第十話
校長室には、張り詰めた空気が流れていた。
俺は軽く一礼し、そのまま校長室へ足を踏み入れた。
校長は静かにこちらを見つめたあと、応接用のソファを指さす。
「よく来てくれた。そこに掛けなさい」
穏やかな声音だった。けれど、その奥にある緊張までは隠し切れていない。
「……はい」
短く返事をし、ソファへ向かおうとした時だった。校長が今度は喜捨先生へ視線を向ける。
「ありがとう。もういいよ」
その言葉に、喜捨先生は「失礼します」とだけ告げ、こちらを一瞥してから部屋を出ていった。
扉が閉まる。
その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
教頭はどこか落ち着かない様子で指を組み、校長は静かに俺を見ている。
まるで、何から話すべきか迷っているみたいだった。
俺がソファへ腰を下ろすと、向かい側へ校長がゆっくりと座った。その隣には教頭が腰掛ける。
広くはない校長室だったが、妙に距離を感じた。
教頭は一度こちらを見てから、どこか気遣うような表情を浮かべる。
「身体は大丈夫なのかい?」
その声だけは、さっき廊下で向けられた視線とは違っていた。普通に、生徒を心配する大人の声だった。
「あっ、はい。しっかり寝たので、スッキリしています」
そう答えると、教頭は眉を寄せる。
「二日間も寝込んだと聞いている。すぐに起きるのは辛いんじゃないか?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は目を瞬かせた。
二日間。
頭の中で、その言葉がゆっくり反響する。
(俺、二日も寝ていたのか)
あの出来事は、昨日のことだと思っていた。
畑へ行って、虫が出て、あの黒い連中が現れて――そこから先の記憶はぼやけているのに、感覚だけは昨日の続きのままだった。
だから、二日という言葉が妙に現実感を持たない。
そんな俺の反応が顔へ出ていたのだろう。向かいに座る校長と教頭も、揃ってわずかに目を見開いた。
短い沈黙が落ち、やがて、校長が小さく咳払いをした。
「神代天斗くん。君は今の状況を把握しているかい?」
低く落ち着いた声が、静かな校長室へゆっくりと響く。
俺は小さく首を振った。
「すみません。起きてすぐ、ここに来たので……」
そう答えると、校長は少し困った様に、小さく息を吐く。
その顔には、教師としての冷静さだけじゃなく、どう説明するべきか迷っているような色も浮かんでいた。
校長はスーツの内ポケットから携帯を取り出し、何度か画面を操作する。そして、その画面をこちらへ向けた。
映し出されていたのは、さっき耕作に見せられた写真だった。
黒い服の男へ向かって、俺が斧を振り下ろそうとしている瞬間。
改めて見せられると、胸の奥が嫌なふうにざわつく。まるで、自分じゃない誰かを見ているみたいだった。
「この写真が、既に広く出回っている」
校長の低い声が静かに響く。
「これはっ――」
俺は反射的に口を開いた。
何があったのか。あの時どういう状況だったのか。説明しなきゃと思ったのだ。
けれど、校長はそれを遮るように静かに手を上げる。
「私たちは、何があったのか、君がどうしてこのような行動を取ったのかを軍から聞いている」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から少しだけ力が抜けた。
(よかった。ちゃんと説明はされてるんだ)
俺が理由もなく暴れたわけじゃないことを、この人たちは知っている。
そう思った途端、今度は別の疑問が胸の中へ浮かび上がってくる。
なら、どうして。
どうして皆、あんな目で俺を見ていたんだ。
廊下で距離を取られて、怯えられて、まるで危険人物みたいに扱われていた理由がわからない。
思わず視線が揺れる。
そんな俺の様子を見ながら、校長は小さく息を吐き、ゆっくりと言葉を続けた。
「しかし、今回の件には守秘義務が敷かれている。私たち以外の者は、詳細を知らない」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「守秘……義務……?」
「あぁ。今回あったことは、すぐに国民へ知らせることはできない。事が事だ。何が起こったのか、相手は誰なのか、よく精査したうえで国が発表する。我々ではない」
「えっ。じゃあ、俺は……?」
自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。
校長は深く息を吐く。自分も苦しいのだと言いたげな表情を作っていたが、その横で教頭は、スーツのズボンに皺が寄るほど強く膝の上の布地を握りしめていた。
「神代天斗くん。君には、国から正式な発表があるまで休学――学校を休んでいただきたい」
「は……?」
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。胸の中で、いろんな言葉がぐるぐると回る。
なんで俺が。
俺は。
俺は、何をした?
守ろうとしただけだ。
爺ちゃんが血を流して、母さんと実里がシェルターにいて、あいつらがこっちへ来たら危ないと思って、それで。
それで俺は、斧を振った。
でも。
倒れた男の腹から流れていた血の色が、また頭の奥へ蘇る。
赤だった。
虫じゃなかった。
人間だった。
「君が悪くないことは、私たちも理解している」
校長は静かにそう言った。
「ただ、国が守秘義務を敷いている以上、あの写真を否定する方法が我々にはない。あれだけセンセーショナルな画像だ。生徒の中には怯えている子も少なくない」
そこで一度言葉を切り、校長は疲れたように目を伏せる。
「実際、保護者の一部からは“なぜ神代天斗は捕まっていないのか”という問い合わせも来ている」
その言葉が、胸へ重く沈んだ。
そんなふうに、思われているのか。
「混乱が落ち着くまでだ。その間だけ、何とか学校を休んでくれないだろうか」
最後には、“頼む”というように校長が頭を下げたその横で、教頭は苦しそうに顔を歪めている。
何だろう。
どうして俺が、こんなふうに頼まれてるんだ。
俺がしたことって――
あの時、自分の斧が確かに肉を断った感触まで蘇ってきて、胸の奥がぐちゃりと嫌な音を立てた気がした。
目の前が、ぐらりと揺れた気がした。
「っ……」
思わず額を押さえる。
まただ。
また、あの感覚が来る。
耳の奥で、ザワザワと虫が羽を鳴らすような音が響いていた。
今まで、学校にいてこんな感覚を覚えたことなんてなかったのに。
まるで背中の上を無数の何かが這い回っているみたいな、不快な感覚がじわじわと全身へ広がっていく。
冷たい汗が首筋を伝い、呼吸が浅くなる。
頭の奥が、気持ち悪いほど騒がしい。
「神代くん? ……神代くん、大丈夫か!?」
肩を揺すられ、はっと意識が戻る。
顔を上げれば、教頭が心配そうな表情で俺の肩を掴んでいた。
その顔を見た瞬間、自分がそれなりの時間頭を押さえ込んでいた事に気付く。
「あっ……すみません」
掠れた声でそう答えると、教頭はまだ不安そうに眉を寄せていた。
校長もそんな俺の様子を見ながら、小さく息を吐く。
「君も疲れているのだろう。この機会に、少しゆっくり休んだほうがいい」
その言葉は穏やかだった。けれど、“学校へ来るな”という意味なのは、ちゃんと伝わってきた。
その言葉に、気づけば俺は小さく頷いていた。
「……わかりました」
呼吸と一緒に、言葉が零れ落ちる。
その返事を聞いた瞬間、校長の表情がわずかに緩んだ。
「わかってくれて嬉しいよ。ありがとう」
「……いえ」
何に対して礼を言われているのか、自分でもよくわからなかった。
学校を休むことに納得したからなのか。問題を起こさず従ったからなのか。ぼんやりした頭では、そこまで考えがまとまらない。
すると、横からそっとハンカチが差し出された。
教頭だった。眉を寄せたまま、こちらを心配そうに見ている。
「随分と顔色が悪い。自宅まで送っていこう」
「ありがとうございます」
そう答え、俺は教頭と共に立ち上がり、校長室の扉へ向かう。教頭が先にドアノブへ手をかけ、ゆっくりと扉が開く。
すると、授業が始まっている時間のはずなのに、廊下には思っていた以上に多くの人がいた。
生徒も教師まで。
そして、その全員が俺を見ていた。
「うわっ、マジでいた」
「なんで捕まってないの!?」
「普通に学校来るとか、神経大丈夫?」
遠慮もなく飛んでくる言葉が、じわじわと胸へ刺さる。
教頭が「やめなさい!」と注意するように声を上げているが、その声さえどこか遠く感じた。
まるで自分だけ別の場所へ置いていかれたみたいだった。
頭がぼうっとする。
耳の奥では、またあのザワザワとした音が鳴っていた。虫が羽を擦り合わせるみたいな、不快な音。
思わず息が浅くなる。
気持ち悪い。そう思った瞬間だった。
バンッ!! と、重たいものを思い切り叩きつけたような音が廊下へ響き渡る。
一瞬で、その場が静まり返り、全員の視線が音のしたほうへと向く。
俺も反射的にそちらを見た。
廊下の先に立っていたのは、高峰と創太だった。
高峰の足元には、分厚い辞書が落ちている。
「あっ、悪い。落としちまった」
高峰は全く悪びれた様子もなくそう言いながら、足元へ転がった分厚い辞書を拾い上げる。
その間に、創太が真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
そして、俺の腕を強く掴んだ。
「天斗、迎え来てる」
短くそう告げると、そのまま俺の返事も待たず廊下を走り出す。俺も引っ張られるまま足を動かした。
背後ではまだざわめきが続いていたが、創太は振り返りもしない。
向かった先は裏門だった。
外へ出ると、遠くに見慣れた家のフロートカーが停まっているのが見える。その前には、腕を組んだまま立つ母さんの姿があった。
後部座席の窓には、実里がぺたりと張り付いている。
その姿を見た瞬間少しだけ肩の力が抜けそうになるが、俺の腕を掴む創太の手には、まだ強く力が入っている。
創太は前だけを見たまま、低く吐き出すように言った。
「おれ、あんなん信じてないから!」
怒鳴るみたいな言い方だった。
けれど、その声は少し震えていた。
横を見ると、創太は前を向いたままだったが、その目の縁は赤く染まっている。
泣いたのか。
俺のために。
視界が揺らぐ。胸の奥が熱くなって、何かが込み上げそうになるのを誤魔化すように、俺はぐっと拳を握りしめた。
「創太、ごめん」
「何が!」
創太が怒鳴るように返す。そして、今日初めてこちらを見た。
その顔には怒ったような色が浮かんでいたけれど、目の奥には別の感情が滲んでいる。
俺は困ったように眉尻を下げた。
「創太が改造してくれたフロートボード、壊しちゃった」
そう言葉にすると、一瞬、創太がぽかんとした顔をする。それから目を見開き、最後には困ったみたいに笑った。
「そんなん、また直すよ」
目尻が下がる笑みだった。もう、何年も見てきた顔。
畑仕事のあと一緒に笑って、夜中まで機械いじって、馬鹿みたいなことで騒いできた、いつもの創太の顔。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「それから……ごめん」
「次は何だよ」
創太は呆れたように言う。でも、その声音は優しかった。
だからこそ苦しかった。
「信じてくれてるのに、ごめん……」
喉の奥が引きつる。
それでも、一度零れた言葉は止まらなかった。
「俺、殺したんだ」
あの時の感触が、嫌になるくらい鮮明に蘇る。
斧が防具を割った音。
肉を断った感触。
「虫じゃなくて、人を」
地面へ広がっていった、赤い血。
「……殺せたんだよ」
思っていたよりも静かな声だった。
叫ぶでもなく、泣くでもなく、ただ事実を確認するみたいに、自分の口から言葉が落ちていく。
目の前にいた創太の目が、大きく見開かれた。
当然だ。
俺だって、まだ信じられていない。本当に自分が人を殺したのか。
本当に、あの瞬間、躊躇より先に斧を振れてしまったのか。
胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
それ以上、創太の顔を見ていられなかった。
「……ごめん」
もう一度だけ小さく呟き、俺は創太から視線を逸らす。
そして、そのまま一人で母さんたちの待つフロートカーへ向かって歩き出した。
振り返ることはできなかった。
もし今振り返って、創太の目に恐怖が浮かんでいたら。
怯えた色が滲んでいたら。
それを見てしまったら、きっと立っていられなくなる気がしたんだ。




