第四話
「おはようございまーす」
学校へ到着し、そのまま教室へは向かわず、先に職員室へと足を向けた。
朝の職員室は慌ただしい。
書類を抱えて歩く教師。コーヒーの匂い。古い扇風機の回る音。そんな中を通り抜け、一番奥の席まで進む。
教頭は眼鏡をかけたまま書類へ目を通していたが、気配に気づき顔を上げた。
「1-C、神代天斗です」
「神代……あぁ」
眼鏡を外しながら、思い出したように頷く。
神代家は昔、神職を務めていた家系らしい。今ではただの農家だが、年配の人間ほどその名前へ妙な反応をすることがあった。
「爺ちゃんが、週末あたりに虫の大群が出る可能性があるって言ってます」
その瞬間、職員室の空気がわずかに変わった。
さっきまでは聞こえていたペンを動かす音が止まった。
振り向けば、顔を上げる教師たち。
ざわ、と小さく広がった空気を抑えるように、教頭が近くの教師へ視線を向ける。
「近隣の小学校と中学校にも共有してください。避難準備も進めるように」
「はい」
短く指示を出してから、教頭は再び天斗へ向き直った。
「連絡をありがとう。軍には?」
「昨日の夜、母さんが連絡しました」
「そうですか。ありがとうございます。念のため、こちらからも連絡しておきますね。喜捨先生、軍へ連絡をお願いします」
教頭が近くにいた別の教師へ声をかけると、その教師は露骨に顔を歪めてから返事をした。
「害虫駆除係にですか?」
その鼻で笑うような言い方に、俺は思わず眉間にしわを寄せた。
教頭の目がすっと細くなる。
「おや。喜捨先生が代わりに駆除してくださると?」
一段低くなった声に、喜捨先生は慌てて電話機を持ち上げた。
「い、いや、ははっ。連絡しておきます」
その様子を見て、天斗は思わず鼻で笑ってしまう。
すると、喜捨先生がこちらを睨んできたので、天斗も反射的に睨み返した。
職員室の空気が少しピリつきかけたところで、教頭が小さく咳払いをする。
「神代くん」
呼ばれて視線を向けると、教頭は先ほどより柔らかい目をしていた。
「伝えに来てくれてありがとうございます。おかげで事前の準備ができます」
「いえ。じゃあ失礼します」
軽く頭を下げ、職員室を後にした。
廊下を歩いて教室へ向かっていると、少し前方に高峰の姿が見えた。
俺は口元をにやりと歪め、歩く速度を上げる。そのまま追い抜きざまに高峰の後頭部をベシリと叩いた。
「いだっ!? なんっ……何すんだコラ! 天斗てめぇ聞けや!!」
背後から怒鳴り声が飛ぶ。
その声に一瞬だけ振り返ってあっかんべーをすると、そのまま俺は教室へと駆け込んだ。
午後登校のホームルームが始まると、担任が教卓へ立ち、教室を見回した。
「今週末、大型虫の群れ移動が発生する可能性があります」
その一言で、教室がざわつく。
「マジかよ……」
「またバッタ系かな」
「やだなぁ……」
そんな声があちこちから聞こえる。
担任は手元の資料を見ながら言葉を続けた。
「すでに軍へは連絡済みです。不安のある家庭は、金曜日から学校への避難も可能となっています」
大型虫は種類ごとに特性が違う。
噛みつくもの。毒を持つもの。群れるもの。飛ぶもの。
サイズが大きいというだけで、脅威としては十分だった。
また、小型の虫は自身から人間に襲い掛かることはないが、大型の虫は別だ。
人間を餌と感じているのか、敵と感じているのかは不明だが、こちらを見つけると襲い掛かってくる。
そのため学校には、大型虫災害用の避難設備が備えられている。
校舎地下に埋め込まれた大型反発鉱石が周囲へ干渉し、巨大虫の体内にある反発鉱石と反発し合うことで、一定規模までの虫なら校舎へ近づきにくくなる仕組みだ。
避難場所として学校が指定されているのも、そのためだった。もっとも、こうした設備はかなり高額だ。
市街地にも広範囲用の反発石設備は設置されているが、あくまで被害軽減用に過ぎない。一般家庭へ防壁設備まで導入できる家は少なく、大抵の人間は軍へ頼るしかなかった。
だからこの国では、巨大虫が出れば軍を呼ぶ。
それが当たり前だった。
教室では、「避難どうする?」だの「バイト休みになるかな」だの、クラスメイト達が思い思いに話し始めている。
そんな声を聞き流しながら、ふと窓の外へ視線を向けた。
昨日見た、あの黒い影。
島みたいにも見えた、空の染みみたいなもの。
目を彷徨わせてみるも、今日はどこにも見当たらない。
(なくなってる)
只々、青空だけが広がっていた。
(やっぱ鳥だったのか? それか虫?)
考えながら空を眺めていると、授業開始のベルが鳴った。その音に小さく息を吐き、意識を前へ戻した。
そして放課後。
授業が終わり、ボード置き場へ向かって歩いていると、背後から声が飛んできた。
「天斗っ!」
振り向けば、創太がこちらへ走ってくるところだった。
「おー創太。終わったん?」
「俺等も終わりー。一緒に帰ろうぜ」
「おう」
創太は歩きなので、ボードを手に取り二人で並んで歩き出す。
途中でコンビニへ寄り、天斗は揚げたてのチキンを、創太は菓子パンを買った。袋をぶら下げたまま、だらだら食べ歩く。
放課後の市街地は、昼より少しだけ空気が柔らかい。
買い物帰りの人。畑へ戻る農家。学校帰りの学生。フロートボードが風を鳴らしながら横切っていく。
そんな景色の中を抜け、畑の多い地域へ差しかかった時だった。
悲鳴が聞こえた。
甲高い声。
反射的に視線を向けると、同じ制服を着た女子生徒が後ずさっていた。
二人の目線の先には、巨大な蟻がいる。その距離約5メートルほどか。
黒い外殻。鎌みたいな大顎。サイズは、ほぼ人間と変わらない。
女子生徒は震える手で噴射型の殺虫剤を向けていたが、このサイズでは効くまで時間がかかる。
もう一人の生徒が、手に防犯用の電磁棒も取り出してはいるが、距離を詰めなければ意味がない。
(数が増えると厄介だな)
「ちょっと、コレ持ってて」
天斗はカバンとチキンを創太へ押し付け、そのまま腰へ差していた護身用警棒を引き抜いた。
カシャン、と伸縮音が響く。
「お、おい天斗っ!?」
創太の声を背中で聞きながら、天斗は地面を蹴った。
足音に気づいたのか、蟻の顔がこちらを振り向いた、その瞬間を狙って、大きく跳ぶ。渾身の力を込め、警棒を蟻の頭部へ叩き込んだ。
ガツンッ!! と硬い感触が腕へ響く。
人間なら頭蓋が割れていてもおかしくない一撃だったが、巨大虫の外殻は硬い。蟻はよろめきながらも、まだ動いている。
だが、構っている暇はない。
そのまま踏み込み、開きかけた大顎を両手で掴んだ。
「っ、ぐ……!」
ぎちぎち、と嫌な音を立てながら顎が閉じようとする。そのまま挟まれれば、腕くらい簡単に持っていかれるだろう。
けれど、俺は警棒をその口の中へ突っ込み、支えにするようにして、無理やり顎が閉じるのを押さえ込んだ。
「ちょっとコレ貸して!」
女子生徒の手から殺虫剤をひったくり、そのまま蟻の口内へ突っ込む。
ノズルを引けば、白い噴射煙がぶしゅうっと吹き出した。
蟻が耳障りな鳴き声を上げ、暴れ狂う。
それでも俺は全身の力を使って暴れる身体を抑え込みながら、蟻の口内へと殺虫剤を吹き込み続けた。
その時だった。
「そのまま抑えておいてください」
頭上から、妙に落ち着いた声が降ってくる。
反射的に顔を上げた瞬間、視界へ飛び込んできたのは、陽光を反射する長い刃だった。
包丁にも見える、異様に長い刀身。
次の瞬間。
蟻の首が、音もなく落ちた。
「おぉ……」
あまりの切れ味のよさに、思わず感嘆が漏れる。
さっきまであれだけ暴れていた巨体が、あっさりと沈黙した。
蟻の口から腕を引き抜き、身体を起こすと、そこには軍服姿の男が立っていた。
(おぉ、デカ)
素直にそう思う。
身長百七十五センチある自分が見上げるくらいには高い。
しかも、ただ大きいだけじゃない。
肩幅も胸板も分厚く、軍服の上からでも体格の良さがわかる。すっきりとした黒髪が夕日に照らされ、輪郭だけが淡く光っていた。
目鼻立ちもはっきりしていて、いかにも“強そうな大人”という雰囲気がある。
思わずしげしげと見上げていると、相手の視線もこちらへ向いた。
「危険な行動は控えていただきたい」
「へ?」
予想外の言葉に、間抜けな声が出る。
男は、真面目な顔のまま言葉を続けた。
「結果としては無事でしたが、君の行動は非常に危険です。特にこのサイズの蟻型は、大顎に挟まれれば腕を失う危険もあります」
低く落ち着いた声だった。
「なのに、自ら口へ手を突っ込むのは危険すぎる」
いきなり説教が始まり、天斗は思わずぽかんと口を開ける。
すると横から、さっき助けた女子生徒と創太が慌てたように割って入った。
「待ってください! ウチらはおかげで助かったんで!」
「天斗が間に合わなかったら、何があったかわかりませんよ!?」
「ウチら怖くて動けなかったんで! 助かりましたけど!」
三人とも、天斗を庇うように言葉を紡ぐ。だが当の本人はというと――
(まっ、マトモな大人ー!)
内心、妙な感動をして、思わず口を手で覆うという乙女なポーズまで披露してしまっていた。
昔から爺ちゃんに虫の前へ放り出されて育ったせいで、「危ないからやめろ」と真面目に怒られる経験がほとんどない。
母親も最初こそ止めていたが、いつの間にか感覚が麻痺していた。
だからこそ。こうやって本気で危険を心配して説教してくれる大人が、なんだか新鮮だった。
「心配してくれて、ありがとうございます!」
思わず満面の笑みでそう言うと、軍人さんは虚を突かれたように目を瞬かせた。
一瞬だけ、完全に固まり、どこか気まずげに目線を逸らす。
横では、俺をかばって声をあげてくれていた創太が、戸惑った声を漏らした。
「えっ、そういう感じ?」
だが気にはしていられない。俺はふと、軍服へ視線を向けた。
「もしかして、今週末の為の見回りですか?」
「あぁ」
軍人は小さく頷く。
「今週末に虫の大群が出る可能性があると伺ったので。偶然皆さんを見かけることができて幸いでした」
そう彼が答えている間にも、後方へ停まっていた軍の大型フロートカーから数人の隊員が降りてきた。
手慣れた動きで蟻の死骸を専用袋へ包み込み、別の隊員達は周囲へ薬剤を散布し始める。
蟻型はフェロモンで仲間へ様々な情報を伝える。
もしこの個体が人間を“餌”として認識していた場合、このままでは別個体まで寄ってくる可能性があった。だから軍は、駆除後の匂い消しまで徹底する。
その無駄のない動きを見ながら、うんうんと無意識に頷く。
(やっぱ軍ってすげーな)
そう思いながらふと視線を落とすと、自分の手には、女子生徒から借りた殺虫スプレーがまだ握られていた。
ハッと隣の女子生徒へ振り返り、そのスプレーを掲げる。
「あっ、ごめん。これ全部使い切っちゃった」
焦ってそういうも、その子は笑いながら軽く手を振った。
「全然大丈夫。むしろありがとうね。助かったよ。鍛冶くんのお友達なんだよね?」
「そー! 幼馴染の神代天斗」
俺の肩へと手をかけながら、創太が答える。
それに軽く頷いていると、ふと頭上に影が落ち、後ろからぬっと手元を覗き込まれた。
「失礼だが、このタイプのスプレーは、これぐらい大型の虫には効きづらいです」
そう言いながら、その人は俺の手からスプレーを抜き取り、缶のラベルを確認する。
「可能なら、もう二、三段階上のものを携帯した方が良いですよ」
蟻を切った軍人さんがそうと告げると、女子たちは少しだけ頬を膨らませる。
「わかってはいるんだけど、高いよね。それに重くて持ち運び辛いし」
学生用の小型スプレーは値段が高い。
大型虫対応になればなるほど薬剤も強くなり、缶自体も重くなるし値段も高額だ。毎日持ち歩くには中々大変なのだ。
その言葉に、軍人さんは困ったように眉を下げた。
その時だった。
「よかったらこれ使って」
横から別の軍人がひょいっと小型缶を差し出す。
「強力小型版」
「えー!? これめっちゃ高いやつじゃん!」
「大群出るかもだし、お守りってことで。特別ね」
にこっと笑うその軍人は、最初の軍人さんより少し若そうで、愛想もいい。
「横山君……」
最初の軍人さんが少し呆れたようにため息を吐く。だが本気で止めるつもりはないらしい。
女子生徒達は「やった!」と嬉しそうにスプレーを受け取っていた。
結局、最初の軍人は諦めたように小さく息を吐き、横山さんへ指示を出す。
「まだ他にも仲間がいないとは限りません。この方々をご自宅まで送ってください」
「わかりました。行きましょうか」
「はーい!」
「らっきー」
楽しそうに話しながら、女子生徒達は横山さんと一緒にフロートカーへ向かっていく。
それを見送ってから、最初の軍人さんがこちらを振り返った。
「では、貴方方は私が送ります」
「えっ? 俺達も?」
「別に大丈夫だけど」
そう返すと、軍人の視線が天斗へ向いた。
「先ほど、お友達が“神代”と呼んでいましたね」
「あー、うん」
「私達は今回、通報をいただいた神代家へ向かう予定なんです」
その言葉に、天斗は納得したように頷く。
「なるほど、俺ん家だ。じゃあお言葉に甘えてお願いします」
「お願いしまーす」
創太も軽い調子で続き、二人は軍の大型フロートカーへ足を向けた。




