第十一話
車へ向かうと、フロートカーにもたれかかるように立っていた母さんが、こちらに気づいてゆっくりと身体を起こした。
そのまま何も言わず近づいてきたかと思えば――べしり! と、頭を叩かれた。
「いってぇ!」
思わず頭を押さえて目を白黒させる。
いや、今めちゃくちゃセンチメンタルな空気だったんだけど。
創太との空気とか、俺の心情とか、色々あったんだけど。
そんな抗議をする間もなく、次の瞬間には母さんの腕が俺の身体をぎゅっと抱きしめていた。
――何年ぶりだろう。
子供の頃はこうして抱きしめられることもあった気がする。でも、気づけばそんなことをされる年齢でもなくなっていた。
そっと背中へ手を回しながら、俺は少しだけ戸惑う。
……母さんって、こんなに小さかったんだな。
畑仕事をして、家のことをして、実里の面倒も見て。いつも怒鳴っていて、強くて、でかく見えていたのに。
けれど、今こうして抱きしめられると、思っていたよりずっと細くて軽かった。
そして不思議なことに、気づけばさっきまで耳の奥で鳴っていたザワザワした感覚が落ち着いていた。
虫の羽音みたいな耳鳴りも、背中を這い回るような不快感も、今だけは遠ざかっている。
そのことに驚くより早く、母さんはベリッと音がしそうな勢いで身体を離し、今度は俺の頬を両側からぐにっと掴んだ。
「まったくもう! まだ体調も万全じゃないのに! 心配させないでよっ!」
怒鳴っているのに、声が少し掠れている。
きっと泣いたんだろう。
そのことに気づいてしまって、俺は思わず眉尻を下げた。
「ごめん。迎えに来てくれてありがとう」
「はぁったく……。ほら、早く後ろ乗りなさい」
「うん」
ぶっきらぼうに言いながらも、母さんは何度も俺の顔色を確認している。
俺は小さく頷いて、後部座席の扉へ手をかけた。
「うん」
後部座席の扉を開け、中へ乗り込む。
すると次の瞬間、実里が勢いよく俺の腰へ抱きついてきた。
「おっと」
小さな身体がぎゅうっとしがみついてくる。見上げてきた目は赤く潤んでいて、今にも泣き出しそうだった。
その頭を撫でながら、ふと窓の外へ目を向けると、駆け寄ってきた教頭が母さんと何かを話していた。母さんは腕を組んだまま頷いたり、時々こちらを気にするように視線を向けている。
その様子をちらりと見たのに気づいたのだろう。実里が突然座席へ立ち上がり、今度は俺の頭へ抱きつくみたいに飛びついてきた。
「うわっ!」
「天兄! もう勝手に行っちゃダメ!」
叫ぶように言った瞬間、実里は堪えきれなくなったみたいにわあっと泣き出した。
今までずっと我慢していたんだろう。小さな身体が震えていた。
俺はそっとその身体を抱きしめ、実里の髪へ顔を埋めた。
「ごめんな。実里も迎えに来てくれてありがとう」
そう伝えると、実里は余計に大きな声をあげて泣き出してしまう。
(これはもう、何を言っても聞いてないな)
俺は実里の小さな身体を膝の上へ抱え直した。
泣き声が車内へ響く。
その声を聞いていると、不思議と少しだけ胸の奥が軽くなる気がした。
眉尻を下げながら実里の背中を撫でていると、運転席側の扉が開く音がし、母さんが車へ乗り込んできた。
母さんがシートへ腰を下ろし、扉を閉める。エンジンをかけると、低い駆動音と共にフロートカーがゆっくりと浮き上がり、車体は地面を滑るように走り出す。
実里は泣き疲れたのか、俺の胸へ顔を埋めたまま時折小さくしゃくり上げていた。俺はその小さな背中を抱き直しながら、窓の外へ視線を向ける。
学校の建物が遠ざかっていく。
さっきまで向けられていた視線や声が、まだ身体へまとわりついている気がした。
「どっか寄ったほうがいい場所ある?」
バックミラー越しに母さんと目が合う。
その問いに少しだけ考えたが、すぐに首を横へ振った。
学校での皆の様子を思い出す。
あの空気を思うと、今は外を歩き回らないほうがいい。そんな考えが自然と頭に浮かんでいた。
「大丈夫」
「そう」
母さんはそれ以上何も聞かなかった。静かな車内に、駆動音だけが小さく響いている。
しばらくすると、実里はいつの間にか寝息を立て始めていた。泣き疲れたのだろう。俺は膝の上へ収まる小さな身体の重みを感じながら、その頭をそっと撫で続ける。
やがて車は市街地を抜け、畑の多い区域へ入った。
その瞬間だった。
耳の奥で、またザワザワとした音が広がる。
虫の羽音みたいな、不快な音。
それだけじゃない。
今度は、地面の下で何かが蠢いているような感覚まで混じっていた。見えない何かが土の中を這い回っているような気配が、じわじわと皮膚の裏側へ染み込んでくる。
思わず身体が強張る。
ちらりと母さんと実里を見るが、二人とも普段と変わらない。母さんは何事もないように運転していて、実里は安心しきった顔で眠っている。
つまり、この音は俺にしか聞こえていない。その事実に気づいた瞬間、喉がひくりと鳴った。
俺は小さく唾を飲み込む。
胸の奥で、嫌な予感だけが静かに広がっていった。
家の前へ着くと、フロートカーは静かに高度を下げ、そのまま滑るように停止した。
母さんがエンジンを切る。
辺りはいつもと変わらない家の景色なのに、どこか俺の世界だけがズレてしまったような感覚が消えない。
眠ったままの実里をそっと抱き上げ、家の中へ運んだ。小さな身体は驚くほど軽い。泣き疲れたのだろう。腕の中でも起きる気配はなく、時折小さく寝息を漏らしている。
二階の部屋へ連れていき、布団へ寝かせる。髪が顔へかからないように軽く整え、静かに部屋を後にした。
階段を下りながら、ずっと胸の奥へ引っかかっていたことが頭を過る。
爺ちゃん。
あの時、確かに斬られていた。腹の辺りを深く。
血だって流れていた。
なのに、家へ帰ってきてから母さんはその話を一度もしていない。まるで何事もなかったみたいに、普通に動いている。
嫌な汗が背中を伝った。
一階へ下りると、母さんは台所で片付けをしていた。流しへ食器を置く音がやけに響く。
その後ろ姿を見つめながら、俺は一度大きく深呼吸をした。
聞かなきゃいけない。
怖くても。
「母さん……爺ちゃんは?」
その言葉に、母さんがゆっくり振り返る。
心臓が痛いほど音を立てていた。
母さんはすぐには答えず、何かを考えるように視線をさまよわせる。そのほんの数秒の沈黙ですら妙に長く感じた。
もしここで、“もういない”と言われたら。
もし、自分の知らないところで取り返しのつかないことになっていたら。
そんな想像ばかりが頭をよぎる。
やがて、母さんが口を開いた。
「んー……今の時間なら畑じゃない?」
「……へ?」
あまりにも予想外な返事に、間抜けな声が漏れた。
母さんはそんな俺の反応を不思議そうに見ながら、普通の調子で続ける。
「畑が酷い有様だからねー。次の植え替えのために片付けしてくれてるはずよ。軍の人も手伝ってはくれてるんだけどね」
あっけらかんと話す母さんに、開いた口が塞がらない。
畑?
片付け?
何を言ってるんだ。
「えっ!? 畑って……入院とかは?」
「入院? お義父さんが?」
母さんはきょとんとした顔をしたあと、今度は呆れたように大きくため息を吐いた。
「倒れてたのはあんただけでしょ! それよりも、あんたはもう一回布団に行きなさい! 起きたらすぐお医者さん呼ぼうと思ってたのに、勝手に学校行くんだから!」
そこからは怒涛だった。
「先生にはもう連絡してあるの! もうすぐ来てくれるはずだから! ほら、さっさと部屋戻る!」
訳が分からなかった。
ただ、背中を押されるまま、俺は二階の自分の部屋へ戻る。
言われるまま布団へ潜り込んでも、頭の中は全然整理できなかった。
耳の奥では相変わらずザワザワとした音が鳴っている。
布団を頭まで被ってみても、その音は遠ざからない。
虫の羽音みたいな不快な感覚が、ずっと頭の奥へまとわりついていた。
「……どうなってんだよ」
小さく呟いた声は、布団の中へ沈んで消える。
爺ちゃんは、俺の目の前で確かに腹の辺りを斬られていたはずだった。
俺が切られたのは腕だけだ。それなのに、こっちは二日も寝込んでいた。
なのに爺ちゃんは、腹を斬られておいてもう畑仕事をしている?
そんなのおかしいだろ。
考えれば考えるほど頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
その時だった。
ふと、嫌な違和感が胸を掠める。
「……あ」
俺は勢いよく身体を起こした。
布団がばさりと落ちる。
慌てて服を脱ぎ、斬られたはずの腕を見る。
けれど、そこには傷跡どころか薄い痕すら残っていなかった。
まるで、何事もなかったみたいに。
「意味……わかんねぇ」
掠れた声が漏れる。
理解が追いつかない。
あの時、確かに斬られた感触はあった。血も流れていたし、痛みだってあった。なのに今は何も残っていない。
それが妙に怖かった。
まるで自分の身体じゃないみたいで。
ざわざわと、また耳の奥で虫の羽音みたいな感覚が広がっていく。地面の下を何かが這い回っているような、不快な気配まで混じり始め、漠然とした恐怖が胸の内側をじわじわと満たしていった。
その時だった。
階下から複数の足音が聞こえてくる。
ゆっくりと階段を上がってくる音。
やがて部屋の前で止まり、コンコン、と控えめなノックが響いた。
「天斗ー。先生来てくれたわよ」
母さんの声に続き、扉がゆっくり開く。
顔を出したのは母さんと、昔から世話になっている病院の先生だった。




