第十二話
「うん。まだちょっと貧血気味っぽいけど、ほかは問題ないね」
おじいちゃん先生が、おおらかに笑う。
昔から世話になっている町医者の先生だ。小さい頃に熱を出した時も、畑で転んで怪我をした時も、いつもこんな調子で笑っていた。
その変わらない姿を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
けれど、胸の奥に引っかかっている違和感だけは消えなかった。
俺は少し迷ったあと、意を決して口を開く。
「あの、音っていうか……その、幻聴? みたいなのが聞こえて」
自分で言っていて、嫌な気分になる。まるで本当に頭がおかしくなったみたいだった。
先生はそんな俺の言葉にも慌てる様子はなく、「ふむふむ」と小さく頷きながら俺の耳を診察し、頭へそっと触れた。
それから何度か確認するように視線を動かし、また穏やかに頷く。
「二日前に診た時も、特に頭を打ってそうな感じはなかったんだけどねぇ。今回は色々あったみたいだから、心がちょっと疲れちゃったのかもしれないね。少しホッとできるお薬を出しておこうか」
先生はそう言って、安心させるように優しく笑った。
その顔を見ていると、「違う」と言うことができなくなる。
俺に聞こえているこの音も、気持ち悪さも、全部ただの疲れや思い込みなんじゃないか。そんな気さえしてきて、俺は曖昧に頷いた。
けれど、その瞬間ふと頭に浮かぶ。
爺ちゃんのことだ。
俺は慌てて顔を上げた。
「先生は、爺ちゃんも診察したの?」
「ん? 宙路さん?」
先生は少しだけ目を丸くしたあと、首を横に振る。
「特に問題ないって言ってたから診てないよ。どうして?」
その言葉に、隣で話を聞いていた母さんが勢いよく身を乗り出してきた。
「あんた、さっきも言ってたわよね!? お義父さんなんかあったの!? 頭打ったとか?!」
ものすごい勢いで問い詰められ、思わず身体が引く。
「いや……頭っていうか……腹が……」
勢いにのまれ、自然と声が小さくなった。
そう答えると、母さんはきょとんとした顔で首を傾げた。
「お腹? 特に問題なさそうだけど……毎日三食しっかり食べてるし。何なら、いつもより食べてるぐらいよ」
「そうなの?」
思わず聞き返すと、母さんは「えぇ」と大きく頷いた。
「昨日の夜だって、肉がいいとか言ってたし。あの歳であれだけお肉食べられるのって、才能よね~」
呆れ半分、感心半分みたいな口調だった。
すると横で聞いていた先生も、ほほっと笑う。
「わかりますなぁ。儂も昔は肉が好きだったんだけど、最近は少しで十分になってしまってねぇ。いやはや、宙路さんが羨ましいですな」
「あらー、先生まだまだお若いのに」
そんなふうに二人は朗らかに笑い合う。
けれど、俺だけはその会話についていけなかった。
頭の中がぐらぐらする。
だって、俺は確かに見たんだ。
爺ちゃんの腹へ剣が入るところを。
血が流れていたところを。
なのに、今は“肉を食べすぎる元気なお年寄り”みたいな話になっている。
意味がわからない。
そんなふうに朗らかに話す二人の姿を見ていると、ますます理解が追いつかなくなる。
いったい、俺の記憶はどこまでが本当で、どこからが妄想なんだ。
爺ちゃんは本当に斬られていたのか。
それとも、俺が勝手にそう思い込んでいただけなのか。
考えようとした瞬間、視界の奥がぶわりと赤く染まった。
「っ……!」
頭の中へ、またあのザワザワした音が流れ込んでくる。
虫の羽音みたいな不快な音。
それが今度は耳の奥だけじゃなく、脳みその内側を掻き回すみたいに響き始めた。
気持ち悪い。吐きそうだ。
思わず口元を押さえながら蹲る。
「いやだ、ちょっと! 天斗、大丈夫!?」
母さんが慌てたように肩を掴み、顔を覗き込んでくる。
けれど、まともに返事をする余裕もなく、頷くので精いっぱいだ。
そんな俺の様子を見ながら、先生が静かな声で口を開く。
「これ、気持ちを和らげる薬だから。飲んでみて」
そう言いながら、先生は俺の掌へ薬を置き、反対の手には水の入ったコップを握らされる。
俺は藁にもすがるような気持ちで、その薬を飲み込んだ。
喉を通っていく感覚だけが妙に生々しい。
それを見届けると、先生はひとつ小さく頷き、今度は母さんへ顔を向けた。
「少しお話を……。天斗君は寝られそうなら、そのまま休んでいてね。お大事に」
「わかりました。なんかあったら、すぐ呼ぶのよ!」
母さんもそう言いながら立ち上がると、二人はそのまま部屋を出ていった。
扉が閉まり、足音が廊下を遠ざかっていく。
けれど――
その声は、なぜかはっきり聞こえていた。
普段なら絶対に聞こえない距離のはずなのに。
「このまま様子を見て、もし幻聴が収まらないようなら、隣町の大きな病院を受診してください。あそこなら精神科もありますし……。今回のことは、天斗君に負担が大きかったのでしょう」
先生の声が、ため息混じりに聞こえる。
母さんは少し間を空けてから、「わかりました」と答えた。
それから玄関が開く音がする。
やがて扉が閉まり、家の中は静かになった。
――はずなのに。
耳の奥では、いつまでもあの音が鳴り続けていた。
ざわざわ。ざわざわ。と。
虫の群れがどこかで蠢いているみたいな、不快な音だけが頭の中へ響き続ける。
俺はゆっくり目を閉じ、そのまま布団へ潜り込んだ。けれど、布団を被っても音は消えない。
まるで頭の中へ直接響いてくるみたいだった。
「……俺、おかしくなったんかな」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
もし本当に、自分だけがおかしくなっているんだとしたら。
もし、見たものも聞いたものも全部、自分の妄想だったら。
そんな考えが浮かぶたび、身体の奥が冷えていく。
漠然とした恐怖が胸の中へじわじわ広がっていた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
気づけば窓の外は暗くなっていて、遠くから鳥の鳴き声が聞こえていた。
途中、一度だけ実里が部屋をノックしに来た。
「天兄……?」
不安そうな声だった。けれど、今の自分ではうまく笑える気がせず、会うのは怖かった。
「悪い……今は無理」
そう返すと、扉の向こうはしばらく静かになり、やがて小さな足音だけが遠ざかっていく。
こんなこと、初めてだった。
実里を追い返したことなんて、今までなかったのに。
胸がじくりと痛む。
父さんがいたら、話を聞いてくれただろうか。
農家をしながら研究職にも就いていた父さんは、“わからないこと”を突き詰めるのが好きな人だった。
虫のことも。
土のことも。
この島の環境のことも。
なんで俺たちが虫を食べても平気なのか、そんなことまで真面目に調べていたっけ。
子供の頃は難しい話ばかりしてくるから、正直よくわからなかった。でも父さんは、俺が適当に返事をしていても楽しそうに話していた。
もし今、父さんがここにいたら。
この音のことも、俺の身体のことも、何かわかったんだろうか。
そんなことを考えているうちに、胸の奥へどうしようもない寂しさが広がっていった。
ふいに、頬へ冷たい感触が落ちる。
「えっ……?」
無意識に頬へ触れると、その指先が濡れていた。
「……俺、泣いてる?」
そう気づいた瞬間、堰を切ったみたいに涙が溢れ出し、止まらなかった。
怖かったんだ。
わけがわからなかった。
いつもみたいに虫を駆除するだけのはずだった。それなのに、突然わけのわからない連中が現れて、空を飛ぶ刃物を使って、人を殺そうとしてきて。
逃げたかった。
本当は怖くて仕方なかった。
でも逃げたら、爺ちゃんも、母さんも、実里も危ない気がして。
だから俺は、斧を握った。
初めて、人へ向けて。
頭の奥で、学校で聞こえた声が蘇る。
『なんで捕まってないの?』
『普通に学校来るとか無理』
『人殺しじゃん』
「殺人鬼じゃん」
誰が言ったのかはわからない。
実際に聞いた声なのか、自分の頭の中で勝手に響いているだけなのかも、もうわからなかった。
でも、その言葉だけは嫌になるほど鮮明に胸へ刺さってくる。
俺は人を殺した。
虫じゃない。
人を。
そう思った瞬間、呼吸がうまくできなくなって、涙と一緒に嗚咽が漏れた。
「うっ……うぅ、うぐっ……」
涙を止めようとしても止まらなかった。嗚咽が漏れるたび、胸の奥が痛む。
俺はこれからどうすればいいんだ。
学校にも行けなくなって。
人を殺して。
頭までおかしくなったかもしれなくて。
そんな状態で、これから普通に生きていけるのか。
考えれば考えるほど苦しくなって、涙ばかりが溢れてくる。
「……とうさん」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。
その瞬間だった。
バタン! と勢いよく扉が開く。
驚いてそちらを振り向くと、部屋の入り口には爺ちゃんが立っていた。
いつもと変わらない顔で。まるで何事もなかったみたいに、そこへ立っている。
「天斗、散歩に行くぞ。ついてこい」
爺ちゃんは、それだけを当たり前みたいに言った。




