第三十一話
巨大なニワトリは、まるで虫でも啄むように、船へ向かって大きく口を開けた。
だが、羽依さんが高度を上げてくれていたおかげで、その嘴が船体を捉えることはなかった。
開いた嘴が、俺たちのすぐ下をかすめていく。
窓越しでもわかるほど大きな黄色い嘴と、ぎょろりとした目。羽ばたきひとつで森の木々が大きく揺れ、折れた枝葉が宙へ舞った。
「うわっ……!」
思わず声が漏れる。
飛び上がった巨大なニワトリは、そのまま地面へ落ちるように着地した。太い脚が森の中へ沈み込み、周囲の木々がまとめてなぎ倒される。けれど、船に届かないとわかったのか、それとも最初から大した興味もなかったのか、巨大な鳥は首を一度大きく振ると、木々の間へ紛れるようにして静かに姿を消していった。
船の中に満ちていた緊張感が、ぷつりと切れる。
最初に声を上げたのは、朝陽だった。
「びびったー! 何だあれ!」
続いて、凪が胸を押さえながら息を吐く。
「怖かった! 着陸もできずにゲームオーバーかと思った!」
その言葉に、俺も全力で頷いた。
「えっ! ニワトリってあんなデカくなるの!?」
その俺の言葉に、瑛真くんがどこか安堵したような顔をしながらも、すぐに呆れた目を向けてきた。
「んなわけないだろ」
吐き捨てるような言い方だったが、声にさっきまでの緊張は残っている。
俺だけじゃなく、瑛真くんも多少は驚いていたらしい。
すると澪さんが、窓から眼下を見下ろしながら冷静に口を開いた。
「ここは、私たちの島とは生態系が違うようね。虫も巨大化しているのか、ニワトリだけなのか……それとも、生き物全般がそうなのか」
呟くような声だった。
けれど、その目は真剣に陸を睨んでいる。
船内に再び静かな緊張が戻りかけたところで、操縦席から羽依さんのほわんとした声が聞こえる。
「着陸、どうする?」
その言葉に、地上を確認していた御影さんがこちらへ視線を向けた。
「天斗くん。大型の反応が弱い箇所はわかりますか?」
「やってみます」
俺は頷き、窓の外へ意識を向ける。
耳に集中した瞬間、頭の中へ音が一気に流れ込んできた。
森のざわめき。
枝の折れる音。
何かが地面を踏む重い振動。
小さなもの、大きなもの、近いもの、遠いもの。いろんな気配が重なり合って、頭の内側を掻き回すみたいに響いてくる。
思わず指先をこめかみに添えた。
頭が割れそうだ。
それでも俺は息を詰め、音の薄い場所を探す。
方角。
どっちだ。
どこが少ない。
じっとしていると音が重なってわからなくなる気がして、俺はその場でゆっくりと身体を回した。右へ、左へ、少し戻って、また回る。周りからどう見えているかは考えないことにする。
今は、とにかく探すのが先だ。
方角。
方角、方角……。
「……その間抜けな回転に、意味はあるのか?」
やっぱり瑛真くんである。
声だけでわかるくらい、呆れきった言い方だった。
「あー! もう! 静かにしてろよ! 集中してんの!」
そう吐き捨て、俺はもう一度ゆっくりと身体を回した。
ぐるり。
また、ぐるり。
気配の少ない方向。
大型のものが少ない場所。
完全に安全な場所なんて、たぶんこの島にはない。
それでも、ましな場所ならあるはずだ。
「あっ! あった!」
俺は回転を止め、びしりと一点を指さした。
御影さんは余計なことを聞かず、一つ頷く。
「二十時の方向です」
すぐに羽依さんへ向けて告げると、操縦席からいつもの調子の返事が返ってきた。
「おっけー」
次の瞬間、機体がゆっくりと方向を変え始める。
窓の外の森が流れ、さっき俺が指した方角へ船が進んでいく。
「あの、全くいないわけじゃなくて、少ないってだけだけど……」
少し不安になってそうこぼすと、御影さんはすぐに頷き返してくれた。
「わかっています。それでも十分役立つ情報です」
その返事に、俺はほっと胸を撫で下ろした。
森の上を抜けた先に見えてきたのは、街の名残だった。
最初に目に入ったのは、地面を覆う石畳だ。
俺たちの島で見慣れた土の道ではない。灰色の石が規則正しく敷き詰められ、広い道のように森の中へ続いている。
けれど、その石畳はところどころひび割れ、隙間から細い草や若い木が顔を出していた。木の根が下から石を押し上げている場所もあり、道は波打つように歪んでいる。
人が作ったものを、森がゆっくり飲み込んでいる。
そんな景色だった。
石畳の両脇には、朽ちた建物がいくつも並んでいた。木でできた家はほとんど崩れ、柱だけを残して地面へ沈むように倒れている。屋根の跡には蔦が絡まり、窓だった場所からは細い枝が外へ伸びていた。
石造りの建物は、まだいくらか形を残していた。
けれど、壁は黒ずみ、ところどころ崩れている。中には二階部分がなくなり、壁だけが空へ向かって立っているものもあった。窓枠の向こうは暗く、何もいないはずなのに、誰かがこちらを見ているような気がする。
俺たちの島にも古い建物はある。
でも、ここは違う。
生活の跡があるのに、生活の音がしない。
人のために作られたはずの道を、今は草と木の根が奪い返している。風が吹くたび、壊れた看板らしき板がかたかたと揺れた。そこに書かれていたはずの文字は、雨風に削られてほとんど読めない。
「……街、だったんだ」
思わずそう呟いた。
村とも、総首都とも違う。
ここには確かに誰かが住んでいた。道を作り、家を建て、きっと食べて、働いて、誰かと話していたはずだ。
なのに今は、森のざわめきだけがそこにある。
別の世界に来たのだと、ようやく身体が理解した気がした。
「着陸しやすい。ここに降ろす」
操縦席から羽依さんの声がした。
船は石畳の広い場所を選ぶように、ゆっくりと高度を下げていく。機体の下から風が吹き出し、石畳の隙間に溜まった枯れ葉や砂埃が円を描いて舞い上がった。
やがて、軽い衝撃とともに船が地面へ降りる。
「少し、様子を見ます。皆さんは周囲の気配を探ってください」
御影さんが静かにそう告げる。
俺は耳を澄ませる。凪も目を閉じ、澪さんは窓の外へ鋭い視線を向けていた。瑛真くんは何かの計器を確認し、朝陽はいつでも動けるように腰の武器へ手を添えている。
五分ほど経っただろうか。
近くに大きな気配はない。
俺が頷くと、御影さんも周囲を確認し、ようやく機体の扉へ手をかけた。
空気が抜けるような音とともに、扉が開く。
知らない島の匂いが、船内へ流れ込んできた。
御影さんを先頭に、俺たちは慎重に地面へ降り立った。
靴底が石畳に触れる。
それだけのことなのに、胸の奥から変な安心感が込み上げてきた。さっきまで空の上にいて、落ちるだの死ぬだの叫んでいたせいだろう。俺は思わずその場で大きく背筋を伸ばした。
「あぁ! 着いたー! 身体いてー!」
声に出してしまうくらい、全身が固まっていた。肩も腰も変なところに力が入っていたらしく、伸びをするだけであちこちがばきばきと鳴りそうになる。
後ろから降りてきた凪が、石畳を踏みしめるようにしてぽつりと呟いた。
「もう、地面踏めないかと思った」
その気持ちのこもった一言に、俺は何度も頷いた。
わかる。ものすごくわかる。
そう思っていると、御影さんの声がこちらへ飛んできた。
「ここから先は武装を解かず、必ず手にしてください」
御影さんは腰に、あの長い包丁のような片刃の剣を下げていた。片手でも両手でも扱えそうな、厚みのある剣だ。さらに反対の手には銃を持っていて、さっきまでの穏やかな雰囲気とは違い、完全に軍人の顔になっている。
その言葉に、俺は腰のホルターに差している斧へ指を這わせた。
反発石製の斧は、訓練用とは違って本物だ。触れただけで、手のひらに馴染む重さがある。これを抜くような事態にならない方がいい。そう思いながらも、いつでも引き抜けるように意識だけは向けておく。
後ろにいる凪は、自分の身長とほとんど変わらない大身槍を背中に背負っていた。穏やかな顔つきとは裏腹に、その槍はかなり大きい。太い柄に、幅のある刃。
朝陽は、腰の左右に中くらいの長さの双剣を下げている。いつもの軽い笑顔のままだが、手はすぐ抜ける位置に添えられていた。御影さんとは違う、動きながら斬り込むための武器だ。
澪さんは片手用の小型銃を手にしていた。黒いロングコートの内側にも何かを隠しているようだったが、今は見えない。銃を構える姿が自然すぎて、ただの外交担当という言葉が一気に信用できなくなる。
瑛真くんは腰に曲線を描く剣を下げ、さらに片手には薄い金属ケースのようなものを持っていた。中身までは見えないが、あれが彼の武器なのだろう。目だけは周囲の建物と森を忙しなく確認していて、苛立っている時とは違う鋭さがあった。
羽依さんは戦う気がなさそうに見えるのに、腰の工具ベルトには見慣れない筒状の道具がいくつも差し込まれている。眠たそうな顔で船体を見ているせいで緊張感は薄いが、この人はこの人でいつでも船へ戻れるようにしているのだとわかった。
「今日はこのまま船の周辺で簡易の野営を組みます。明日以降、安全が確認できたら、この船を中心にテントを張り、ここを拠点として島を調査します」
御影さんがそう説明している間にも、朝陽は船の中から何かを下ろし始めていた。
折りたたまれた支柱のようなもの。金属の板。黒い箱。それらを慣れた手つきで石畳の上へ並べていく。
俺が思わずそちらへ目を向けていると、御影さんが気づいたらしく、朝陽の方を指さした。
「今、横山君が設営しているのは、国が非常用に準備していた、持ち運び可能な反発石製の安全装置です」
御影さんの言葉を引き継ぐように、澪さんが口を開いた。
「市街地で使っている防壁装置の簡易版ね。巨大な虫みたいに、体内に反発石を持つ生き物なら弾き返すことができるわ。それから、三十分だけなら、すべての物体を弾く壁を作ることもできる」
「全部……?」
思わず聞き返すと、澪さんは軽く頷いた。
「ええ。虫も、人も、飛んできた石も。外から入ろうとするものをまとめて弾く。ただし、使える時間は短いし、再起動にも時間がかかる。だから万能ではないわ」
澪さんの説明を聞いている間にも、朝陽は手慣れた様子で支柱のようなものを石畳へ固定していた。瑛真くんも、それが何なのか最初から知っていたのだろう。無言のまま朝陽の横へ立ち、黒い箱から伸びる細い線を確認している。
俺と凪は、思わず感心したように相槌を打った。
「すっげ。そんな便利なものあったんだ」
俺がそうこぼすと、澪さんは少しだけ眉尻を下げて笑った。
「まぁ、今回はごねて貸してもらったわ。本来は国の危機に瀕した時に、お偉いさんたちが逃げ込むための装置よ。とっっっても高いの」
そう言って微笑む澪さんの顔は綺麗だった。
綺麗だったけど、圧がすごい。
俺と凪は一瞬だけ目を見合わせた。
「絶対触れないでおこう」
「うん。触らない方がいいね」
二人で真顔のまま頷き合う。
そんな俺たちを横目に、設営慣れしている御影さんと朝陽の手で、夜の準備は着々と整っていった。支柱が立ち、機材が固定され、船を中心に簡易的な安全圏が形作られていく。羽依さんは船の状態を確認し、瑛真くんは安全装置の反応を計器で見ていた。澪さんは周辺の地形を目で追い、凪は石畳の隙間から生えた草をじっと観察している。
俺は腰の斧に手を添えたまま、ゆっくりと周囲を見回した。
日がオレンジに変わり、森の向こうへ沈もうとしていた。
俺たちの島なら、この時間には家から晩飯の匂いがする。畑仕事を終えた人の声がして、どこかの家で鍋の蓋が鳴って、実里が「ごはんまだ?」と母さんに聞いている頃だ。
けれど、この島にそんな音はない。
石畳の割れ目を抜ける風と、森の奥で鳴く、どこかで聞いたことがあるような生き物の声だけが、暮れかけた街の跡に響いていた。




