますよぉ」
即答だった。
アウグストゥスはニンザの顔を見た後、手袋を受け取った。
ナーベルが扉を開ける。
室内へ入った瞬間、潮を含んだ風が三人の服を揺らした。
壁一面の大窓は中央部分が割れ、鋭い硝子の縁が外光を反射している。室内には重厚な机、絵画、大きな振り子時計、鹿の首の剥製が並んでいた。
豪華ではある。
だが、物が多すぎる。
客へ自分の財力を見せつけるために、高価な品を片端から詰め込んだ部屋だった。
ニンザは、まず窓へ近づかなかった。
入口付近に立ち、室内全体をゆっくり見回す。
床。
机。
壁。
絨毯。
時計。
剥製。
次に、窓から入る風で動くものを確認する。
アウグストゥスも同じように部屋を眺めた。
窓硝子の破片は、室内にはほとんど落ちていない。
破片の大半が外へ飛び散っている。
つまり、この窓は外側からではなく、室内側から強い力を加えられて割られた。
人間が走って衝突した可能性は残る。
だが、割れ方に対して室内が整いすぎていた。
窓へ向かって走ったのなら、進路上にある椅子や小卓が邪魔になる。避けて走ったにしても、なぜアレンは窓へ向かって全力で走ったのか。
事故と考えるには、理由が足りない。
ニンザは窓ではなく、鹿の剥製の前へ歩いた。
剥製の頬と、その後ろの壁を覗き込む。
「んふっ」
小さく喉を鳴らした。
「ここ、これは……もしかして、血ですかねぇ?」
壁に薄い赤色の染みが残っていた。
一度布で拭ったらしく、液体は横へ引き延ばされている。それでも完全には消えず、掠れた斑点が白い壁紙へ食い込んでいた。
鹿の毛にも、赤黒い粒が数滴こびりついている。
ニンザは顔を近づけたが、触れなかった。
「オーナー。こちらに心当たりは?」
「さあ……どうでしょう」
ナーベルの返答が、わずかに遅れた。
「私は何も知りません。この部屋を掃除したメイドに聞いてみてください」
先ほどまで滑らかだった言葉が、急に途切れ始めている。
アウグストゥスはニンザの隣へ立ち、染みを観察した。
血液の持ち主を特定できれば早い。
だが、この世界にはDNA鑑定がない。
魔法が便利すぎるせいで、精霊に尋ねれば済む、過去視を使えば済む、術式で探れば済むと考える者が多い。その結果、魔法が使えない状況へ放り込まれた途端、捜査能力は何世代も後退する。
便利なものに頼り切った文明は、それを奪われると幼児になる。
「確かに、何かを拭き取った跡がありますな」
アウグストゥスが言うと、ナーベルが急に目を見開いた。
「ああ!」
大声に、ニンザがゆっくり振り返る。
「思い出しました。私です。私の血ですよ」
「オーナーの?」
「ええ。少し前に、この辺りで転びましてね。鼻をぶつけて、鼻血を出したんです」
ナーベルは鹿の剥製を指さす。
「この鹿を見ながら考え事をしていたら、うっかり足が絡まりまして。こう、右足と左足が……」
自分の説明を補強するため、両足を不自然に交差させる。
危うく本当に転びかけ、慌てて壁へ手をついた。
「こういう具合です」
沈黙が落ちた。
ニンザは笑わなかった。
アウグストゥスも笑わない。
ナーベルだけが、乾いた笑い声を漏らした。
やがてニンザが何度も頷く。
「んふっふっふ。分かります、分かります。わたくしも中年になってから、どうも足が重くなりましてねぇ。何もないところで躓くことがあります」
「そうでしょう?」
ナーベルの顔に安堵が浮かぶ。
「ええ、ええ。怪我をしては大変ですから、今後はお気をつけください」
ニンザはにこやかに答えた。
追及しない。
血の染みについても、それ以上聞かなかった。
だが、アウグストゥスには分かっていた。
信じたのではない。
泳がせたのだ。
鼻血なら、血は床や衣服にも落ちる。
顔を剥製へぶつけたなら、剥製の角度や高さと傷の位置が合うか確認できる。何より、自分の仕事部屋の壁についた血を、最初は「知らない」「メイドに聞け」と答えた。
本当に自分の鼻血なら、忘れていたとしても、知らないと断定する前に考える。
ニンザは、その矛盾をわざと口にしなかった。
ナーベルへ、言い訳が通用したと思わせるために。
「ところでぇ」
ニンザがアウグストゥスへ顔を向ける。
「そこの貴方。お名前を伺っても?」
「アウグストゥス……オクタウィアヌスです」
ニンザの眉が上がった。
驚いたように見える。
だが、先ほどまでの仕草を見た後では、それすら演技に思えた。
「おんやぁ? 稀人の世界に、同じ名前の偉人がいたと聞いたことがありますねぇ」
「博学ですな、捜査官殿」
「もしかして、その方の子孫で?」
「残念ながら、まったくの他人です」
「そうですかぁ」
ニンザは目を細める。
名前そのものより、アウグストゥスがどう答えるかを見ていた。
「ちなみに、わたくしは稀人の子孫なんですよぉ。父方の祖父が稀人でしてねぇ。幼い頃から、向こうの世界の話をよく聞かされました」
「それで現場保全という考え方を?」
「それもあります。祖父は、見えない精霊より、残された汚れや傷の方が嘘をつかないと言っていました」
ニンザは、薄く残った赤い染みを見た。
ナーベルの指が、ズボンの縫い目を掴む。
「まあ、それはともかく。こちらへ」
ニンザは手招きし、割れた窓の前へアウグストゥスを呼んだ。
二人は硝子を踏まない位置に並ぶ。
眼下には、封鎖された玄関前と、アレンの死体を覆う布が見えた。
「ここから彼は落ちた」
ニンザが窓枠を覗く。
「どう思います?」
「先ほども申しましたが、ここから落ちたこと自体は事実でしょう」
「ほうほう」
「問題は、なぜ彼が窓硝子を突き破る必要があったのかです。自分で割ったのか。ぶつかって割れたのか。誰かが先に割ったのか。その順序が分かれば、事故か自殺か殺人か、かなり絞れるでしょうな」
「んっふ」
ニンザは窓の外ではなく、アウグストゥスを見た。
「事故かもしれませんよぉ」
試している。
事故の可能性を主張しているのではない。
アウグストゥスが、どこまで見えているのかを測っている。
アウグストゥスは窓枠に視線を落とした。
そこには、硝子だけでは説明できない、細い傷が残っていた。
だが、指摘はしなかった。
ニンザも指摘しない。
二人とも同じものを見つけている。
そして、互いに相手が口を開くのを待っていた。
犯人のナーベルを挟んだまま。
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