第九話
目を開くと、見慣れた天井が視界に映った。自室のベットの上だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
ぼんやりとした頭のまま瞬きを繰り返す。窓の外からは、ざわざわと落ち着かない人の声が聞こえていた。
普段の朝みたいなのどかな音じゃない。どこか張り詰めた、居心地の悪い騒めきだった。
身体を起こそうとすると、ぐらりと視界が揺れる。
「っ……」
思わず額を押さえた。
頭の奥が重く、身体も鉛みたいにだるかった。それでも構わず起き上がり、ゆっくりと足を床へ下ろす。
その時になって初めて、ベッドの横へ布団が敷かれていることに気づいた。実里が、小さな寝息を立てながら眠っている。
布団へ身体を丸める姿はいつも通りで、頬にかかった髪も、抱きしめているタオルも見慣れたものだった。
その姿を見た瞬間、胸の奥が少しだけ緩む。
(俺、ちゃんと帰って来れてたんだ)
そう思いながら、実里を起こさないよう静かにそっとベッドを抜け出し、静かにカーテンを開けた。
窓の外には、軍のフロートカーが何台も停まっていた。見慣れた虫駆除用の大型車両まで来ている。軍服姿の人間が畑の周囲を歩き回り、何かを確認している姿も見えた。
でも、先日見たあの謎の機体はどこにもない。
(……夢だったのか?)
一瞬だけ、そう思う。けれど、その考えはすぐに打ち消された。
視線を少しずらした先に広がる畑は、見るも無惨な状態だったからだ。
地面は大きく抉れ、土は焼け焦げ、あちこちに巨大虫の死骸が転がっている。家族みんなで手入れしてきた畑は、嵐でも通り過ぎたみたいに荒れ果てていた。
夢なわけがない。あれは現実だった。
あの黒い服の連中も。
空を飛ぶ刃物も。
赤い血も。
全部、本当にあったことなんだ。ふと枕もとの時計へ目をやると、時間は十一時を過ぎていた。
「学校、行かなきゃ……」
自分でも驚くくらい自然に、そんな言葉が口から零れていた。
心が落ち着かなかった。
じっとしていると、あの時の光景ばかりが頭に浮かんでくる。黒い装束。空を飛ぶ刃。地面へ広がった赤い血。だからだろうか。頭は必死に“いつもの日常”をなぞろうとしていた。
学校へ行って、授業を受けて、創太と馬鹿話をする。そんな当たり前を繰り返していれば、全部なかったことにできる気がした。
クローゼットを開け、静かに制服へ着替える。袖へ腕を通した時、ふと違和感があった。
けれど、その時の俺には確かめる余裕なんてなかった。
頭の中は、あの赤い色でいっぱいだったから。
静かに部屋を出て、階段を下りる。家の中は妙に静かだった。いつもなら母さんの声や、実里の笑い声が聞こえてくる時間なのに、今日は空気そのものが重たい気がする。
扉を開けて外へ出ると、玄関横に創太が改造してくれたフロートボードが転がっていた。前方部分が大きく割れている。
胸の奥が嫌なふうにざわついた。あの時の光景が脳裏へ浮かびかけて、俺は慌てて視線を逸らす。
思い出したくない。
考えたくない。
倉庫横へ置かれていた古い自転車へ手を伸ばす。
昔、爺ちゃんが使っていたという自転車だ。今時こんなのに乗る人はほとんどいない。フロートが当たり前の時代に、タイヤで走るなんて効率が悪すぎるからだ。
それでも今は、ボードに乗る気にはなれず、自転車へ跨りペダルへ足をかける。
その瞬間だった。
ドサドサッ、と派手に物が落ちる音が響く。
振り向けば、母さんが目を丸くしてこちらを見ていた。足元にはスコップや工具箱が散らばっている。慌てて落としたんだろう。
「アンタ、なにしてんの?」
信じられないものを見るみたいな声だった。
その言葉に、できるだけ普通を務めて口を開く。
「学校行ってくる。帰ってきたら畑のことするから」
それだけ言って、今度こそペダルへ力を込めた。
「そんなことを言ってるんじゃないわよ! ちょっと、待ちなさい!」
母さんの声が背中へ飛んでくるけれど、俺は振り返らなかった。返事もしないまま、強くペダルを踏み込む。
古い自転車はギシギシと軋んだ音を立てながら走り出した。風が頬を撫でる。その冷たさが、少しだけ頭を冷やしてくれる気がした。
何も考えたくなかった。
家にいたら、母さんの顔を見たら、全部思い出してしまいそうだったから。
だから、とにかく自転車を漕ぎながら学校へ向かうも、街へ入ってからずっと、誰かに見られている気がしていた。
通り過ぎる人がこちらを見て、何かを囁き合う。息を呑むような気配も感じる。それでも俺は気づかないふりをして、ただ前だけを見てペダルを踏み続けた。
もし立ち止まったら、全部現実だって認めなきゃいけなくなりそうだったから。
そうして学校へ辿り着き、校門を潜った瞬間だった。
「天斗!?」
背後から、焦ったような大声が飛んできた。
振り向けば、クラスメイトの耕作が目を見開いてこちらを見ていた。まるで、ここに俺がいること自体がおかしいみたいな顔に、思わず首をかしげる。
だが、俺の名前が呼ばれた直後、周囲がざわつき始めた。
「えっ……」
「なんでいるの?」
そんな囁きがあちこちから聞こえてきた。向けられる視線には、好奇心だけじゃない色が混じっていた。
怯え。
警戒。
どこか気味の悪いものを見るような色。なんでそんな目で見られなきゃいけないのか。俺にはその理由がわからなかった。
戸惑いながら、俺は耕作へ目を向け口を開く。
「おはよ」
「おはよって……お前! こっち来い!」
耕作は焦った様子で俺の腕を掴み、そのまま早足で歩き出した。
連れて行かれたのは、ボード置き場の裏側だった。さっきの場所より人は少ない。それでも、こちらを気にして視線を向けてくる奴らはいる。
ヒソヒソと話す声が、風に混じって聞こえてきた。
「お前っ! 何学校来てんだよ!」
耕作は声を潜めているつもりなんだろうが、全然潜められていなかった。焦りと動揺がそのまま声に出ている。
俺は訳がわからないまま、再度首を傾げた。
「何でって、授業だから」
あっけらかんと答えた瞬間、耕作の表情がさらに引きつった。
「おまっ……まさか、知らないのか?」
「知らないって、なにを?」
そう返すと、耕作は頭を抱えるみたいに大きくため息をついた。
「マジかよ……」
呆れたように呟きながら、ポケットから携帯を取り出す。何やら慣れた手つきで画面を操作し、それを俺のほうへと突き出した。
映し出されていたのは、一枚の写真だった。
俺が、あの黒い服の男へ向かって斧を振り下ろそうとしている瞬間。
望遠で撮られたのだろうその写真は、画質は随分と粗い。それでも、知っている人間が見れば十分すぎるほど、俺だとわかる写真だった。
その写真を目にした瞬間、呼吸が止まりそうになる。
「……これ」
「ここ二、三日で一気に拡散した。学校で知らない奴、多分いねぇよ」
声がやけに遠く聞こえる。
「……二、三日?」
耕作の言葉が引っかかり、思わず聞き返していた。
昨日の朝、畑へ行って、虫が出て、あの機体が現れた。爺ちゃんが血を流して、俺が斧を振って――そこまでは覚えている。
なのに、どうして“二、三日”も経ってるんだ。
頭の中が、妙にぼやける。
記憶が途中から曖昧だった。何か大事なものが抜け落ちている感覚だけが、胸の奥に気持ち悪く残っている。
その時だった。
ボード置き場へ新しくやってきた男子生徒が、こちらを見て足を止める。
そして、俺と目が合った瞬間、短い悲鳴を漏らした。
「ひっ……!」
顔を引きつらせたまま踵を返し、そのまま逃げるように走り去っていく。
周囲がまたざわつき、ヒソヒソと囁く声が広がる。
その空気が、肌へじわじわとまとわりついてくるようだった。
(なんだよ、それ)
俺、そんな目で見られるようなことしたか?
……いや。
(した、のか)
頭の奥に、赤い血の色がちらつく。
無意識に指先へ力が入りかけた、その時だった。
逃げていった生徒と入れ替わるように、一人の教師がこちらへ歩いてくる。
先日、職員室で会った喜捨先生だった。その姿を見た瞬間、背筋が冷える。向けられた目に浮かんでいたのは、隠そうともしない敵意だったから。
「神代天斗。校長が呼んでいる。来い」
喜捨先生の冷え切った声が、ざわつく空気を切り裂くように響いた。
その背後には、こちらを見つめる無数の目がある。廊下側から覗き込む生徒、遠巻きに様子を窺う上級生、さらには教師まで混じっていた。
向けられる視線には、恐怖と警戒、そして好奇心が入り混じっている。
「……はい」
俺は小さく頷き、そのまま喜捨先生の後ろを歩き出す。
「本当に来たんだ……」
「怖……」
「なんで普通に学校来れるんだよ……」
聞こえないふりをしても、全部耳に入ってくる言葉たち。胸の奥がじわじわと重く沈んでいった。
「天斗」
後ろから耕作の声が聞こえる。
振り返ると、耕作が不安そうな顔でこちらを見ていた。
俺は無理やり口角を上げる。
「ちょっと行ってくる」
そう言って前を向き、喜捨先生へ近づこうとした瞬間だった。
喜捨先生がさっと広げた掌を俺へと突き出し、俺を制する。
「悪いが、それ以上近寄らないでくれるか」
思わず足が止まる。喜捨先生は眉を寄せたまま、はっきりと言った。
「私はお前を信用していない」
その言葉に、周囲の空気が一気にざわついた。
「やっぱり……」
「先生まで警戒してるじゃん……」
あちこちから漏れる囁き声が耳へ刺さる。胸の奥が鈍く痛んだが、俺は何も言わず小さく頷き、その場で足を止めた。
喜捨先生は、そんな俺の様子を見て鼻で笑う。
「行くぞ」
短く言い捨て、そのまま歩き出す。俺は少し距離を空けたまま、その背中を追った。
廊下を歩く間も、ずっと視線を感じていた。
それを感じるたびに、胸の奥がじわじわと冷えていく。
やがて辿り着いたのは校長室だった。
扉へ近づいた瞬間、中から声が聞こえてくる。ひとつは落ち着いた低い声。
「私は反対です!」
感情を露わにした怒声が室内へ響く。だが、それに返ってきたもう一つの声は静かだった。
「もう決まったことだ」
低く抑えられた声音には、反論を許さない重さがあった。それが聞こえているのかいないのか、喜捨先生は何事もないように扉をノックする。
「連れてきました」
その言葉と同時に、室内の気配がぴたりと止まった気がした。
数秒ほどの間を置いて、校長室の扉が静かに開いた。
中にいたのはやはり、入学式で壇上に立っていた校長と、先日職員室で顔を合わせた教頭だった。
校長は背筋を伸ばし、落ち着いた表情を浮かべている。年配ではあるが、その目には鋭さが残っていた。
一方、教頭のほうは明らかに様子が違った。
こちらを見た瞬間、ほんの少しだけ表情が揺れる。その眼差しには戸惑いと、少しの安堵が混ざっているように見えた。
室内へと足を踏み入れようとすると、さっきまで言い争っていた空気がまだ残っているのか、重苦しい沈黙が部屋全体へ張りついている。
その中で、校長が静かに口を開く。
「……よく来てくれた、神代くん」
俺は小さく頷き、校長室へ足を踏み入れた。




