第三話
俺は、幼少期に爺ちゃんへ虫を食わされたことがある。
それも、特大のカブトムシの幼虫だ。
ある日、小学校から帰ると、爺ちゃんが庭で肉を焼いていた。炭火の上でじゅうじゅうと脂を鳴らすそれは、やたら美味そうに見えて、子供だった俺は何も考えず「ちょうだい」と言った。
すると、普段はケチな爺ちゃんが珍しく、
「全部食べていいぞ」
なんて言いながら皿ごと差し出してきたのだ。
喜んで食べた結果、俺はその後、一週間ほどトイレと熱烈な友情を育むことになる。
「うちの爺ちゃんって、ヤベェよな」
夕飯後。居間でぼやくと、台所で食器を片付けていた母さんが振り返った。
「何よ急に」
「やべーやべー」
テーブルの向かいでは、実里がクレヨンを握ったまま俺の言葉を真似して笑っている。
「いや、今日学校で、虫食って倒れた芸人の話になってさ」
そう言うと、母さんは「あぁ」と呆れたように息を吐いた。
「あんたの時は、運よくお腹壊すだけで済んだけど、本当あの時はお義父さんをどうしてやろうかと思ったわ」
「いや、フライパンでぶん殴ってたじゃん」
「あんたに何かあったら、それだけじゃ済まなかったわよ!」
鼻息荒く言う母さんに、愛されてるなぁ俺、としみじみ思う。
実里は机いっぱいに描いた絵を俺へ見せながら、「これ、天兄!」と得意げに笑っていた。丸い頭に棒みたいな手足がついた、だいぶ独創的な俺だ。
「じゃあこれは猫な」
空いていたスペースへ猫の絵を書き足すと、実里がぱっと顔を輝かせる。
「わぁっ!」
嬉しそうに笑う頭を撫でながら、俺は心の中で固く誓った。
もし万が一、爺ちゃんが実里に虫なんか食わせようとしたら、殺してでも止める。
……勝てるかな、俺。
「にしても、長男に虫食わせるのが先祖の習わしとか、狂ってるのはお義父さんだけじゃなくて、この家よ」
母さんは呆れたように肩を落とす。
初耳だった俺は、思わず顔を上げた。
「えっ? そうなの?」
「そうよ。アンタのお父さんも、小さい頃にお祖父ちゃんから食べさせられたんですって。“長男の役目”とか何とか言って」
「よく無事だったね」
五年前に亡くなった父さんは、俺や爺ちゃんと違って線の細い人だった。畑に出ていても、どこか本を読んでいる方が似合うような雰囲気があったのを覚えている。
「本当にね。何なのかしら。遺伝的に強いとかあるのかしらね」
母さんのその言葉に、俺はふと思い出した。
爺ちゃんも、父さんも、俺も。
妙に虫へ気づくのが早い。
「そういえば、俺も爺ちゃんも父さんも、虫に気づくの早いけど、それも関係あんのかな?」
首を傾げると、母さんも食器を拭く手を止めて同じように首を傾げた。
「虫を食べたら、虫に気づきやすくなるってこと? 何よそれ。それこそ呪いみたいじゃない」
「まぁ、農家としては助かるけどね」
そんな力を一家相伝してるってことか? とか考えていると、くい、と袖を引っ張られた。
見ると、実里が不安そうな顔でこちらを見上げている。
「天兄、呪われたの?」
泣きそうな目だった。
その顔を見た瞬間、俺の胸は簡単に撃ち抜かれる。
勢いよく立ち上がり、そのまま実里を抱き上げた。
「天兄が呪われるわけないだろー! 元気ピンピンだよ!」
そのままぐるぐる回ると、実里がきゃっきゃと声を上げて笑う。
軽い。
まだ小さくて、柔らかい。
この笑顔を守るためなら、大体のことは頑張れる気がした。
「天兄は元気だから、実里が大きくなったらちゃんと結婚できるからなー」
俺がそう言った瞬間、背後で母さんが「あっ」と声を漏らした。
ん? と振り向くより先に、実里がにこにこと笑いながら口を開く。
「みのりは、ユーゴくんと結婚するから、もう天兄との結婚は辞めとく」
「はっ?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
後ろからは母さんの「あーー……」という、諦めのような声が聞こえてくる。
知ってたな?
知ってて黙ってたな?
「実里は兄ちゃんと結婚するって言ってなかったか? ユーゴくんって誰かな?」
できるだけ優しい笑顔を作りながら問いかけると、実里は不思議そうに首を傾げた。
「でも、ユーゴくんは将来エンジニアになるんだって。エンジニアは高収入だから、好きなもの何でも買ってあげるよって言ってた!」
ぐさっ――!
見えない何かが胸に突き刺さる。
しかも深い。
致命傷だ。
俺がその場で崩れ落ちると、母さんがとうとう吹き出した。
「現実見てるわねぇ、実里」
「でも、でも兄ちゃんの方が絶対実里に優しいはずだ! だから兄ちゃんと結婚したほうがいいよ!」
「でも、ミサちゃんが“優しいだけの男はダメ”って言ってたよ。それに、天兄とユーゴくん両方と結婚するのは、重婚になって法律違反なんだって」
「っつ!!」
なんて話をしてるんだ五歳児!!
思わず床へ両手をつき、その場で崩れ落ちる。愛とか恋とかじゃなく、すごく現実的な理由で振られた。
しかも法律まで出てきた。
精神ダメージが深い。
そんな俺を見下ろしながら、母さんがパンパンと手を叩いた。
「はいはい、もう良いから。実里、お風呂入る準備しなさい!」
「はーい!」
元気よく返事をすると、実里はぱたぱたと隣の部屋へ走っていく。
小さな背中を見送りながら、俺はゆっくり顔を上げた。
「なぁ、ユーゴってもしかして、高峰ユーゴ?」
「……それを知ってどうするのよ?」
「ちょっと、ぶっ殺しに……」
言い切る前に、母さんのスリッパが頭へ炸裂した。
「痛っ!!」
「物騒なこと言わない!」
(しょうがない。なら兄だけでも明日学校で締めよう。)
そんなことを真顔で考えていると、後ろの襖がすっと開き、離れの方から爺ちゃんが顔を出す。
難しそうな顔をしたまま、爺ちゃんは俺と母さんを順番に見た。
「週末あたり、大群が来そうだ。軍に連絡しといてくれ」
それだけ言うと、ぱたん、と静かに襖が閉じた。
居間にはテレビの音と、洗い物をする水音だけが残る。
俺と母さんは顔を見合わせた。
「やっぱ爺ちゃんって異常だよな」
「そうね」
二人同時にため息を吐く。
けれど母さんは、そのまま本当に軍へ連絡するつもりらしく、エプロンで手を拭きながら電話機へ向かっていった。
それが、この家の普通だった。
爺ちゃんの“勘”は、だいたい当たる。
窓の外では、夕暮れがゆっくり畑を染め始めていた。
遠くの空には、今日もいくつもの浮島が見えている。
そのどこかで、今も誰かが暮らしているのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら、俺は床へ転がったスリッパを拾い上げた。




