第六話
朝起きて、畑へ行く準備を整えていると、また足に衝撃が走った。
見下ろせば、昨日と同じように実里が俺の足へしがみついている。ただし今日は様子が違った。目はきりっと吊り上がり、口は尖っている。小さな身体いっぱいで怒りを表現していた。
「実里ー。可愛い顔が大変な事になってるぞ」
「天兄、昨日遊んでくれなかった……」
恨めしそうな声に、俺は思わず苦笑する。
昨日は御影さんとの話が長引いたせいで、結局ほとんど遊べなかった。実里からすれば大問題だろう。
「ごめんって! 今日は絶対、帰ったら遊ぶから!」
「絶対だよ!」
「おー! 絶対! 指切りしよ」
そう言って差し出された小さな指に、自分の小指を絡める。柔らかくて細い指だった。
「約束破ったら?」
「針千本飲みまーす」
「よろしい!」
満足したように実里が頷く。偉そうな顔が妙に可愛くて、思わず頭をわしゃわしゃ撫でると、「髪ぐちゃぐちゃー!」と怒られた。
「んじゃ、俺畑行ってくるわ」
「頑張れ兄ちゃーん」
玄関先で実里が両手をぶんぶん振る。その向こうでは、母さんが作業用の上着を羽織りながらこちらを見ていた。
「後で母さんも行くから。東側の畑から水やりお願い」
「おけー」
返事をして、俺は倉庫へ向かう。朝露の残る地面を踏みしめるたび、草の匂いがふわりと立ち上った。
倉庫から農機具を取り出していると、離れの方から爺ちゃんが出てくる。無言のまま近づいてきたかと思うと、いつも自分が使っている斧を俺へ差し出した。
「ん。これ持っていけ」
差し出されたのは、刃に細かな傷が無数についた古い斧だった。柄の木も黒ずみ、長年使い込まれているのがわかる。
「え? なんで? これ、じいちゃんが使ってるやつじゃん」
「昨日よりざわついている感じがする。念のため持っていけ」
低い声でそう言われ、俺は思わず眉をひそめた。
「いや、俺のあるけど」
視線を向けた先には、小型フロートトラックの荷台へ積んである自分用の斧がある。比較的新しいし、手入れもしている。普通に考えればそっちの方が使いやすい。
だが、爺ちゃんは俺の言葉を気にした様子もなく、持っていた斧をそのまま荷台へ放り込んだ。
ガコン、と鈍い音が響く。
「こっちのほうが丈夫だ」
それだけ言って、爺ちゃんはさっさと離れ側の畑へ歩いて行ってしまった。
「いや、これのほうがボロいじゃん……」
つい、荷台に転がる年季の入った斧を見ながら零す。けれど返事は返ってこない。
朝靄の残る畑の向こうで、爺ちゃんの背中だけが小さくなっていく。昔からああだ。一度言い出したら、人の話なんて聞かない。
俺は肩をすくめ、そのままトラックへ乗り込んだ。
エンジンを入れると、反発鉱石を積んだ車体がふわりと浮き上がる。低い駆動音を鳴らしながら、俺は東の畑へ向かった。
東の畑へ着くと、まず水遣り用フロートを起動させる。箱型の機械がふわりと浮かび上がり、設定された範囲をゆっくり移動しながら水を撒き始めた。
朝日に照らされた水滴が細かく弾け、畑の上へ薄い虹が浮かぶ。
その間に俺は雑草を抜き、伸びすぎた苗を間引き、倒れかけた支柱を立て直していく。土を触ると、まだ夜の冷たさが少し残っていた。
鳥の鳴き声と、水が撒かれる音だけが辺りへ広がる。
いつもの朝だ。
……本当なら。
「ふぅ……」
腰を伸ばしながら、俺は東の森へ視線を向けた。
この街は島の端に位置していて、あの森を抜ければ“淵”へ出る。
島の外周――空へ切り落ちた崖の果てだ。
淵の近くは、下から吹き上げる風が強い。気流も不安定で、慣れていない人間が近づけば簡単に足を取られるらしい。
だから住民は滅多に近づかない。
子供が不用意に行かないよう、淵に沿って森を残してあるとも聞いたことがある。
朝の風に揺れる木々をぼんやり眺めていると、不意に胸の奥がざわついた。
言葉にしづらい感覚だった。
音が聞こえたわけでもない。
何かが見えたわけでもない。
それでも、森の奥からじわじわと嫌な気配が滲んでくる。
肌の内側を、虫が這うみたいな感覚だった。
(これが、爺ちゃんが言っていた虫の気配か?)
そんな考えが頭をよぎる。
けれど、はっきりとはわからず、ただ何となく、落ち着かないだけだった。
俺は首をひねりながら、また作業へ戻った。
雑草を抜き、土を均し、水の流れを確認する。単純作業を繰り返していると、遠くから低い駆動音が近づいてくるのが聞こえた。
顔を上げれば、昨日見た軍の大型フロートトラックが畑道を走ってくる。
土煙を巻き上げながら停止した車両から降りてきたのは、御影さんだった。
相変わらずデカい。
その後ろでは、数人の隊員たちがフロートボードへと足をかけ、軽く浮かび上がった機体が森の方へ滑るように進んでいく。
見回りだろうか。
御影さんは、その様子をしばらく見届けてから、こちらへ歩いてきた。
「おはようございます。神代くん」
「天斗でいいですよ。爺ちゃんも神代ですし。見回りですか?」
「えぇ。事前に種類だけでもわかれば幸いだと思いまして」
そう言いながら、御影さんも森へ視線を向ける。
軍人ってもっとガサツなイメージだったけど、この人は妙に落ち着いていた。声も低くて聞き取りやすいし、話し方も丁寧だ。
「へぇ、種類が変わったら何かあるの?」
「武器が変わります。特に飛ぶタイプなのか、地中に潜るタイプなのかは重要ですね」
「あー、なるほど」
言われてみれば確かにそうだ。
地中型なら地面ごと止める必要があるし、飛行型なら遠距離武器も必要になる。俺は基本、斧と杭でどうにかしてきたから、その辺あまり深く考えたことがなかった。
感心して頷いていると、御影さんが少し不思議そうにこちらを見る。
「天斗君も、農作業中に虫駆除をすることがあるんですよね。昨日の動きも随分慣れていましたし。普段はどう対処しているんですか?」
その質問に、俺はフロートトラックへと歩み寄り、荷台に積んであった斧と杭を取り出し、そのまま掲げて見せた。
「基本これかな」
答えた瞬間、御影さんの目がわずかに見開かれる。
「……それだけですか? 地中を潜る虫も、空を飛ぶ虫も関係なく?」
「んー。爺ちゃんが教えてくれたの、これだけだったし」
俺は斧を肩へ担ぎながら続ける。
「数日前にムカデが出たんだけど、その時も杭で動き止めて、斧で切ったかな」
すると御影さんが、ぴたりと動きを止めた。
「……あれは、貴方が倒したんですね」
低い声だった。
御影さんは片手で口元を押さえ、何か考え込むように黙り込む。
その姿に、俺は思わず首を傾げた。
(そんな変なこと言ったか?)
ムカデなんて畑やってれば別に珍しくもない。デカかったけど、放っておいたら畑を荒らされるし、倒すしかない。
けれど御影さんは、しばらく難しい顔のまま固まっていた。そのまま眺めていても動く気配がない。
「……?」
やっぱりよくわからない。
俺は肩をすくめ、再び雑草抜きの作業へ戻った。
土へ指を差し込み、根ごと雑草を引き抜く。ぷつり、と小気味いい感触が指先へ伝わった。
プチプチと手際よく雑草を抜いていると、不意に森の奥で鳥たちが一斉に飛び立った。
黒い影が空へ散る。
その瞬間だった。
森の奥で、空気そのものが爆ぜた。
ドゴォン――!!
腹の底を揺らすような轟音が響き、遅れて衝撃が届く。地面が大きく震え、木々が激しく揺れた。
「っ!?」
思わず顔を上げる。
続けざまに、メキメキメキ――! と嫌な音が森の奥から響いた。太い木が何本もへし折られていく音だ。
そして数秒後。
森の中が、動いた。
「……う、わ」
思わず声が漏れる。
大量の虫が、森の中から一斉に湧き出してきた。
羽音が空気を埋め尽くす。バッタ。羽蟻。甲虫。
大小入り乱れた黒い群れが、森の上空を覆うようにうごめいていた。
今まで見たことのない光景だった。頭が理解を拒否し、ただ圧倒され、俺はその場へ立ち尽くした。
すると次の瞬間、身体がふわりと浮く。
「え?」
気づけば御影さんに抱え上げられていた。
そのまま強引にフロートトラックの運転席へ押し込まれる。
「すぐに家へ戻ってください。家に非常用シェルターありますよね? ご家族とすぐにそこへ」
「へ? え? ……わかったけど、御影さんは?」
ようやく意識が現実へ戻る。
問いかけると、御影さんは森の方を鋭く睨んでいた。落ち着いた雰囲気が消えている。
「隊員たちは大型武器を持って行っていません。それに、虫が先ほどのような爆発を起こすこともない。何か不測の事態が起きています」
低い声が、妙にはっきり耳へ届く。
「すぐに救援が来るはずです。ですが、それまでここで出てくる虫を抑えます。……ただ、数が多すぎる。確実には防ぎきれない」
御影さんは一度こちらを見る。
「ですので、すぐにご家族へ知らせてシェルターへ」
その真剣な眼差しに、俺は頷くことしかできなかった。
バン、と扉が外から閉められる。その音でようやく我に返り、震える手でエンジンを入れた。
フロートが浮き上がる。
「あぁ、もう、おっせぇ!」
思わず叫びながら、アクセルを限界まで踏み込んだ。フロートトラックは、創太が改造してくれたフロートボードみたいな速度は出ない。
それでも、走るよりはずっとマシだ。
車体が低く唸り、畑道を滑るように駆けていく。振動で荷台がガタガタと鳴り、積まれた農具が跳ねた。
家にある非常用シェルターは、あくまで避難場所へ間に合わなかった時の一時避難用だ。
地面へ埋め込まれた鉄の箱。
最低限の非常食と水は入っているけど、長期間立てこもるような場所じゃない。
俺はちらりとバックミラーを確認し、思わず舌打ちした。
「多すぎる……」
後方では、大量の虫が空を埋め尽くしていた。まるで黒い波のようだった。
あんな量、見たことがない。
嫌な汗が背中を伝う。
家へ到着すると、俺はトラックから飛び降り、玄関へ駆け出しかけて、ふと荷台の斧が目に入る。
「あっ」
反射的にそれを掴む。
爺ちゃんの斧だった。
そのまま家の中へ飛び込むと、母さんが既にシェルターの扉を開け、非常食や水を中へ放り込んでいる最中だった。
(さすが判断が早い。)
足音に気づき、母さんと実里が同時にこちらを見上げた。
「天兄!」
実里が泣きそうな顔で駆け寄ってくる。
「天斗! なんなの、さっきの音!」
母さんの声にも焦りが滲んでいた。
俺は走ってきた実里を抱き上げ、そのままシェルターの中へ降りていく。
鉄製の梯子が、カン、カン、と乾いた音を立てた。
地下はひんやりとしていて、狭い空間に非常食や水の箱が積まれている。母さんも慌てた様子で後から降りてきた。
「音はわかんない。軍の人も不測の事態だって言ってた」
自分でも驚くくらい早口になる。
「厄介なのは、その音に反応して大量の虫が湧き出たことだ。大型のバッタも多かった。絶対ここから出ないで」
そう言って、そっと実里を床へ下ろす。実里は不安そうな顔で俺の服を掴んでいた。
その小さな手を優しく外し、俺は再び梯子へ足をかける。
「ここから出ないでって……あんたはどこ行く気なのよ!」
母さんの鋭い声が飛んだ。俺は手に持った斧を少し持ち上げる。
「これ、爺ちゃんの斧なんだ」
「は?」
「爺ちゃんがここにいないってことは、虫の駆除しようとしてるってことだろ。だから、ちょっと渡してくる」
母さんの顔色が変わった。
「駄目よ! ここに居なさい!」
「すぐ戻るから!」
叫ぶように言い返し、俺は梯子を駆け上がる。
「天斗っ!」
背後から母さんの声が追いかけてくる。けれど足は止めなかった。
地上へ出ると、俺はすぐにシェルターの重い扉を閉める。
ガン、と鈍い音が響いた。
爺ちゃんは、きっとこの騒ぎを聞きつけて東の森側へ向かったはずだ。
あの人が、虫を前にして大人しくシェルターへ籠もるとは思えない。
そして斧は、武器は大事だ。
長年使い込んだ武器は、ただの道具じゃない。重さも、振り心地も、身体に染みついている。
戦うなら、慣れた武器の方がいい
だから、届けなきゃいけない。
ふと、父の顔が脳裏をよぎった。
優しく笑っていた顔。
病気で痩せていった横顔。
最後まで「大丈夫だ」と言っていた声。
胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。
「……これ以上、家族を亡くしたくない」
誰に聞かせるでもなく呟き、俺は斧を握り直した。
遠くでは、まだ羽音が響いている。
空気が震えるほどの、大量の虫の羽音だった。




